第11話 橘がひとまず無事に帰還する

 橘は大丈夫なのか――。


 いったん薄らいでいた不安は、翌朝、彼が発ったあとに再び増殖を始め、結局、土日の二日間はどこで何をしていても心ここにあらずの状態だった。


 筑波山の麓にあるという研修施設に滞在している間は〝スマホ使用禁止〟だというから、連絡を取る術もない。とりとめのない想像ばかりが膨らんでしまって、余計に落ち着かなくなる。


 それでも、土曜日恒例の準硬の練習に参加している間だけは、一時的にせよ心の中の暗雲は遠のいてくれた。グラウンドの土の匂い、金属バットがボールを弾く音、先輩たちの冗談まじりの喚声。それらに囲まれていると、平穏な日常に引き戻される気がした。


 こんなとき、準硬のメンバーが良い人たちで本当に良かったと思う。同期生の薮川だけは相変わらずの塩対応だけど、今は逆にその変化のなさが救いだった。自分は非日常に接しているけれど周囲はいつもどおり――その事実が、どういうわけか心の支えになっていた。


 しかし、練習を終えて帰宅し、かなり日の長くなった夕暮れ時を迎えると、じわじわと胸の奥に冷たいものが広がっていく。無人の隣室から漂ってくる、言葉にしがたい圧迫感。普段はめったにない無音の気配が、たとえようもなく重苦しい。


 橘から預かったUSBメモリーは机上に置いてある。今や彼の命綱に等しいアイテムだけれど、これが視界に入るたびに僕は不安と焦燥に襲われた。中身に目を通しておこうかと何度か考えたものの、それをするとなぜか良くない結果を招きそうな気がして、結局、手を出せないまま時間だけが過ぎていく。


 橘は、まだセミナーの真っ最中なのだろうか。合宿形式のセミナーだから、夜も課業があると言っていたな。そう思うほどに、胸の奥のざわつきは強くなるばかりだった。


 ◇


 そして、日曜日。


 気を紛らわせようとする試みも限界を迎え、一人で部屋にいるのがどうにも耐えられなくなった僕は、少し離れた場所にある硬式野球部のメイングラウンドまで足を運んだ。練習試合を眺めていても、プレーの内容があまり頭に入ってこない。それでも、風の感触や観客席のささやかなざわめきに触れていると、いくらか気持ちが救われた。


 試合のあと、他の部員たちと一緒に引き上げる兼城の姿を見つけて、少し言葉を交わした。兼城にだけは、橘の一件のあらましを話してある。


「そうか。やっぱり参加しちまったんだ」

 と、彼は眉を曇らせた。


「でも、遼太の話を聞く限り、その橘って、周りに影響されやすい感じしないからさ、大丈夫じゃないか?」


 兼城が励ますように続けたところで、彼を呼ぶ先輩の野太い声が聞こえた。


「おっ、ゴメンな。俺、行くわ」


 そそくさとボールケースを担ぎ直して、兼城は足早に去っていく。あいつも相変わらず大変だな、などとぼんやり考えながら、僕は帰路についた。


 昼過ぎに帰宅し、夕方へと時間が進むにつれて、周囲の明かりがゆっくりと落ちていく。


 セミナー終了予定時刻の午後五時を過ぎた。黄昏色が深くなるほどに、僕の中の不安もまた色濃くなっていく。


 時計の針が六時を回り、七時に近づいてきた。橘は、まだ帰ってこない。


 僕は机上のUSBメモリーにちらと目をやってから、ベッドに腰を下ろした。八時を過ぎても橘が戻らなかった場合、これを持って警察に駆け込むことになっている。タイムリミットまで、残り一時間あまり。


 いよいよ動かなければならなくなるとしたら――それまでに、やはりこの中身を確認しておいたほうがいいんじゃないだろうか。橘は、黎史探究会との関わりを時系列にまとめたものだと言っていたが――。


 僕はUSBメモリーを手にとってノートパソコンに向かう。胸の鼓動が、自分のものとは思えないほど大きく響く。


 さんざん迷ったあげく、USBメモリーをスロットに差し込もうとしたそのとき――玄関のドアの向こうに、ふいに人の気配が生じたと思うと、チャイムが鳴った。


 反射的に立ち上がった僕の耳に届いたのは、

「近藤くん、今、帰ったよ」

 ドア越しの橘の声だった。


 玄関まで駆け寄り、慌ただしくドアを開けると、そこには二日前と変わらない橘の姿が――。


「よかった。無事に帰ってこれたんだな」


 胸のつかえが一瞬で消え去り、思わず安堵の声が洩れる。


「うん。約束どおりに、ね」

 と、橘は少し照れたような笑みで応えた。


「まあ、とにかく中に入れよ」


 僕は橘を部屋に招き入れ、グラスに麦茶を注ぎながら冗談めかして言う。


「まさか、洗脳とかされてないよな」

「当たり前じゃん。ボクはボクのままだよ」


 そう言う橘は、少し疲れた様子こそあれ、口調も仕草も僕の知っている彼そのものだった。


 差し出した麦茶を「ありがとう」と受け取り、ほとんど一気飲みしたあと、橘は机上のUSBメモリーに目をとめた。


「あ、これも用済みだね。結局、出番がなくてよかったけど」

 と、ポケットにしまい込む。


「ところで――」セミナーはどうだった?と問いかけようとして、僕は急に空腹を覚えた。ついさっきまでは、心配でメシどころじゃなかったから。


 こうして橘が無事に戻ってきたんだし、とりあえずセミナーのことは脇に置いておいて、今夜は橘の帰還を祝ってパーッと外食するのもいいんじゃないか。


 そう提案すると橘も、

「いいね。それじゃ、部屋に荷物置いてくるから、ちょっと待ってて」と、二つ返事で乗ってきた。


 大学通りまで出て、ときどき準硬のメンバーと一緒に行く焼肉屋に入った。ここは初めてだという橘は、物珍しげに店内を眺めている。


 ノンアルドリンクで乾杯し、美味い肉をたらふく味わいながら、二日間の労を互いにねぎらった。


 それから橘は、問わず語りにセミナーのことについて話し始めた。


 参加したのは、橘を含めて五人の男子学生。北関東大生は橘一人で、あとの四人はそれぞれ違う大学の学生だったそうだ。食事と入浴と軽い運動と睡眠以外の時間は、すべて講義やディスカッションに当てられて、みっちりと黎史探求会の理念や主張をすり込まれたという。


「そんなのによく耐えたよな。僕だったら途中でギブアップしてるよ。参加できなくって正解だったのかも」


 僕が率直な感想を口にすると、

「しんどくなかったわけじゃないんだけどさ」

 と、橘は苦笑を浮かべた。


「講義を聴きながら、自分なりに理論の再構築をしてたんだよ。その作業に不必要と思われる話は、ほとんど聞いてなかったし」


 橘の言う〝理論〟がどういうものなのか、僕は訊ねなかった。説明してもらっても、おそらく理解できないだろう。


 ただ、そうやって淡々と語る橘の様子を見ていると、セミナー参加前に彼が言っていたように、黎史探究会の教えや理屈に感化されているわけではなく、自身の人生の指針を見つけ出すため、主体的に黎史探究会の学びを利用しているように思えた。


 本当に橘は〝大丈夫〟なのかもしれない――そんな気がしてくる。


「それで、再構築ってのはうまくいきそうなのか?」


 僕の問いに、橘は小さくかぶりを振った。


「結論から言うと……先はまだ遠いと思う。黎史探究会の教義って、一応の整合性は保ってるんだけど、いくつかの決定的なピースが抜け落ちてる感じがするんだ」


 橘が何を言わんとしているのか、もうよくわからなくなっている。


「彼らの主張の根拠となるデータや資料は提示されたものの、どれも断片的で曖昧なものが多くてさ。論拠として納得できるレベルじゃ、なかった……んだ」


 語り終える頃には、橘もあくびを噛み殺していた。さすがに疲れたのだろう。


「焼肉でスタミナ補給もできたし、そろそろアパートに戻ろうよ」

 と、おもむろに橘は身支度を始めた。僕にも異存はない。


 二人並んで帰り道を歩きながら、僕はしみじみと言った。


「とにかく、無事に戻ってきてくれてよかったよ。今夜は安眠できそうだ」


 橘は少し恐縮した顔で、

「心配かけて本当にすまなかった。でもね、近藤くんが隣にいてくれて、ボクはありがたいと思ってるよ。縁に感謝しないとな」

 と、静かに返した。


 その言葉が胸に温かく染み込んで、僕は思わず歩みを緩めた。


「縁……か。絆と言ってもいいかもな」


 自然にそんな言葉が口をついて出る。橘が無言で柔らかく笑った。


 アパートの灯りが近づいてくる。


 ただ、この時の僕はまだ知らなかった。橘の中で芽生えつつあった〝何か〟が、これから徐々に輪郭を帯びていくことを。そして、僕と橘との心温まる交流が早くも終わりを迎えようとしていることを。


 ◇


 橘がセミナーから無事に戻ってきてひとまず安堵したものの、僕の心の平穏は翌日までしか続かなかった。


 月曜日の夜、僕の部屋での晩飯の最中に、橘はセミナーで学んだ「四相循環滅亡論」という理論(?)について解説を始めた。


 それによると、文明や国家は必ず、創発相(光の萌芽)、拡張相(影の拡大)、硬直相(鎖の時代)、虚無相(崩壊の黄昏)という四つのフェーズを経て自壊に至るのだという。


 橘は、その詳細を熱っぽく語ってくれたんだけど、それは僕の頭ではもう理解の及ぶ範囲を越えていた。あの〝歴史ディナー〟で聞かされた話の拡大版みたいだなと考えながら、橘のよく動く唇が難解な言葉をつむぎ出すのを、僕はひたすら眺めているしかなかったんだ。


 ただ、その後も僕に対する橘の態度に大きな変化はなかった。大学でのできごとや、サークル内のうわさ話、他愛のない雑談になると、今までと変わらない穏やかさと朗らかさが戻る。だから、僕は不安を感じつつも「彼は大丈夫だ」と自分に言い聞かせていた。


 ところが、テレビのニュースで政局や社会情勢が取り上げられると、橘は一転して表情を引き締め、厳しい口調で言葉を発するようになった。いわく「未覚醒の存在」「俗世からの解放」「形式空洞社会」「虚偽のアイデンティティ」「勇気ある断罪者」など、妙に小難しげで耳慣れない抽象語が次々と飛び出して、内容もどんどん現実離れしていった。


 僕は胸の内の戸惑いを悟られないようにしながら、慎重に言葉を選ぶ。


「なあ、橘くん。そういう話が大事なのもわかるけどさ、前みたいに小説やアニメとか、もっと気楽な話もしようぜ。黎史探究会の話題は、正直、僕には難しくなってきた」


 すると橘は、一瞬、真顔になって固まったのち、ふっと力の抜けた笑みを浮かべた。


「ごめん、近藤くん。ボクはもうフィクションには戻れないかもしれない」


 その一言に、僕は言葉を失った。胸の奥が、静かに、しかし確実に冷えていくのを感じる。


 一見、以前と変わらないように見える橘だけれど、内側では何かが変わりつつあった。それが〝洗脳〟に値するほど劇的な変化なのかどうかはともかくとして、あのセミナーが彼の思考や価値観に少なからぬ影響を与えたことだけは疑いようがなかった。


 それから三週間あまりの間に、橘がアパートを空ける時間は、目に見えて増えていった。夜になっても隣室に明かりの灯らない日が珍しくなくなり、夢うつつで橘の帰宅の気配を察することも多くなった。どうやら、あの〝歴史カフェ〟に足繁く通い詰めているらしい。


 それと反比例するように、大学構内で橘の姿を見かける機会はめっきり減った。講義棟の廊下でも、学食でも、以前なら自然と目に入ってきた彼の姿が、いつの間にか視界から抜け落ちている。勉学への興味を失ったというより、彼の興味関心の優先順位が完全に塗り替えられてしまったのだろう。


「今は、できるだけ自分の時間を優先したくてさ」


 橘は屈託のない笑顔でそう言うけれど、その〝自分の時間〟の大半が、黎史探究会の活動に費やされていることは明らかだった。


 壁一枚隔てただけの隣室に住んでいるはずなのに、彼は今、とても遠くにいるように感じられた。気づかないうちに、僕の知っている橘は、少しずつ、しかし確実に、別の場所へ歩いていってしまっている。そんな予感が、胸の奥に薄く影を落としていた。


 以前の橘なら、僕と話すとき、必ず真正面から目を合わせてくれた。言葉の端々に迷いがなく、笑うときには目じりがやわらかく下がって、そこに人懐っこい安心感があった。


 今でも、ふとした拍子にその表情を見せることはある。けれど最近は、視線の焦点が微妙にずれていることが増えた。こちらを見ているようで、実際にはどこか別のものを見つめている――そんな、心ここにあらずの時間が、確実に多くなっていた。


 セミナーから帰ってきた直後に醸し出されていた、あの穏やかな雰囲気。あれは、ほんの束の間の揺り戻しにすぎなかったのかもしれない。


 橘は変わってしまった。ようやく、そう認めざるを得なくなっていた。


 それでも、僕はまだ完全には諦めきれずにいる。時おり見せる、あの柔らかな笑顔に一縷の望みをつないでしまうんだ。そこに、確かに〝昔の橘〟の気配が残っているような気がするから。


 けれど、それ以上の速さで、橘はどこか〝別の場所〟へと進み続けている。その流れを引き止める術を、僕は持っていなかった。ただ立ち尽くしたまま、遠ざかっていく背中を見送ることしかできない――そんな無力感だけが、静かに着実に蓄積されていった。

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