第3話:川は、長かった
川は、長かった。
落ちるとき、一瞬だけ見えた流れ。
滝壺の先へ続いていた、水の道。
あれは――
偶然じゃない。
俺は焚き火の残りを確認し、迷わず足で踏み消した。
炭が砕け、赤い光が完全に消える。
火は便利だ。
だが、ここでは目立ちすぎる。
俺は川辺へ向かい、倒れていた細い木を選んだ。
枝を払い、槍と石のナイフで余計な部分を落とす。
ほぼ、丸太。
見た目は悪い。
だが、浮けばいい。
もう一本。
それから、もう一本。
三本を並べ、蔦と裂いた布で縛る。
結び目は雑だが、ほどけなければ十分だ。
足元は、別に濡れてもいい。
沈まず、流されず、移動できればそれでいい。
即席の筏。
俺は集めていた薬草と果実を布ごと乗せ、
槍を手に取った。
深呼吸。
そして、川へ押し出す。
筏はきしみながらも、水に浮いた。
流れに乗り、ゆっくりと前へ進み始める。
――行ける。
俺は筏に跨り、流れに身を任せた。
しばらくは、静かだった。
水音だけが続き、
岸の景色が、少しずつ流れていく。
森。
岩。
草。
空を見上げても、さっきの怪鳥の姿はない。
ひとまず――安全だ。
川は、思っていた以上に長かった。
筏は流れに乗り、黙々と下っていく。
岸の景色は少しずつ変わり、森が途切れ、また戻る。
時間の感覚は曖昧だった。
日がどこまで傾いたのかも、正確には分からない。
ただ、確かに――
しばらく、川を下った。
水音だけが続き、
俺は筏の上で膝を抱え、槍を手放さずに周囲を警戒していた。
空に影はない。
岸に動くものも見えない。
流れは、穏やかだった。
だが――
やがて、水の感触が変わった。
ごり、と筏の底が何かに触れる。
それから、何度か小さな衝撃。
流れが、弱まっている。
俺は筏から降り、川底に足をつけた。
水は、くるぶしほどの深さしかない。
筏は完全に止まっていた。
周囲を見回す。
川は大きく蛇行し、
その内側に、広い砂利の広場が広がっている。
白っぽい石。
丸く削れた岩。
足跡は……ない。
右を見る。
川沿いに、小山があり、なだらかな丘が続いている。
その向こうは、草原。
風が通り、視界は開けている。
左を見る。
森だ。
木々が密集し、奥は暗い。
湿った空気が、肌にまとわりつく。
俺は、筏を砂利の上に引き上げ、
積んでいた薬草と果実を確認した。
減ってはいない。
だが、増えてもいない。
――上から見てみるか。
俺は右の小さな山へ向かった。
登りは、きつくはない。
だが、足元は不安定で、砂利が滑る。
息を整えながら、黙々と登った。
やがて、視界が開ける。
俺は、立ち止まった。
目の前には、
視線と同じ高さまで広がる、木々の海。
どこまでも続く緑。
森。
だが――それだけじゃない。
その奥。
さらに向こうに、
いくつもの大きな山々が連なっているのが見えた。
険しい線。
人の手が入った形ではない。
煙は、ない。
道も、ない。
建物らしきものも、見当たらない。
「……」
言葉が、出なかった。
ここまで来て、はっきりと分かった。
――人の気配が、ない。
少なくとも、
俺が知っている「人が住む世界」の痕跡は、
どこにもなかった。
風が吹く。
草が揺れ、
木々がざわめく。
それだけだ。
胸の奥が、重くなる。
「……嘘だろ……」
呟いた声は、
風に攫われて消えた。
下を見れば、川。
右を見れば、草原。
左を見れば、森。
どこへ行っても、
助けがある保証はない。
俺は、しばらくその場に立ち尽くし、
遠くの山々を、黙って見つめ続けた。
だが、
いつまでも、ここで立ち尽くしているわけにはいかない。
気づけば、日が真上にあった。
影が、ほとんど伸びていない。
ここに立っていても、
何かが変わるわけじゃない。
感情は、まだ追いついていなかった。
胸の奥に重たいものが沈んだまま、動かない。
それでも――
動くしかない。
俺は小さく息を吐き、山を下りた。
筏のところへ戻り、
川沿いの岩肌が切り立った場所を選ぶ。
風を背にし、
上から見えにくい角度。
筏を引きずり、斜めに立てかける。
岩と地面の間に、隙間ができた。
これでいい。
俺は荷を下ろし、
焚き火から持ってきていた火種を取り出す。
炭は、まだ生きている。
乾いた草を置き、
小枝を組み、
息を吹きかける。
ぱち、と音がして、
弱い炎が戻った。
枝を足し、
葉をかぶせ、
筏の裏側へと固定していく。
即席の屋根。
即席の壁。
見た目はひどい。
だが、風は防げる。
雨も、多少は凌げる。
俺は一歩引いて、それを見た。
――シェルター。
住む、というより、
「死なないための場所」だ。
中に潜り込み、
荷をまとめて置く。
薬草。
果実。
槍。
火を弱め、
煙が立たないよう調整する。
しばらくして、
体を岩に預け、腰を下ろした。
静かだ。
川の音。
風の音。
遠くで、鳥の声。
それだけ。
「……ひとまず……」
言葉にしてみたが、
続きは出なかった。
ここに、拠点を構えるしかない。
それが、
今の俺にできる、唯一の選択だった。
俺は膝を抱え、
岩陰から外の景色を眺める。
草原。
森。
川。
逃げ場は、まだある。
生きている限り、
次は、選べる。
そう自分に言い聞かせながら、
俺は、火が消えないよう目を離さず、
じっとその場に留まった。
持ってきた果物のおかげで、
今すぐ空腹に襲われるような状況ではない。
口に含めば甘さが広がり、
体も、まだ動く。
だが――
それは、あくまで「今は」だ。
果実は減る。
薬草も、尽きる。
魚が獲れる保証もない。
食料は、有限だ。
ここに留まる限り、
探さなければならない。
俺は火を確認し、完全に消した。
炭をばらし、灰を散らす。
煙が出ないよう、火を落とす。
槍を手に取り、
腰に果実を一つだけ残す。
荷は、最小限。
森を見る。
暗い。
だが、隠れられる。
草原は開けすぎている。
空が、怖い。
――行くなら、森だ。
俺は岩陰のシェルターを出て、
足音を殺しながら、木々の間へ踏み込んだ。
光が、一段落ちる。
空気が変わる。
湿り気を帯び、匂いが濃くなる。
葉が重なり合い、
遠くの音が、くぐもって聞こえる。
一歩。
また一歩。
地面に注意を払いながら進む。
折れた枝。
掘り返された土。
獣道らしき筋。
何かは、いる。
それが何かは、分からない。
だが、
この森は「空っぽ」じゃない。
俺は槍を構え、
呼吸を整えながら、さらに奥へ進んだ。
――狩りだ。
生きるための。
森の奥へ進むにつれ、
足音を立てないことだけに、意識を集中させた。
呼吸を浅く。
槍を前に。
そのとき。
低い草の陰で、動く影が見えた。
――ウサギだ。
丸い体。
短い脚。
三匹。
草を食べながら警戒し、
跳ねる準備をしている。
だが。
頭に、角がある。
一本。
短く、硬そうな角が、額から突き出している。
「……」
一瞬、動きが止まった。
今は「見たことがない」が、
止まる理由にならない。
俺は姿勢を低くし、
静かに距離を詰めた。
あと、数歩。
そのとき。
ぱき。
足元で、枝が折れた。
――しまった。
角ウサギの耳が、跳ねる。
逃げる。
そう思った。
だが。
ウサギは、逃げなかった。
跳ねた。
一直線に――こちらへ。
「っ!?」
予想外の動きに、
体の反応が、一拍遅れる。
次の瞬間。
衝撃。
鈍く、重い感触が腹に突き込まれた。
「ぐぁっ……!?」
息が、一気に抜ける。
角だ。
角が、腹に――刺さっている。
激痛。
内側を、えぐられるような感覚。
視界が、白く弾けた。
体が、前に折れる。
だが――
逃がさない。
俺は咄嗟に、
角ウサギの首元を掴んだ。
毛が、手の中で潰れる。
ウサギが暴れる。
爪が腕を引っかく。
構わない。
俺はそのまま、
全体重を乗せて――
地面へ、叩きつけた。
鈍い音。
一度。
もう一度。
抵抗が、止まる。
骨が砕けた感触が、手に伝わった。
……殺した。
俺はすぐに、顔を上げた。
周囲を確認する。
木々。
影。
動く気配。
……ある。
足音。
複数。
だが、遠ざかっていく。
逃げた。
仲間だ。
「……くそ……」
膝をついたまま、
腹を押さえる。
痛い。
息をするたび、焼けるように痛む。
だが、血は――思ったほど出ていない。
角は、深くは入っていなかったらしい。
それでも、十分すぎるほどの痛みだ。
俺は角ウサギの死体を引き寄せ、
すぐに森の奥へ視線を走らせた。
追ってはこない。
……逃げた。
獲物は、手に入れた。
だが――
完全に、出し抜かれた。
(なんなんだこの場所は……)
この森では、
小さな獲物にすら、油断すれば命を持っていかれる。
俺は歯を食いしばり、
腹の痛みをこらえながら、ウサギを担ぎ上げた。
「……生きるのもッ……楽じゃない……」
呟きは、木々に吸われて消えた。
それでも。
血を流し、
痛みを感じ、
獲物を掴んでいる。
――まだ、俺は生きている。
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