第2話:女体

 シオン・ラングモアの母、シエラ・ラングモアは特別な地位や能力などは持たない、ごく一般的な女性であった。

 唯一の特徴といえるのは、市街を歩けば一際目を引く美貌と、祖母の血筋を由来とする綺羅びやかな銀髪くらいであろう。


 彼女が生を受けたのは、セルバニア王国ルードヴィング領の中核都市、タルトン市。

 両親は市内で酒場を営んでおり、彼女も幼い頃より看板娘として家業の手伝いに勤しんだ。


 十四歳でグラマースクールを卒業する頃には、市内でも有数の小町に成長していた。

 店に来る客の半分は名物の兎肉のソテーとエールが目当てで、もう半分はシエラの笑顔が目当て。

 男たちは彼女をものにしようと足繁く店へと通い、誰がこの高嶺の花を口説き落とすのかで賭けもよく盛り上がった。


 しかし、彼女の心を射止めたのは、街の有力者でも金持ちの商人でもなかった。


 彼女が恋に落ちた相手は流れの冒険者、ジョナサン・ラングモア。

 彼は店にくるなり、一番安い酒を頼んでは、その日にあった冒険譚を楽しそうに語った。

 

 巨大な狼を退治した話や、古代遺跡で罠にかかった話。

 そのどれもが嘘か誠か分からない荒唐無稽な内容だったが、彼の瞳はいつも少年のように輝いていた。

 街の人間にはない冒険者特有の鋭い闘気を持ちながらも、どこか抜けた愛嬌を持つ彼に、彼女は少しずつ惹かれていった。


 だが、両親をはじめとした周囲の者たちは、それを決して祝福しなかった。

 どこの馬の骨かも分からない流れの者に娘はやれないと猛反発にあった二人は、半ば逃げるような形で市外へと駆け落ちした。


 僅かな金だけを持った着の身着のままで、タルトン市から南方へと約20km離れた辺境のサットン村へと移り住み、その郊外に小さな家を建てて新たな住居とした。

 身持ちを固めたジョナサンは危険な冒険者稼業から足を洗い、近くの鉱山で鉱夫としての働き口を得た。


 慣れぬ生活に最初は苦労も多かったが、互いに支え合い、生活は次第に安定していった。

 そして移住から半年が経った頃、シエラはその身に新たな生命を授かった。

 二人はその事実に涙して抱き合い、神が自分たちの婚姻を許し、祝福してくれたのだと大いに喜んだ。


 そうして、二人はどこの世界にもありふれた、けれどかけがえのない人並みの幸せを手にした……はずだった。


 ***


 ――シオン・ラングモアの生誕から一週間。


 午後の柔らかな木漏れ日が差し込む寝室で、シエラ・ラングモアは、まだ眼の前の光景に現実感を持てずにいた。


 本来なら産後の安静期間を終え、初めての子育てに苦心しながらも、愛する男との間に生まれた最愛の娘との新しい生活が始まっているはずだった。


 しかし、今彼女の目の前にあるのは大凡おおよそそれとは真逆――自分の正気さえをも疑いかねないような異常な光景だった。


「こぉぉぉ……」


 生まれたばかりの娘が二本の足で自立している。


 いや、それだけではない。


 腰を深く落とし、両の拳を腰だめに構え、腹の底から大地を震わすような深い息を吐き出している。

 その呼吸は、ただ空気を出し入れしているだけではない。

 へその下辺り――丹田と呼ばれる部位に力を込め、体内の気を練り上げている重く響く呼吸だった。


 あどけない顔つきとは裏腹に、その全身から立ち昇る気迫は、歴戦の武人のそれであった。

 初めての子育てでも、これは成熟が早いなどという次元ではないのがシエラにも分かった。


「し、シオン……? 何してるのかしら~……?」


 シエラが恐る恐る、我が子の背中へと話しかける。


 だが、返事はない。

 シオンは壁の木目に何かを幻視しているように、構えを取ったまま微動だにしない。


 その目が何を見据えているのか、シエラには全く理解できなかった。

 まるで、そこには見えない敵が存在していて、命のやり取りをしているかのような緊張感。

 赤ん坊のぷにぷにとした体付きからは想像もつかない、研ぎ澄まされた闘気が漂っている。


 先日は夫のジョナサンにも、この娘の異常な成長の早さへの不安を相談した。

 しかし、彼は能天気に『元気がいっぱいでいいじゃないか! 僕の娘だし、将来は冒険者かな』と能天気に笑った。

 彼はアホだった。


 想像していた母親としての新生活との差異に、シエラが深い溜め息を吐くと――


「ふやっ……!」


 不意に、シオンが掛け声と共に拳を前方に突き出した。

 風を切る音すら聞こえそうな鋭い突き。

 静寂の中での突然の行動に、シエラはビクッと身体を震わせる。


「し、シオン……? 今度はどうしたの……?」


 何かの意思表示だろうかとシエラは再びシオンの背に話しかけるが、やはり返事はない。

 何故ならシオンの胸中は今、ただ一つの想いに支配されていた。


 不覚。

 只々、不覚だ。

 己の蒙昧もうまいさを恥じ入るばかりだ。


 一つの人生を全て、武に捧げた。

 極みを目指して、ひたすら道を邁進した。

 多くの求道者を打ち倒し、自然の力を我が物とし、人類の叡智をも上回った。

 あまつさえ、人の身で出来うる全てを修めた……と思い込んでいた。


 しかし、それは道の半分にも達していなかったのだと、不覚にも今知った。


 シオンは突き出した己の、紅葉のような拳を凝視する。


 握りは柔く、骨格は華奢で、膂力は脆弱。

 前世のような、鋼鉄の如き筋肉も、岩盤のような骨密度もない。

 頼りなく、吹けば飛ぶような綿毛の如き脆い肉体。

 しかし、これまでに感じたことのない独特のしなやかさがある。


 そう、女の身体だ。

 長い人生を経ても、女の身体はまだ試していなかった。

 人生は一度という先入観に囚われていたが故の盲点だった。


「きゃっきゃっきゃ……(くっくっく……)」


 己が拳を見て、シオンは自嘲気味に笑う。

 声を上げて笑ったのはいつぶりだったかと、それが更に笑いを誘う。


 僥倖ぎょうこう

 つくづく、僥倖だ。


 固有の寿命が尽き、己の武は終わったはずだった。

 しかし、僥倖にも再びその果てしない山道を登る機会を得た。


 それも最初から、前回とは違う道程で。

 この肉体で再び武の山を登れば、今度こそはかつて届かなかった頂きへと届きうるかもしれない。


「きゃっきゃっきゃ……!(はっはっは……!)」


 まるで産声のように、シオンが笑声を上げる。


 母シエラ・ラングモアは、どこにでもありふれた平凡な幸せを手にしたはずだった。

 少なくとも、生後間もない娘が自らの拳を見つめて大笑いするまでは。

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