昭和境界異聞録―鏖殺の覡と永遠の果実
涼兼
第1話
昭和八年二月下旬の東京は、季節外れの雷雨に見舞われていた。
時刻は十六時過ぎ。けたたましい雷鳴と荒れ狂う風雨のために、銀座新橋の大通りには、人影ひとつ見当たらない。
そんな通りには、降り注ぐ雨の隙間を縫って、微かに奇妙な音が反響する。
ぐちゅ、ぶち――肉を引き千切り、すり潰すような音。それを追って脇に伸びる路地のひとつを覗き込めば、およそこの世のものとは思えぬ異形の群れを確認できるだろう。
数は十余り、背丈はヒトより一回り小さい程度。のっぺりとした漆黒の肌に、全身に浮かんだ無数の瞳。不自然に大きな口からは薄汚れた牙を覗かせる。
黄ばんだ歯列の隙間にはヒトの毛髪。彼らは泥水を被ることも躊躇せず、足元に転がる肉の塊を一心不乱に貪っている。
濃紺の衣類に包まれ、微かにヒトの姿を残した肉。布地には金糸の刺繡が縫い付けられているから、生前は恐らく警官だったのだろう。
「――美味いか」
ふと路地の入口から、若い男の声がひとつ。食事の邪魔をする不埒な輩は一体何者だろう。異形の食指が止まり、無数の瞳が一斉にそちらへ向けられる。
「さぞ美味いんだろうな。こうやって話し掛けられて、やっと僕に気付くなんて」
そこにいたのは、暗き荒天の中に在っても尚黒き、一人の少年。
その言葉は凍土のように冷たく、しかし煮え滾る溶岩のような熱も籠められている。
激烈な殺意。決して許しはしない、一抹の慈悲も与えはしないと暗に語っているのだ。
御影奏彌(ミカゲ ソウヤ)。人の姿を成した黒。
重く淀んだ闇の中に在って、その闇すら吞み込むかの如き、一つの黒がそこにいる。
年は精々十六か十七程度だろう。目元の深い隈は一目で不摂生を察することができ、荒れ果てた黒髪から覗く瞳は、底無しの闇で満たされている。
纏う衣類も黒一色。上着と皺だらけのシャツは雨水を吸ってべったりと肌に張り付く。
ともすれば、異形に仲間と認識されそうな容貌。しかし彼らは奏彌の問いに応えない。
「キキ……ケ……ア……?」誰かの知り合いかとでも言いたげに首を傾げ、左右の仲間と目を合わせる。その反応を前にした奏彌は、どこか安堵にも似た溜息を吐いた。
「忘れろ……一度でも理解を求めた僕が馬鹿だった」
ヒトを襲い、その臓腑を食らうバケモノの群れ。怪異に魔術、天使に悪魔――数多くの超常に溢れた世界にあって、ごくありふれた存在の一つ。人類開闢より幾万年、熾烈な生存競争を繰り広げてきた敵の一員。
朝廷の東征に従って淘汰された、旧き土着の神々。信仰を失って零落し、遂には物言わぬ怪異と成り果てた存在――それが異形の正体だ。
彼らに近い存在と、奏彌は幾度か戦ったことがある。
夜闇や悪天候に潜んで暮らし、その知性は薄弱。特筆した能力も持たず、さりとて強靭な肉体を持つ訳でもない。
だから奏彌にとって、対話の試みは一時の気の迷いでしかなかった。
奏彌は上着の懐に手を伸ばし、一枚の札を取り出す。材質は和紙、寸法は紙幣大。表面には墨で複雑な文様が描かれている。それを指の間に挟み、誰に語り掛けるでもなく呟く。
「やれ――『十束白爪(トツカノハクソウ)』」それを合図に札が仄青く光り、白い雷を帯びた直剣に変化した。
ひとりでに浮遊する鈍色の十束剣は、異形に向かって脇目も振らず飛んでゆく。
そして、剣それ自体に意志があるかの如き光景が広がる。異形は次々に切り裂かれ、刀身から放たれる雷に焼かれ、そして死んでゆく。
そのような有様だから、異形は一目散に逃走を図る。しかしその様子を見た奏彌は、無言で冷淡な視線を放つ。逃がす筈もないとばかりに淡々と、新たに一枚の札を取り出した。
「通すな、『六甲湊盾(リッコウソウジュン)』」札が白い光と共に消滅すると、異形たちの行く手を遮るようにして、黒い六角形の障壁が出現した。
突然現れた壁に衝突する異形たち。彼らは怯みつつも爪や牙を突き立てるが、表面には掠り傷一つ付けられない。磨かれた鏡の如き障壁は、異形の退路を断つ袋小路を生み出す。
そこに宙を舞う剣の追撃。雨音を遮って風切り音が立て続けに響き、撒き散らされる鮮血が足元の泥水を紫に染めてゆく。
次々に屠られ、物言わぬ肉塊と化してゆく異形たち。窮鼠も同然の彼らの中に、猫に噛み付く者が現れるのも自然なことだった。
ふと異形の一匹が奏彌に向き直り、突然顎をかっと開く。
「―――ッ!!!」甲高い咆哮と共に、異形の口腔から光一つない黒がどっと溢れ出す。それはヒトの両腕が如く形を成し、瞬時に奏彌を包み込んでみせた。
宙を舞い同胞を切り刻んでいた剣が、力を失い落下する。そこからおよそ十秒弱、抵抗はない。異形は安堵し、強張った身体の力を抜く。
彼の背後に控える仲間もまた同様に、強張った全身を緩めて敵の死を喜ぶが……すらりと一筋の光が走る。黒い腕は内側から両断され、瞬き一つする暇もなく霧散してしまった。
その内から現れたのは、大人がすっぽり収まる程度の『卵』。その表面は滑らかで、先程の障壁と同様の黒を湛えている。
「舐めるな。僕が丸腰と思ったか」卵の殻がどろりと溶解し、引き攣った顔の奏彌が現れた。冷え切った視線はそのままに、眉間に寄せた皺だけが小刻みに震えている。
異形の手番は終わりだ。そして、彼らにとっての終わりが始まる。
落下した剣が再び浮上し、幾多の残像を生みながら回転を始める。さながら回転鋸のような剣が異形に襲い掛かれば、耳をつんざく断末魔の嵐。異形はたちまち無数の肉片と化し、最後の一匹が息絶えるまで、さほどの時間は掛からなかった。
そしてか細い断末魔が一つ。奏彌が声を発してから、この間およそ三十秒。戦闘と呼ぶにはあまりにも一方的で、それこそ屠殺とでも形容すべき一連の行動が、今終わった。
試合の終わりを告げる鐘の如く、一際大きな雷鳴が一つ。
纏わりつく湿気、肌がべたつく不愉快な感覚を振り払うように、奏彌は首を横に振る。
「――終わった」
異形の駆除は済んだ。群れは根絶したから、これ以上死人が生まれることもないだろう。しかし奏彌の表情が和らぐことはない。死骸の山に近付き、手頃な一匹の頭を踏み付ける。
「本気を出すまでもない。取るに足らない、雑魚の群れだった」
再び死骸を踏み付ける。異形の血液が飛散し、履き潰した革靴が紫に染まる。
鬼の形相で死骸を踏み付ける彼の脳裏に、いつかの記憶が蘇る。
「もっと早く、僕が来ていたなら」
彼の胸の奥底に、消えない憎悪の炎を灯した日。
己以外の全てを奪われた、決して忘れ得ぬ日の記憶が。
「こんなことには……ならなかったんだ!」
御影奏彌。超常と平常の境界に立つ、人の形を成した黒。
両者を隔てる壁として、彼は怪異を殺し続けている。
〈1923/09/01〉
逆巻く炎の腕たちが、天に向かって踊り狂う。
火災旋風に巻き上げられて、ヒトが枯葉のように飛んでゆく。
もっと命を、もっと悲鳴を――渇望の声が世界に木霊する。
ヒトも、獣も。有機物も、無機物も。炎は全てを包み込み、その全てを灰に変えてゆく。
天を仰げば、そこには恒星。眩い光を纏う何かが空に佇み、至る所に炎を撒き散らす。
東京。世界に冠たる八大列強、その一つたる帝国の中枢。
しかしその威容は見る影もなく、ここにはただ、死と怨嗟の声だけが満ちている。
大正十二(1923)年、九月一日。関東大震災。
首都圏を襲った震度六の大地震は、その後に待つ災禍の嚆矢に過ぎなかった。
空に現れた怪異の起こした大火災。封印から解放された種々の怪異たち。それらは容赦なく人間に襲い掛かり、火災の死者十万と合わせて、二十万を超す甚大な被害を齎した。
そして弱冠六歳の御影奏彌もまた、この世の地獄を彷徨う咎人の一人であった。
弱々しく渇いた喘ぎ声が、ひび割れた唇の隙間から漏れ出す。
髪は乱れ、衣類は焦げ、柔肌に走る無数の裂傷からは鮮血が溢れ出る。
その見窄らしい姿は、一見すると浮浪児のよう。しかしこの世の地獄に在って、ただ死んでいないだけの奏彌は、周囲の何物よりも『まとも』であった。
奏彌は歩く。怪異の咆哮も、そこかしこから聞こえる悲鳴も、今の彼には届かない。
彼を動かすものは一つ。生きろ―彼の頭蓋の内に反響する、彼を送り出した両親の声だ。
瓦礫に圧し潰され、迫る炎に身を焦がしながら、それでも一心に絶叫する二人の姿が、それ以外の全てを掻き消してしまう。
とめどなく溢れる謝罪の言葉は、理不尽への怒りと、親を見殺しにした己への糾弾だ。
「うあ……ごめん……ごめんな、さい……あ」
瓦礫に躓き、顔から倒れ込む。炎に焼けた土が柔肌を苛み、抗い難い激痛をもたらす。
さながら鉄板の上で焼かれる肉のようだ。生まれて初めて味わう種類の苦痛が、奏彌から再び立ち上がるだけの気力を奪い去った。
それまで必死に抑えてきたものが、涙となってどっと溢れ出す。
「なんで……なんで……っ⁉」
嗚呼、どうしてこんなことに。幼い彼は世界に問い掛けるが、無論誰も答えはしない。
迫り来る死を前にして、奏彌はこの世の全てを嘆く。
こんなところで自分は、訳も判らぬまま殺されるのか。
「まだ、なにも」
しかし幼い少年は、未だその命を燃やし尽くしていない。
本能的な生への渇望が、干乾びかけた彼の全身に燃料を投下する。
「何一つだって、できてないのに!」
――憎悪とか呼ばれる、どす黒く粘ついた燃料を。
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