第3話
自動卓が牌を吸い込む、不気味なほど低い駆動音だけが部室に響いている。 その音は、まるで巨大な怪物が敗者の誇りを咀嚼しているかのようにも聞こえた。
対面に座る紅葉は、指先ひとつ動かすことができずにいた。 嶺鳳のエース、次期プロ候補。 数多の称号に彩られた彼女のプライドは、いま、僕が提示した無機質な演算によって、見るも無惨に剥ぎ取られている。
紅葉の瞳には、涙すら浮かんでいない。 ただ、自分の魂の拠り所であった「理論」が、それを生み出した創造主の手によって否定されたことへの、根源的な恐怖だけが刻まれていた。
「……嘘。こんなことが、あり得るはずがないわ」
紅葉の唇が、震えながら言葉をこぼす。 その声は、かつての凛とした響きを失い、深い
「私の……。私が信じて、積み上げてきた麻雀は何だったの? 零理論は、絶対の正解だったはずよ。それを、あなたが……牌磨きのあなたが、あんな無慈悲な理由で否定するなんて……っ!」
僕は、静かに立ち上がった。 椅子の脚が床を擦る硬い音が、静まり返った部室に不吉な余韻を残す。 僕は紅葉の絶望に寄り添うことも、その屈辱を嘲笑うこともしない。 ただ、彼女が「神」と崇めていた理論の死骸を、冷徹に見下ろした。
「立花さん。あなたが陥ったのは、イレギュラーな不運ではありません。僕が設計した数式へと、最短距離で迷い込んだという……ただの物理的な帰結です。期待値という名の檻の中で飼い慣らされたあなたには、最初から逃げ場などなかった」
僕は、卓の脇に置いてあったクリーナーと布を手に取った。 日常のルーチンに戻るかのように、極めて淡々と。 しかしその所作には、先ほどまでの対局で示した圧倒的な支配力が、静かな熱を持って宿っている。
周囲で見守っていた部員たちの顔から、血色が失われていくのが分かった。 彼らは今、自分たちが「無能」だと蔑んでいた少年が、自分たちの世界の理を司る「神」そのものであったという事実に、ようやく直面し始めていたのだ。
これまでこの部室を支配していたのは、華やかな実績と、それに基づく傲慢な秩序だった。 だが、その秩序はいま、僕という「異物」が放つ、無機質な知性の前で完全に沈黙している。
「おい……。何が起きてるんだ……」 「立花さんが、手も足も出ないなんて。あいつ、一体何者なんだ?」
囁き声が波紋のように広がる。 それは畏怖であり、同時に、自分たちが信じてきた聖域が侵食されていくことへの本能的な拒絶でもあった。 その時、部室の重厚な扉が、重い音を立てて開いた。
現れたのは、冷徹な美貌を眼鏡の奥に隠した少女――
「……騒がしいわね。嶺鳳の聖域で、何が起きているのか説明してもらえるかしら?」
司城さんの言葉に、周囲の部員たちが一斉に道を開ける。 彼女の放つ空気は、紅葉のそれよりもさらに冷たく、計算高い。 司城律は卓上の点数表示を確認し、一瞬だけ眼鏡の奥の瞳を細めた。
「……立花さんが、ハコ寸前。しかも相手は……、部室清掃担当の白河零くん。これは、何の冗談かしら?」
「冗談ではありませんよ、司城さん」
僕は牌を磨く手を止めずに、声だけで応えた。 司城さんの視線が、僕の背中に突き刺さる。 彼女のような人間にとって、イレギュラーな事象は排除すべきノイズでしかない。 だが、僕がここで示したのは、ノイズなどではなく、この部の存在意義を根底から覆す「圧倒的な正解」だった。
「立花さんは、僕が提示した演算の重みに耐えられなかった。ただ、それだけのことです」
「演算……?」
司城さんが僕の元へと歩み寄る。 彼女の足音が、規則正しく響く。 それは、感情を排した管理者の歩法だ。 司城さんは僕の横で立ち止まり、僕が磨き上げたばかりの「白」を手に取った。
「白河くん。あなたは今まで、その牙を隠して牌を磨き続けていたというわけ? 嶺鳳のデータを盗み見ながら、自分だけの箱庭で理論をこねくり回していただけではないようね」
「牙など持っていません。僕はただ、磨いているだけです。牌の汚れも……この部に蔓延する、理論という名の虚飾も」
司城さんの瞳に、微かな、しかし確かな火が灯った。 それは、未知の強者を見出した時の、知的な興奮だった。
「面白いわ。立花さんを壊したその『演算』。それが本物かどうか、私がこの目で見極めてあげる」
司城律は紅葉の隣に立ち、冷たく言い放った。
「退きなさい、立花さん。負けた駒に、この席に座り続ける資格はありません。今のあなたには、嶺鳳の看板は重すぎるわ」
紅葉は、弾かれたように顔を上げた。 信頼していた司城さんからの無慈悲な言葉は、彼女の息の根を止める最後の一撃だった。 紅葉は震える手で、自らの点棒を卓に戻し、ふらつきながら席を立った。 その背中は、もはやエースの輝きを失い、ただの敗者の無力感に包まれていた。
司城さんが、紅葉の座っていた席に腰を下ろす。 彼女は優雅な仕草で制服の袖を整え、僕を正面から見据えた。
「さあ、始めましょう、白河くん。あなたの演算が、嶺鳳の管理システムを超えるものなのか……私が直接、解体してあげる」
自動卓が再び作動を始める。 牌が混ざり合う騒音が、かつてないほど激しく響く。 それは、嶺鳳高校麻雀部という組織が、内部から崩壊し、再構築されていく音でもあった。
「……無駄ですよ、司城さん。あなたが何を計算しようと、その指先が牌に触れるより先に、僕の演算は終わっている」
僕は、配牌の一枚目に指をかけた。 指先から伝わる樹脂の感触。 卓の温度。 司城律の、僅かに早まった鼓動。
「執行を、続けましょう」
僕の独白は、誰の耳にも届かない。 ただ、新たな絶望が部室の中に満ちていく予感だけが、熱を持って広がっていた。
名門麻雀部の「牌磨き」と蔑まれる陰キャな僕、実は全プロが崇めるネットの神【零(ゼロ)】だった件〜エース様に「初心者はスジから」と説教されたけど、それ僕の捨てた過去ログですよ?〜 新条優里 @yuri1112
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