手の呼吸 ―いのちの歴史を新しく― 調律師カイと不協和の巨塔
御園しれどし
第1話 隔離された村の少年
その村、レムリアは、世界から忘れ去られたような深い谷の底にあった。
陽光さえも崖の端に遮られ、一日の大半を薄灰色の影が支配する場所。そこで十七歳のカイは、誰とも肌を触れ合わせることなく生きていた。
カイの両手には、季節を問わず感覚を無理やり抑え込むような、鈍い重みを持った銀糸の手袋が嵌められている。
彼にとって、素手で何かに触れることは、他者の剥き出しの感情という「劇薬」を飲み込むことに等しかった。
古びた机に触れれば、それを削った職人の焦燥が、不協和音となって指先を刺す。
野に咲く花に触れれば、枯れゆく植物の静かな絶望が脳を焼く。
ましてや人の肌など、恐ろしくて近づくこともできない。彼の過敏すぎる手のひらは、他人の悲しみ、怒り、嘘、そして底知れない孤独を、本人の意志に関わらず吸い上げてしまうのだ。
「……また、響いている」
カイは村の広場を見下ろす高台で、自分の両手をぎゅっと握りしめた。
手袋越しでも、肌を刺すような微かなノイズが伝わってくる。今日の村の空気は、いつも以上に粘りつくような灰色に「濁って」いた。
村の境界線である森の入り口から、音もなく這い寄ってくる黒い霧。それが「
霧が触れた草木は、色を失い、石像のように硬直していく。風の音も、鳥の囀りも、その霧に触れた瞬間にプツリと断ち切られる。
それは、世界の「呼吸」が止まっていく光景だった。
広場では、幼い子供が転んで泣き声をあげていた。母親が駆け寄り、その手を握ろうとする。
カイは思わず叫びそうになった。母親の背後に、あの黒い霧が鎌首をもたげる蛇のように迫っていたからだ。
「触れるな!」
カイの声は、自身の喉の奥で震えて消えた。
彼には、助けに行く勇気も、その霧を払う術もなかった。ただ、自分の呪われた両手を胸元で抱きしめることしかできない。
不協和の霧が、母親の指先に触れた。
瞬間、安堵の吐息さえもが硬い鉱物音に叩き消され、彼女の慈しみに満ちた表情は、冷たい灰色の石へと変わっていく。叫びも、温もりも、そこにはもう残っていなかった.
「……あ、あ……」
カイの視界が恐怖で歪む。
静寂が、村を飲み込んでいく。音のない、動かない、死よりも深い沈黙。
その絶望的な静寂の中で、背後から一人の老人の足音が聞こえた。
石を叩く杖の音。
村の端にある古い堂に住む、偏屈な隠者として知られる老師レンだった。
「カイよ。震える手を止めるな。その掌で、世界の止まった呼吸を掴め」
レンの声は、死にゆく世界の中で唯一、確かな「振動」を持ってカイの鼓動を叩いた。
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