第4話:ノイズの向こうの温もり
第4話:ノイズの向こうの温もり
父が屋根裏から降ろしてくれたハム無線機は、わたしの机の上に鎮座していた。かつて、憎悪を込めて破壊したパソコンモニターが置かれていた、その場所に。
わたしは、ただひたすらそれを眺めていた。鉄の塊。たくさんのメーター。意味のわからないスイッチの群れ。インターネットとは似ても似つかない、アナログな存在感。触れれば、冷たいだろうか。電源を入れたら、どうなるのだろうか。
期待と、ほんの少しの恐怖が入り混じる。また、知らない誰かと繋がってしまうことへの、漠然とした不安。
でも、父は言った。「しっかりしたルールがある世界だ」と。
わたしは深呼吸を一つして、覚悟を決めた。
「……とりあえず、電源だけ」
一番大きそうなスイッチに、おそるおそる指を伸ばす。カチリ、と硬質な手応えがあったその瞬間。
「―――ッ!!」
スピーカーから、鼓膜を突き破るような甲高い音がほとばしった。
ぴー!ガーガー!ギャーーーーッ!
「うわあ!」
思わず両手で耳を塞ぐ。すごいハウリング音。まるで機械が断末魔の悲鳴を上げているようだ。腹の底に響くような低いうなりが、部屋の空気を震わせる。
パニックになりながら、わたしは手当たり次第にダイヤルを回した。ボリュームと書かれたつまみを捻ると、少しだけ音が小さくなる。次に、一番大きな周波数ダイヤルをゆっくり、ゆっくりと回していく。
ガー、ザー、というノイズの海を、ダイヤルの針が進んでいく。それはまるで、誰もいない荒野を彷徨うような心細さがあった。
どれくらいそうしていただろう。ノイズの波間から、ふっと、人の声のようなものが聞こえた気がした。
わたしは耳を澄ませる。
『――こちら管制塔。JA897J、高度三万フィートを維持。ルートに異常なし。そちらの気流はいかがですか?』
クリアな女性の声。
『こちらJA897J、パーサーです。今のところ安定しています。ただ、前方に少し厚い雲が見えますね。今日のコーヒーは揺れますよ、きっと』
穏やかな男性の声が応える。
ん……? なにか、英語じゃない?
わたしは詳しくない。でも、航空機のやり取りは、国際的なルールで英語が基本のはずだ。日本の国内線であっても、管制官との交信は英語で行われると、テレビで見たことがある。
女性がくすりと笑う気配がした。
『あら、お手柔らかにお願いしますよ。今日の夕飯、あなたのお気に入りのハンバーグだって、奥様から聞いてますから』
男性が少し慌てたように言った。
『え、ちょっと、なんでそれを……! うちの妻と連絡先交換しました? もう、プライベートチャンネルじゃないんですから!』
そのやり取りを聞いて、わたしは思わず吹き出してしまった。
「違法だぞ……!」
声に出して笑っていた。久しぶりに、心の底から。
彼らがどんな周波数で、どんな意図で話しているのかはわからない。もしかしたら、これはハム無線ではなく、特殊な受信機でしか拾えない電波なのかもしれない。
でも、そんなことはどうでもよかった。
匿名の悪意が飛び交う、あの息苦しいチャット欄とは全く違う。顔は見えなくても、そこには確かな信頼と、人間味あふれる温かいユーモアがあった。プロフェッショナルな仕事の合間に交わされる、ささやかな私的な会話。
その何気ないやり取りが、泥水で濁りきっていたわたしの心に、きれいな水を一滴、また一滴と垂らしてくれるようだった。少しずつ、澱が沈んでいく。
ザー……というノイズが、再び会話を飲み込んでいく。
わたしは、ボリュームを絞り、電源を切った。部屋には、また静寂が戻る。でも、それはもう、昨日までの息が詰まるような静寂ではなかった。
わたしは、机に置かれた鉄の塊を、もう一度見つめた。
ハム無線、悪くないかも。
自分の手でダイヤルを回し、ノイズの向こうにいる誰かの、温かい日常に触れる。それは、わたしが失いかけていた、世界との繋がり方を思い出させてくれるような気がした。
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