第4話 鱗落の夜
帝都を包む湿った夜気が、その夜だけは刺すような冷気に変わっていました。
テオドラ様が愛用する「夢違」の香も効果をなさず、王妃様は寝台の上で、激しい悪寒に身を震わせていらっしゃいました。
「……あ、……ぁ…………」
喉から漏れるのは、言葉にならない湿った悲鳴。
私はすぐさま、彼女の寝着を脱がせ、その背中を見て息を呑みました。 以前は青白い光に過ぎなかった「海神の聖痕」が、今夜は鋭いエッジを持った「鱗」へと変質し、彼女の美しい肌を内側から突き破ろうとしていたのです。
「テオドラ様、しっかりなさってください!」
私はあらかじめ用意していた、魔導銀のピンセットと温めた薬湯を取り出しました。
この「鱗」は、魂が海へ引きずり込まれようとする際、肉体が拒絶反応として作り出す「錨」のようなもの。
これを一つずつ剥がし、血を通わせなければ、彼女の心臓はやがて凍りつき、止まってしまうのです。
「……セシリア……、もう、いいの……。このまま、……海へ……」
「いけません! まだ、行かせはいたしません!」
私は、王妃様の白い肌に浮き出た、真珠色の硬い鱗に指をかけました。
ピン、と硝子が弾けるような音がして、鱗が剥がれ落ちます。
その下から溢れ出したのは、赤い血ではなく、燐光を放つ青い液体――海神の血でした。
「っ……!!」
テオドラ様が私の腕の中で仰け反り、指が私の肩に深く食い込みます。
私はその痛みを、むしろ悦びとして受け止めました。
彼女の苦痛を分かち合っている。その事実だけが、孤独な侍女である私を、この世界に繋ぎ止めてくれる唯一の鎖だったからです。
一箇所、また一箇所と、私は丁寧に鱗を剥ぎ、自分の体温を塗り込むように、温めた布で患部を拭っていきました。
作業が進むにつれ、私の手のひらは彼女の冷気に当てられ、感覚を失っていきます。けれど、代わりに私の心臓は、見たこともない激しさで脈打っていました。
「テオドラ様。覚えていらっしゃいますか。……私が初めてこの部屋に来た日のことを」
気を失わせないよう、私は努めて穏やかな声で語りかけました。
「あなたは私を見て、『その目は、地獄の底まで見通せそうね』とおっしゃいました。……私は、それが嬉しかったのです。誰もが見たくないものから目を逸らす中で、あなただけが、私の呪い(魔眼)を肯定してくださった」
私は、鱗が剥がれ落ちた後の、まだ熱を帯びた彼女の肌を愛おしむように撫でながら語りかけました。
閉ざされた瞳の奥で、テオドラ様が微かに身じろぎをします。
私の視界は、湿った空気と蝋燭の光に揺られながら、数年前の、あの日へと引き戻されていきました。
数年前、宮廷の回廊は、幼い私にとってあまりに広く、冷たい場所でした。
「魔眼を持つ忌み子」として売られるように城へ連れてこられた私は、誰とも目を合わせぬよう、常にうつむいて歩いていました。
周囲の女官たちは、私を化け物を見るような目で見つめ、あるいはその視線が自分たちの不吉な未来を暴くのではないかと、露骨に嫌悪を露わにしていました。
そんな私に与えられた最初の任務が、誰も近づきたがらない「氷の王妃」の着替えの補助でした。
震える手で重い扉を開けた先、そこに彼女はいました。
窓の外には燃えるような夕陽が広がっているというのに、その部屋だけは時が止まったように冷え、静まり返っていました。
『……あなたが、今日から私の侍女になる子?』
振り返ったテオドラ様の瞳は、深海の底を思わせる、暗く、透き通った青でした。
私は、自分の「魔眼」が彼女の孤独や、その血に眠る人ならざる影を暴いてしまうことを恐れ、必死に床を見つめました。
けれど、彼女は私の震える顎を、冷たい指先ですくい上げたのです。
『こっちを見なさい。……綺麗な目ね。地獄の底まで見通せそうな、鋭くて、悲しい目だわ』
恐怖で凍りついていた私の心臓が、その瞬間、跳ねるように打ち鳴らされました。
罵倒でもなく、畏怖でもなく。彼女はただ、ありのままの私の「呪い」を、美しいと肯定してくれた。
『私と同じね。……世界から切り離された、独りぼっちの色をしている。ねえ、セシリア。あなたは、私の冷たさから逃げ出さないでいてくれるかしら?』
その時、テオドラ様が浮かべた微かな微笑み。 それは、地獄で見つけた唯一の救いのように、私の魂に深く、深く刻み込まれたのです。
「だから、私は決めたのです。あなたの地獄が海の底にあるのなら、私はどこまででも、その『目』となってお供しようと」
最後の大きな鱗を剥がしたとき、テオドラ様の身体から力が抜け、私の胸の中に倒れ込みました。
荒かった呼吸が次第に整い、銀髪が私の鎖骨を冷たく撫でます。
窓の外では、遠く海神の咆哮のような雷鳴が轟いていましたが、この天蓋付きの寝台の中だけは、世界から切り離された二人だけの聖域でした。
「……温かいわ、セシリア」
テオドラ様が、微かな、本当に微かな声で囁きました。 その指先が、私の頬に触れます。感覚を失いかけた私の肌に、彼女の冷たさが、逆説的な熱を持って伝わってきました。
「あなたの体温だけが……。私が『人間』であることを、思い出させてくれる」
私は、その冷たい手を自分の頬に押し当て、深く目を閉じました。
この時、私の魔眼は見ていました。
テオドラ様の背中から剥がれ落ちた鱗が、床の上で儚い泡となって消えていくのを。
そして同時に、私と彼女の魂が、細く、けれど決して切れない「紅い糸」で結ばれていくのを。
それは愛と呼ぶにはあまりに重く、忠誠と呼ぶにはあまりに狂った、二人だけの秘密の儀式でした。
(この夜、私たちは初めて、言葉以上の何かを交わしたのです。 たとえこの先に、すべてを焼き尽くす終焉が待っていようとも。 この冷たさだけは、私だけのものだと確信しながら――)
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