第2話 銀色の狼と、偽りの舞踏会
アウレリア王国の王宮大広間は、今宵、文字通りの「深紅の海」と化していました。
天井を埋め尽くすほどのシャンデリアが放つ黄金の光。
床には、ヴァーミリオン大公家の財力を誇示するかのような、分厚い赤絨毯。
そして、そこを行き交う貴婦人たちのドレスもまた、大公家への忠誠を示すための、競うような赤、赤、赤。
「なんと見事な……。これぞ、我が国の繁栄そのものですな」
「ええ、バルバロッサ大公閣下の御威光は、太陽をも凌ぐほど」
グラスを掲げ、媚びへつらう貴族たちの声が、音楽にかき消されていきます。 けれど、広間の隅に控える私の目には、その光景はまったく別のものとして映っていました。
(……臭うわ)
私の鼻をついたのは、高価な香油の香りではなく、澱んだ水のような腐臭でした。
そして、私の「目」は見てしまうのです。
大声で笑う太った伯爵の背後に、今にも首を絞めにかかろうとしている黒い靄を。
若さを誇る夫人の胸元に、死病の兆候である灰色の染みを。
ここは楽園ではありません。 ここは、死にゆく者たちが最期の踊りを踊る、巨大な墓場なのです。
黄金のシャンデリアから降り注ぐ光は、私には燃え盛る業火の粉のように見えました。
貴族たちが纏う豪奢な絹の衣は、死体を包む死装束に、彼らが誇らしげに胸に飾る勲章は、墓石に刻まれた不吉な刻印のように鈍く光っています。
美しく着飾った人々が笑い合うたび、その口元からは黒い泥のような吐息が漏れ、広間の空気をじわじわと汚染していく。
この繁栄は、肥大化した死体が破裂する直前の、束の間の膨らみに過ぎない――。
私の「目」が捉えるその真実は、どんな甘美な旋律よりも激しく、私の精神を削り取っていきました。
吐き気を堪えるように、私はテオドラ様のお姿を探しました。
王妃様は、雛壇の玉座に、まるで美しい人形のように座らされていました。
隣には、バルバロッサ大公が満足げに座り、そのまた隣には、怯えたような目の国王陛下。
テオドラ様の無表情な横顔を見た瞬間、胸が締め付けられ、私は逃げるように広間を出ました。
少しでいい。 あの「死の気配」のない、清浄な空気が吸いたい。
夜風は、驚くほど冷たく澄んでいました。 広間の喧騒が嘘のように静まり返った、王宮の裏庭。 月明かりに照らされた白亜の回廊を歩き、私は噴水の縁に腰を下ろしました。
「……はあ」
大きく息を吐き出し、乱れた呼吸を整えます。 冷たい石の手触りが、熱った頬に心地よい。
ドレスの裾を少し持ち上げ、夜空を見上げた、その時でした。
「――酷い顔をしているな」
頭上から降ってきた声に、心臓が跳ね上がりました。
慌てて立ち上がり、声の主を探します。
庭園の木立の影、高い石垣の上に、一人の男が腰掛けていました。
それは、奇妙な男でした。
広間の男たちのような、これ見よがしな宝石や勲章は一切身につけていません。
身に纏っているのは、夜の闇に溶けるような上質な革の衣と、風にはためく白いマント。
そして顔には、銀色で作られた「狼」の仮面をつけていました。
「……何者です? ここは王妃様の庭ですよ」
私が声を震わせながら問うと、男は音もなく石垣から飛び降りました。
着地の音さえしない、猫のような――いいえ、風のような身のこなし。
彼がゆっくりと私に近づいてきます。 本来なら、衛兵を呼ぶべき場面です。けれど、私は動けませんでした。 恐怖ではなく、私の「目」が、彼に釘付けになってしまったからです。
(この人には……ない)
あれほど宮廷に充満していた「死の黒い霧」が、この男には一切まとわりついていないのです。
代わりに彼を包んでいたのは、鋭く、研ぎ澄まされた「銀色の風」でした。
何ものにも縛られず、何ものにも染まらない、圧倒的な孤独と自由の色。 それは、私の色を失いかけた世界の中で、目が痛くなるほど鮮烈に輝いて見えました。
「あんたこそ、何者だ? 薔薇の侍女にしては、随分と寂しそうな目をしている」
仮面の奥から、射抜くような視線が私を捉えます。 男は私の目の前まで来ると、不躾にも私の顎を指先ですくい上げました。
革手袋越しでも分かる、荒々しくも温かい指の感触。 間近で見る彼の唇は、皮肉っぽく歪んでいましたが、不思議と嫌悪感はありませんでした。
「……私の目は、見たくないものまで見てしまうのです」
「ほう?」
男は面白がるように喉を鳴らしました。
「なら、今の俺はどう見える? 敵か? それとも、あんたを拐いに来た王子様か?」
からかうような口調でしたが、その声の底には、ヒリつくような殺気が隠されていました。
この人は、ただの迷い込んだ客ではない。 もっと危険で、致命的な何か。 私の本能が「逃げろ」と叫び、魂が「近づきたい」と叫びました。
「あなたは……嵐です」
私は震える声で、見えたままを告げました。
「この腐りかけた庭園を、根こそぎ吹き飛ばしてしまうような、冷たくて激しい嵐」
男の動きが止まりました。 仮面の奥の瞳が、驚愕に見開かれるのを感じました。
一瞬の沈黙の後、彼は私の顎から手を離し、今度は愛おしむように私の頬に触れました。
「……よく見えているな。その目、気に入った」
彼は私の耳元に顔を寄せ、低い声で囁きました。 その声は、悪魔の誘惑のようであり、神の警告のようでもありました。
「なら、忠告してやる。 この船はもう沈む。泥舟と一緒に沈みたくなければ、今すぐここから逃げ出せ。 ……あんな『人形』に殉じて死ぬには、あんたは綺麗すぎる」
その言葉は、冷酷な宣告であると同時に、ひどく甘美な毒を含んだ誘惑でもありました。
私のすべてを見透かしたような、仮面の奥の瞳。頬に触れる革手袋の感触は、私がこれまで王宮で触れてきたどの熱よりも生々しく、そして破壊的でした。
彼は、私が自分自身にさえ隠していた「ここではないどこかへ逃げ出したい」という卑怯な渇望を、たった一言で暴いてしまったのです。
その事実への恐怖と、彼がもたらす未知の熱情が、私の思考を真っ白に染め上げました。
「っ!」
あんな人形。 それがテオドラ様のことを指したのだと気づいた瞬間、私の中で何かが弾けました。 私は彼の手を振り払い、睨みつけました。
「撤回してください! あの方は……テオドラ様は、人形などではありません!」
男は少し驚いたように私を見つめ、やがて静かに首を振りました。
「……そうか。あんたにとっては、そうなのかもしれないな」
その時、遠くで衛兵の足音が聞こえました。 男は一瞬で気配を変え、再び風のように身をひるがえしました。
「名残惜しいが、時間だ。……また会おう、悲しき魔眼の乙女よ」
「待って! あなたの名前は!」
私が叫ぶと、彼は闇に溶ける直前、一度だけ振り返りました。 仮面の下で、ニヤリと不敵に笑ったように見えました。
「ユリウス。……いつかあんたのその赤いリボンをほどきに来る、男の名だ」
銀色の風が吹き抜け、後には私だけが残されました。
心臓の音が、痛いほど早鐘を打っています。
ユリウス。
その名前を口の中で反芻した瞬間、私の灰色だった世界に、鮮やかな「熱」が灯ったような気がしました。
それが、国を滅ぼす敵の名であるとも知らずに。
月光に照らされた銀の鱗は、神の祝福か、あるいは逃れられぬ呪いの証か。
あのお方の背負う孤独の深さを知ったとき、私はただの侍女であることを止め、運命の共犯者となることを選びました。
人はそれを狂気と呼ぶのでしょう。
けれど、暗闇の中でしか見えない光があることを、私たちは知っていました。
崩壊の予音を孕んだ風が吹き抜ける中、密やかな誓いは、夜の帳に深く刻み込まれていったのです。
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