第37話 王都からの査察官と古びた銀貨

鉛色の空から、白いものがちらつき始めていた。 初雪だ。 塔の窓からその景色を眺めていたエリストールは、暖かくなった部屋の中で、一枚の古い羊皮紙に目を落としていた。 それは、父バルガン男爵が隠し持っていた『領主の系譜』や『過去の雇用記録』の写しだ。 彼女はずっと気になっていたのだ。 マリウスという、異常なほど有能な男の正体が。


「……出身地、不明。前職、記載なし。父が彼を雇ったのは十五年前……私が生まれる少し前ね」


ただの執事が、私兵を組織し、領地経営を完璧に行う。 不自然すぎる。 彼は『何か』から逃れて、あるいは『何か』の目的があって、この辺境の地に潜んでいるのではないか。


その時、塔の下から騒がしい馬蹄の音が響いた。 エリストールが窓の下を覗くと、領主の館の正門に、立派な紋章を掲げた馬車が止まるところだった。 紋章は『天秤と剣』。 王都から派遣される、徴税査察官のものだ。


「……嫌な客が来たわね」


冬は、国が税を取り立てに来る季節でもある。 特に今年は西との小競り合いがあった。 国としては、難癖をつけてでも賠償金や特別税をむしり取りたいはずだ。



応接間では、暖炉の火がパチパチと燃えていた。 上座に座っているのは、王都から来た査察官、ガストン子爵。 ふくよかな体形をした彼は、出された紅茶に口もつけず、不機嫌そうに鼻を鳴らした。


「ふん。辺境の田舎屋敷にしては、随分と部屋が暖かいな。……薪を惜しみなく使えるほど、懐が温かいということか?」


嫌味な問いかけに、給仕に立ったマリウスは表情一つ変えずに答えた。


「いいえ。最新の燃焼技術により、少ない燃料で効率よく暖めているに過ぎません」


「技術だと? ……まあいい。本題に入ろう」


ガストンは、持参した分厚い帳簿をテーブルに叩きつけた。


「バルガン領からの納税額が、報告書と合わん。今年の収穫量は不作だったはず。にもかかわらず、西の軍隊を撃退したという噂も聞く。……傭兵を雇う金はどこから出た? 隠し財産があるのではないか?」


ガストンの目は、獲物を狙うハイエナのようだった。 もし不正が見つかれば、領地没収もあり得る。 だが、マリウスは動じることなく、自らの懐から一枚の書類を取り出した。


「すべて正規の処理です。傭兵への支払いは、撃退した騎士団が残していった鎧の売却益でまかないました。……こちらが、その売買契約書と収支報告書です」


「なっ……?」


ガストンは書類をひったくり、目を走らせた。 完璧だ。 計算の狂いはおろか、日付の記載ミスひとつない。 さらに、売却先には王都の大手商会の印まで押されている。


「そ、そんな馬鹿な……。鎧を売っただけで、これほどの利益が出るはずが……」


「さらに、当領地では『風食らいのかまど』および『油煮の保存食』という新技術を導入し、越冬コストを前年比で四割削減しました。浮いた予算は、すべて納税分として確保しております」


マリウスは淡々と、しかし相手を追い詰めるように言葉を重ねた。


「何か、不備が?」


ガストンは言葉に詰まった。 不備などない。 むしろ、王都の役人ですらここまできれいな帳簿は作れないだろう。 ガストンの額に冷や汗が滲む。 彼は気づいたのだ。 目の前にいるこの執事が、ただの田舎の使用人ではないことに。


「……貴様、その計算の速さ。そして、この独特な帳簿の筆跡……」


ガストンは震える指で、マリウスを指差した。


「まさか、貴様……十五年前に王宮から姿を消した、財務省の『氷マクシミリアン卿か?」


その名は、かつて王都の官僚たちの間で伝説となっていた男の名だった。 一切の情を挟まず、王族の浪費すらも糾弾し、国家予算を鉄の規律で管理していた冷徹な財務官。 ある日突然、巨額の横領疑惑をかけられ行方をくらませた男。


マリウスは、眼鏡の位置を指先で直した。 その瞳の奥が一瞬だけ、絶対零度の光を放ったように見えた。


「……人違いでしょう。私はマリウス。しがない田舎貴族の執事でございます」


「う、嘘をつけ! その声、その目つき! 間違いない!」


ガストンは椅子を蹴って立ち上がった。


「貴様がここにいたとはな! 王都へ報告すれば、私は……」


「子爵」


マリウスの声が、部屋の温度を一気に下げた。


「貴方が先月、王都の架空工事で裏金を懐に入れた証拠。……この屋敷の『賢者』が既に掴んでおりますよ?」


「な……っ!?」


「私の正体などどうでもいい。……ですが、もし私の平穏を乱すなら、貴方の不正の証拠が、明日には国王陛下の机の上に届くことになります。……物理的に、可能です」


マリウスは、懐から一枚の古びた銀貨を取り出し、指先で弾いた。 チン、という澄んだ音が響く。 それは、かつて彼が王都で発行に関わった硬貨だった。


ガストンは顔面蒼白になり、へなへなと椅子に座り込んだ。 脅しではない。 この男は、敵対する派閥を書類一枚で社会的に抹殺してきたのだ。


「……わ、分かった。……帳簿は完璧だ。問題ない」


「賢明なご判断、感謝いたします」


マリウスは恭しく一礼し、冷めた紅茶を下げた。



その一部始終を、エリストールは『聴音管』を通じて聞いていた。 彼女が塔の壁に仕掛けたブリキのパイプを通した、いわば盗聴器だ。 部屋には、パイプから漏れる微かな声が響いていた。


「……マクシミリアン卿」


エリストールは、その名を口の中で転がした。 やはり、彼はただの執事ではなかった。 国の中枢から追われた、超一級の官僚。 だからこそ、父を欺き、領地を乗っ取り、自分を管理下に置くなどという芸当ができたのだ。


「……ふふ」


エリストールは思わず笑みを漏らした。 恐怖ではない。 奇妙な安心感だった。 自分が相手にしているのは、狂人でも野蛮人でもなく、誰よりも『理』を知り尽くした怪物だったのだ。


「面白いじゃない。……元・財務官様」


エリストールはペンを取り、手元の人物相関図に『マリウス=マクシミリアン(仮)』と書き込んだ。 彼が王都を追われた理由。 そして、なぜこの辺境の地に留まり続けているのか。 その謎を解くことが、いつか彼という檻から脱出するための鍵になるかもしれない。


窓の外では、雪が本降りになっていた。 屋敷から逃げるように去っていく査察官の馬車を見下ろしながら、エリストールは確信した。 この冬は、寒いが退屈はしないだろうと。


「さて、次の計算をしましょうか」


少女は机に向かい、新たな知恵の糸を紡ぎ始めた。 怪物と踊るには、もっと鋭く、もっと強固な靴が必要だ。 凍てつく季節の中で、エリストールの知性はより澄み渡り、研ぎ澄まされていくのだった。

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