第2話

 目を覚ますたびに、世界は少しずつ広がっていった。


 天井の模様。

 窓から差し込む光。

 そして、いつも一番近くにある——母の顔。


「ふふ、起きたの?」


 明るく弾む声。

 第一声からして、この人は前向きだ。


 俺を抱き上げる動作も手慣れていて、ぐらつきがない。

 赤子である俺は、されるがままに宙を舞う。


「今日はよく寝たわねえ。えらいえらい」


 褒められた。

 理由は不明だが、悪い気はしない。


 母は鼻歌を歌いながら部屋を歩き回る。

 聞いたことのない旋律だけど、不思議と心地いい。


 部屋の中は、相変わらずちぐはぐだった。


 石造りの壁に、木製の家具。

 それなのに、壁際には淡く発光する装置があり、空中に文字のようなものが浮かんでいる。


 魔法……ではない、気がする。


 前の世界で言うなら、ホログラムディスプレイに近い。

 けれど、機械的な冷たさはなく、どこか有機的だった。


「今日もいい天気ね。ほら、外を見てごらん」


 もちろん、俺に「ごらん」と言われても、首は完全に据わっていない。

 視界はぐらんぐらんだ。


 それでも、窓の外に広がる街並みは目に入った。


 石畳の道。

 馬車のような形をしているが、馬はいない乗り物。

 その側面には、俺がまだ読めない文字が淡く刻まれている。


「また新しい路線が開通したのよ。便利になるわあ」


 誰に向けた説明なのか分からないが、母は楽しそうだ。

 俺は「あー」と適当な声を出す。


「ふふ、ちゃんと聞いてるの? 偉いわねえ」


 また褒められた。


 この世界では、赤子は存在するだけで評価されるらしい。

 前世の俺に、この制度を適用してほしかった。


 母は俺を抱いたまま、椅子に腰掛ける。


「あなたはね、すごくいい子なの」


 そう言って、俺の頬を指でつつく。


「全然泣かないし、夜もよく寝るし……たまに、じっとこっちを見てくるのが不思議だけど」


 ……それは、中身が高校生だからだ。


 もちろん言えない。

 俺は再び「あー」と誤魔化す。


「その目、賢そうなのよねえ。将来が楽しみだわ」


 将来。


 その言葉に、胸の奥が少しだけざわついた。


 前の世界では、考えるのを避けていた言葉だ。

 どうせ、ろくな未来はないと思っていたから。


 でも今は——


 この人が、母親が、当たり前のように俺の未来を信じている。


 それだけで、胸が少し軽くなる。


 母は立ち上がり、棚の上から小さな布を取った。

 赤子用のおもちゃ……だと思う。


 だが、それはただの布切れではなかった。


 表面に、淡い光の線が走っている。

 まるで、模様のようで——回路のようでもある。


「これはね、“コード布”。赤ちゃんの感情を落ち着かせるのよ」


 コード。


 その単語に、なぜか引っかかりを覚える。


「この世界にはね、特別な力があるの」


 母は、何でもないことのように言った。


「“紋章回路(コード)”。人の身体に浮かび上がる、不思議な力」


 初めて聞く単語なのに、妙にしっくり来た。


「でもね、それは選ばれた人だけ。ほとんどの人には関係ないわ」


 母はそう言って、軽く肩をすくめる。


「だから、あなたは普通に、幸せに生きればいいの」


 その言葉は、祈りのようだった。


 俺は、布に触れた。


 その瞬間——


 ほんの一瞬だけ、視界の端が光った気がした。


 皮膚の奥が、じん、と熱を持つ。

 すぐに消えたが、確かに何かが反応した。


 母は気づかない。


 気づかせてはいけない、と本能的に思った。


「……?」


 母は首を傾げるが、すぐに笑顔に戻る。


「まあ、気のせいね。赤ちゃんだもの」


 そう言って、俺を抱き寄せる。


 柔らかくて、温かくて、守るような腕。


 俺は、その胸の中で思った。


 ——この世界では。


 ——この人だけは、絶対に失いたくない。


 まだ、何も始まっていないのに。

 まだ、剣も、力も、戦いも知らないのに。


 それでも、この温もりだけは、

 前の人生で得られなかった“宝物”だと、確信していた。


 第二の人生は、

 こうして、穏やかに進み始めていた。

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