第10話:地下迷宮の審判

 嵐が過ぎ去った後の白百合学院は、洗われたような静謐さに包まれていた。だが、その瑞々しい朝の光の下で、私たちの影は今までになく長く、鋭く伸びている。

 

 私は、ルナと二人、昨夜の密約通りに「失われた回廊」への入り口を目指していた。

 旧校舎の裏手、蔦に覆われ、忘れ去られたように佇む錆びついた鉄扉。学院の公式な地図からは抹消されたその場所が、今、私たちの「真実」への唯一の入り口となっていた。


「……しずくさん。本当に、いいのね?」


 ルナが、私の袖を微かに引く。

 その瞳には、かつてない不安と、それを上回る決意が宿っていた。

 

「……ええ。ルナさんの側で笑う悪意を、私は許せません。……例え、その果てに何があろうとも」


 私は、和志としての冷徹な目で鉄扉の構造を分析する。

 (――シリンダーの磨耗、鍵穴に残された油の鮮度。……最近、誰かがここを頻繁に出入りしている。犯人は、この地下に『巣』を作っている)


 私は持参した細い針金を、少女が髪を整えるような所作で鍵穴に滑り込ませた。

 「少女の連想力」という名の技術行使。

 カチリ、という小さな、しかし決定的な音が、迷宮の封印を解いた。


 扉を開けると、そこには冷たく湿った闇が広がっていた。

 

 懐中電灯の光が、埃の舞う空間を切り裂く。

 かつては避難所、あるいは物資貯蔵庫として使われていたのであろう地下回廊は、十年前の事故の傷跡をそのままに、静止した時間の中で凍りついていた。

 壁に残る煤けた跡、打ち捨てられた古い備品。そのすべてが、私の脳内で十年前のあの夜の情景と重なり、激しいフラッシュバックを引き起こす。

 

 (――熱い。瓦礫の重さ。少女の泣き声。……和志、しっかりしろ。今は、しずくだ)


 私は、乱れそうになる呼吸を、晒の締め付けを意識することで無理やり制御した。

 一歩、奥へと進むたびに、空気の温度が下がっていく。

 「絶対零度の密室」の再来。だが今度は、逃げ場のない文字通りの迷宮だ。


 回廊の最奥。

 かつての通信指令室と思われる小部屋に、その「悪意」は鎮座していた。

 

 無機質なモニターの光。

 学院中の防犯カメラをジャックし、さらには設置した隠しカメラからの映像を集約する、巨大な盗撮サーバー。

 そして、そのモニターを見つめていた人影が、ゆっくりとこちらを振り返った。


「……やっと来たわね。蒼井さん。……いえ、名もなき潜入者さん?」


 そこにいたのは、クラスメイトであり、ルナの側近の一人でもあった、姫野蘭だった。

 彼女の手に握られているのは、小型のスタンガン。

 

「……蘭さん。どうして、貴方がこんなことを」

「どうして? そんなの決まっているじゃない。この学院の『純潔』という名の嘘が、反吐が出るほど嫌いだったからよ。……そして、その象徴である白石ルナ。貴方の完璧な仮面を、徹底的に壊したかった」


 蘭の言葉は、毒のように暗い小部屋に充満した。

 彼女は、モニターを指差す。そこには、昨夜の嵐の中、二人きりで寄り添う私とルナの姿が映し出されていた。

 

「見て。これこそが、貴方の『真実』よ、ルナ会長。……貴方が恩人だと思い込んでいるこの少女は、貴方を欺き、この学院の規律を汚している『異物』なの」


 蘭は、スタンガンのスイッチを入れた。

 バチバチという青白い火花が、闇を照らす。

 

「……しずくさん。下がっていて」

 

 ルナが、私の前に立とうとする。

 だが、蘭の狙いはルナではなかった。

 

「いいえ、まずは貴方の『盾』を壊してあげるわ」

 

 蘭が、私に向かって突進してきた。

 私は、咄嗟にルナを突き飛ばし、蘭の腕を掴んだ。

 

 (――不味い。身体が……)

 

 和志としての格闘術が、無意識に発動しようとする。

 だが、この身体は「しずく」だ。

 女性の筋力、そして過度な晒による呼吸の制限。

 

 私は、蘭を投げ飛ばす代わりに、彼女の体当たりをまともに受けて、背後の古い鉄製ラックに激しく叩きつけられた。

 

「……っ、がはっ……!」

 

 肺が潰れるような衝撃。

 そして、最悪の事態が起きた。

 

 衝撃で、ブラウスのボタンが弾け飛び、その下で限界まで張り詰めていた晒の結び目が、無慈悲に解けたのだ。

 

 (――っ、ああ……!)

 

 一気に解放される胸部。

 崩れ落ちる「少女」の輪郭。

 私は、咄嗟にブラウスの襟を掴み、中身を隠そうとしたが、その瞬間、蘭のスタンガンが私の脇腹を掠めた。

 

 強烈な電気ショック。

 

 全身の神経が焼き切れるような感覚。

 私は、声にならない叫びを上げ、その場に崩れ落ちた。

 

「しずくさん!」

 

 ルナが、私を抱きかかえる。

 その時、解けた晒が、ブラウスの隙間から床へと滑り落ちた。

 

 闇の中で、白い布が、まるで脱ぎ捨てられた抜け殻のように横たわっている。

 

「……これ、は……?」

 

 ルナの指先が、その布に触れる。

 そして、彼女の視線が、震える私の身体へと向けられた。

 

 電撃の痺れで、指先に力が入らない。

 私は、自分の「真実」を隠す術を、物理的に失っていた。

 

 蘭が、狂ったように笑い声を上げる。

 

「見た? ルナ会長。それが貴方の愛した少女の正体よ。……彼女は、自分を縛り付けていたの。この学院に、貴方の側に潜り込むために!」

 

 ルナの瞳に、激しい動揺が走る。

 だが、彼女が私の「性別」に気づいたのかは、まだ分からない。

 彼女が見ているのは、解けた晒と、そこから覗く「平坦な胸」――あるいは、あまりに歪な「潜入者の執念」そのものだった。

 

 (――終わりだ。ここで、すべてが)

 

 和志としての意識が、遠のいていく。

 

 だがその時、ルナは信じられない行動に出た。

 彼女は、私の乱れたブラウスを自分の上着で覆い隠すと、蘭に向かって、凍てつくような声を放ったのだ。

 

「……黙りなさい、蘭。貴方の言っていることなんて、一言も聞こえないわ」

「……は? 何を言って……」

「しずくさんは、私を助けてくれた。……それだけが、私の知るすべてよ」

 

 ルナは、私を強く抱きしめた。

 解けた晒の代わりに、彼女の腕が、私の身体を、私の正体を、ぎりぎりのところで封じ込める。

 

 (――ルナ……さん……どうして……)

 

 彼女は、気づいている。

 目の前にいる「しずく」が、何らかの、取り返しのつかない嘘をついていることを。

 それでも彼女は、その「嘘」ごと、私を守ることを選んだ。

 

 「地下迷宮の審判」。

 蘭という悪意によって下された判決を、ルナという名の「愛」が、強引に無効化したのだ。

 

 私は、意識を失う直前、ルナの温かな涙が自分の頬に落ちるのを感じた。

 

 それは、どんな電撃よりも激しく、私の魂を焼き尽くす「救済」だった。

 

 窓のない地下室。

 私たちは、真実と嘘が混ざり合った混沌の中で、一つの終わりと、さらなる深い地獄へと、同時に沈み込んでいった。

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