第8話 勝利でも、敗北でもない
ゼロの三本腕が、
まるで別々の生き物のようにしなり、
わずかに“ずれたタイミング”で走り出す。
一本目が空を切り、
二本目が遅れて軌道をなぞり、
三本目が最後に……球、そのものを押し通す。
その異様な投球動作を見たとき、
甲子園全体が、ざわめきを失った。
――来る。
そう確信した瞬間、
大空流星の視界から、球以外のすべてが消えた。
歓声も、悲鳴も、
空に浮かぶ異形の観客席も、
地球の命運すら――今はどうでもいい。
あるのは、白い球と、その違和感だけ。
(……逆だ)
球は、確かに投げられた。
だが、その直後――
ほんの一瞬だけ、回転が“逆”になる。
時間が戻ったように見えたのではない。実際に、戻っている。
(見える……)
流星は、身体を動かさない。
いや、動かす必要がなかった。
バットを振るために必要なのは速さでも、力でもない。
――当たる瞬間を、知っていること。
更に、球は三次元的に軌道を折り曲げ、
人類の常識を置き去りにして加速した。
それでも、流星の視線は、
その一球から、決して外れなかった。
(そこだ)
バットが、振り抜かれる。
鼓膜を突き刺すような、固く、あまりに乾いた衝撃音。
――カァンッ!!
その音は甲子園に、そして地球全土に響き渡った。
打球は鋭く三塁線へ飛ぶ。
速い。
強い。
だが――
ほんの数センチ。
白線の外。
『――ファウル!!』
その宣告と同時に、
甲子園が、奇妙な沈黙に包まれた。
歓声は、まだ来ない。
悲鳴も、ない。
誰もが今起きた事実を理解するのに、
ほんのわずかな時間を必要としていた。
――当たった。
宇宙最強投手の球に、
地球のバットが、確かに触れた。
それは、
勝利でも、敗北でもない。
だが――
人類が初めて宇宙に届いた瞬間だった。
「……惜しい」
誰かが呟いた。
「でも……当てたぞ……?」
その声をきっかけに、
観客席で、ざわめきが広がっていく。
空中の観客席。
異形の宇宙人たち。
そして、地球上の人間たち。
彼らは今、
“初めての地球対宇宙”を前にしていた。
地球という原点が、宇宙に、触れた瞬間を。
シャケは、時を忘れて立ち尽くしていた。
体中が、小刻みに震えている。
(……当たった)
30点の人生で一度も味わったことのない、
痺れるような高揚感が全身を駆け巡っていた。
声は出ない。ガッツポーズも、ない。
ただ、自分が選んだ男の背中を、見つめる。
凡人のした選択が、
間違っていなかったと、
今初めて、はっきりと分かった。
「大空流星の反応速度は、
地球人平均の約4.2倍」
スズカは変わらぬ調子で言う。
空中には、淡い数値データが投影されている。
「ゼロ・フォースの球を、
初見で捉えたものは、初めてです」
「……初めて、って」
シャケの一言にスズカは首を傾げる。
「驚異的、という評価になります」
驚異的。
その言葉が、やけに軽く聞こえた。
流星はバットを握り直し、静かに息を吐く。
呼吸は、乱れていない。
鼓動だけが、わずかに速い。
「……大丈夫」
声は静かだった。
「……まだ、見える」
その一言にシャケの背筋が、ぞくりと震えた。
――この人は、
本気で“宇宙最強”を超えに来ている。
ファウルの余韻がまだ球場に残る中、
ゼロは三本の腕を一度畳み込む。
そして、その動きが止まる。
(……記録外)
内部演算に存在しないはずの数値が浮かぶ。
誤差。想定外。再計算。
だが、
その無機質な処理の奥で――
微弱な“興奮”が生まれていた。
「……興味深い」
ゼロが長く頷く。
「初見で捉えるとは。
地球人の限界値――更新」
その声には、わずかな喜びが混じっていた。
流星が再び構える。
バットの先が、わずかに揺れ、
そして止まる。
シャケは額から流れる汗を拭い、
隣でスズカが、静かに告げた。
「ここからが、本番です」
ゼロ・フォースの三本の腕が、
再び、重力さえも書き換えるような音を立てて、
空間を歪め始める。
――甲子園が“アツく”なっていく。
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