黎明創紀 APORIA-CODE
久遠 魂録
【第1楽章】01:Ouverture
武雄の街は、今日も琥珀色の光に包まれていた。
御船山の稜線が赤紫に染まり、温泉街の湯煙が夕空へ溶けていく。どこにでもある、穏やかで退屈な放課後の風景。だが、アリア――アサヒナ・アリアにとっては、その安寧こそが何よりも不気味なものに感じられた。
県立第2 SS学園、旧校舎の屋上。
アリアは一人、朱色の楼門の上空を見上げていた。
「……また、増えてる」
その呟きは、誰に届くこともなく夕風にさらわれた。
青空の一部が、まるで古いモニターが焼き切れたように、真っ黒なノイズに侵食されている。それは物理的な雲でも、大気汚染でもない。世界の「記述」そのものが剥がれ落ち、そこにあるはずの物語が一方的に抹消されたかのような、虚無の傷跡。
そのノイズの渦中に、アリアにしか見えない文字列が刻印されていた。
『UNILATERAL-VOID』
「一方的な……空白」
アリアは震える指先で、自分の腕を抱きしめた。
ここ数ヶ月、世界のあちこちに見え始めたその「綻び」は、日に日に大きくなっている。誰も気づかない。隣で笑うカノンも、実直なカナタも、そして高飛車に胸を張るワカでさえ。
この完璧に管理された日常の裏側で、何かが決定的に壊れ始めていることに。
「アリア! またそんなところでぼんやりして! わたくしのティータイムを蔑ろにするなんて、いい度胸ですわね!」
背後から響いたのは、鈴を転がすような、しかしひどく威圧的な声だった。
振り返ると、そこには日本人形を思わせる、見事なまでに切り揃えられた漆黒の髪を揺らしたワカが立っていた。ナナミ・ワカ。この街を代表する令嬢であり、アリアの友人。
「ワカ……ごめん。少し、空を眺めてただけ」
「空? 何を仰っていますの、ただの夕焼けじゃありませんか。そんなことより、早くあの新作の温泉スイーツを食べに行きますわよ。カノンとカナタはもう向かっているんですから!」
「……あの黒いところ、ワカには見えないの?」
アリアが指差した先。そこには今も、不気味な黒い亀裂が世界を食い破り続けている。
ワカは面倒そうに一瞥し、ふんと鼻を鳴らした。
「ただの雲の影でしょう。そんなことより、わたくしの優雅な時間を無駄にしないでいただきたいものですわ。さあ、行くわよ!」
強引に腕を引かれ、アリアは苦笑して歩き出す。
ワカの掌は驚くほど温かかった。その温もりが、世界の終わりを予感させる冷たいノイズから、一時的に自分を切り離してくれる。
――けれど、その安らぎは、あまりにも唐突に引き裂かれた。
空の傷跡が、爆発するように広がった。
街中の人々の会話が、不自然に途切れる。セミの鳴き声も、風の音も、すべての「音」が吸い込まれるような静寂。
そして、空に刻まれたメタ・コードが、血のように赤い文字へと変色した。
『ECHO detected. Commencing deletion.』
「な、何ですの、これ!? 空が……空が燃えていますわ!」
先程まで何も見えないと言っていたワカが、悲鳴を上げてアリアにしがみつく。
空から降り注いできたのは、漆黒の雨。いや、それは雨ですらなかった。
かつて存在し、それゆえに不当に断絶された物語の残滓――『ECHO(エコー)』。
異形の影が、武雄の街を蹂躙し始める。人々が、風景が、建物が、ノイズに触れた端から「未定義」の空白へと溶けていく。
「きゃあああ! アリア、逃げなさい!」
「ワカ……!」
逃げ場などなかった。
世界そのものが、誰かの身勝手な「反故」によって抹消されようとしている。
アリアが絶望に瞳を閉じた、その時。
耳元で、一人の男の声が響いた。
それは、いつも近所の研究施設で難解な数式と格闘している、知り合いのエンジニアの声だった。
「……聞こえるか、アサヒナ・アリア。君の脳内に直接、OS『YUI』の通信パスを繋いだ」
「テツト……さん?」
「パニックになる時間は終わった。世界を上書きされたきたくなければ、僕の指示に従え。今、君の足元……学園の旧講堂地下に、一つの『理(コード)』を解凍した」
アリアの視界が、青白いグリッド線で覆い尽くされる。
テツトの、感情を押し殺した、しかしどこか必死な声が続く。
「それは、一度は捨てられ、名前さえ剥奪された機体だ。だが、君ならそれを『再起(リブート)』させることができる。……乗りなさい。君が、君自身の歴史を取り戻すために」
導かれるように、アリアは旧講堂の重い扉を蹴破った。
地下へと続く階段。その最深部に、それは鎮座していた。
白銀の甲冑。
しなやかな女性のラインを思わせる、美しくも冷徹なフォルム。
背中には、マイクスタンドと巨大な長槍を融合させたような、不可思議な兵装。
かつて、どこか別の記述(コード)の中で、慈しまれるべき『何か』であったのかもしれない不確かな名残。……それを宿した『彼女』は、今、不条理を粉砕するための巨大な牙となって眠っている。
APORIA-04:Ouverture(ウーヴェルチュール)。
「あなたが……私の?」
アリアがその白銀の指先に触れた瞬間。
脳内に、名状しがたき「叫び」が流れ込んできた。
それは言葉ではない。数千、数万の『ABUSIVE-LOGOS』。一方的に浴びせられた罵声、裏切り、そして『SATURATED-BOREDOM』という、解読不能なノイズへと変換された物語の痛み。
「……っ! ……あ、あああ!」
胸が焼けるような熱。
けれど、その痛みの中に、アリアは確かな「旋律」を見つけた。
消されてたまるものか。無価値だなんて言わせない。
不当に断絶された黎明を、もう一度この手で創り出す。
「……起動(ブート)……して。ウーヴェルチュール!」
アリアの叫びに応えるように、機体の胸部――ヴォーカル・コアが、まばゆいばかりの白銀の光を放った。
OS『YUI』が加速する。世界を支配する物理法則が、アリアの意志によって書き換えられていく。
「全神経接続、完了。シンクロ率、限界突破……。アリア、聞こえるか」
テツトの声が、今度は確信に満ちたものへと変わる。
「第一楽章の始まりだ。不条理を焼き切れ。君たちの物語は、ここから再起動する」
白銀の巨神が、地下の静寂を切り裂いて立ち上がる。
空を埋め尽くす黒いノイズ。不当な「空白(VOID)」に向けて、アリアは初めて、自らの意志でその長槍を掲げた。
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