第3話 水とトイレと農業だ
目を開けると、天井のライトがやわらかい明るさで点いていた。眩しすぎず、暗すぎず、朝の光みたいにちょうどいい。悠人はベッドの上で伸びをして、思わず笑ってしまう。
「おはよう、俺。異世界二日目だ!」
誰に言うでもなく宣言して、上体を起こす。身体は思ったより軽い。昨日のうちに床と壁とベッドを整えたのが効いている。寝床がまともだと、心まで落ち着くんだなと実感する。
けれど、次の瞬間に現実が追いかけてきた。喉がからからで、腹がぺこぺこだ。口の中が乾いて、舌が上あごに貼りつく感じがする。バッグを探ってペットボトルを取り出すと、残りはほんのわずかだった。
「残り少ないな。今日はまず水だ」
少しだけ口に含んで飲み込む。潤うけれど、不安が勝つ。この世界で水がないのは冗談じゃない。昨日の夜に自分で言ったとおり、今日は水と食べ物。胸の奥がそわそわして、身体が先に動き出しそうになる。
悠人は半透明のウィンドウを呼び出す。指で空中を軽く叩くと、すぐにメニューが開いた。ホームセンターの棚みたいに並ぶカテゴリの中から、【水回り】を選ぶ。
「頼むぞ、相棒。まずはここからだ」
表示された一覧には、蛇口、シンク、タンク、浄化装置みたいなアイコンが並んでいた。説明文も短くて分かりやすい。設置できる範囲はまだ入口付近だけど、今の悠人には十分だ。
シンク付きの簡易水場を選ぶと、床に半透明の枠が現れた。入口から少し奥、昨日作った木の床の端に合わせる。確認ボタンを押す。
次の瞬間、そこに小さなシンクと蛇口が現れた。現代のキッチンほど立派じゃない。でも、ちゃんとした金属の蛇口だ。悠人は息を整えてから、ゆっくりひねった。
ちょろちょろ、と水が流れ出した。透明で、匂いも変じゃない。水音がダンジョンの中に響いた、その瞬間だけで肩の力が抜ける。悠人は手を差し出し、指先で温度を確かめた。冷たいけれど、生きている水だ。
「出た! 助かった。ほんとに助かった」
両手で受けて少しだけ口に含む。苦くない。塩っぽくもない。普通の水だ。ゆっくり飲み込むと、喉の奥がすっと開いていく。
「うん、これなら大丈夫だ」
顔を洗う。冷たさで眠気が飛び、頭が冴える。鏡はないけれど、気分は明らかに整った。水があるだけで、世界が一段優しくなる。
次はトイレだ。悠人は【衛生】を開き、一覧を眺める。そこに「清潔トイレ」のアイコンがあった。説明文は短い。
《自動洗浄 消臭 衛生維持》
「機能が頼もしいな」
水場の少し離れた場所に、間仕切り付きの小さな個室を設置する。扉もある。中は明るく、床も乾いている。使ってみると、本当に匂いが残らなかった。水音もしない。静かで、むしろこちらが気を使う。
「ありがたい。これがあるだけで安心が違う」
トイレがある。しかも清潔。これだけで「危険な場所」から「生活できる場所」に一気に近づいた気がした。悠人は個室から出て、改めて入口付近の空間を見回す。木の床、壁パネル、ベッド、ライト、水場、トイレ。最低限を超えて、落ち着ける。
腹が鳴った。派手に。
「次は食べ物だな」
バッグの飴を一粒、口に入れる。甘さが広がるが、長くは持たない。外で何かを狩る発想は一瞬よぎったものの、すぐに引っ込めた。武器も知識もない。何より、無理に怖い目に遭う必要はない。
悠人は【農業】を開いた。プランター、土、種、肥料、そして見慣れない装置のアイコンがいくつかある。まずは畑のベースだ。小規模でいい。手の届く範囲から整える。
プランター型の畑を選び、部屋の端に設置する。木の枠の中に、黒い土がしっとりと敷き詰められた。悠人は指先で土に触れる。冷たい。でも嫌な冷たさじゃない。むしろ落ち着く。
「土があると、ほっとするな」
種の一覧を見る。名前は分かりやすいものもあれば、この世界っぽいものもある。最初は無難に、野菜っぽい種を選んだ。設置ではなく「播種」というボタンが表示される。押すと、土の上に小さな粒が並んだ。
ただ、ここで問題が浮かぶ。普通に育てたら時間がかかる。明日すぐ食べられるわけじゃない。それに、ダンジョンの中で日光もない。どう考えても不利だ。
「さすがに、このままでは時間が必要だよな」
農業カテゴリの下の方に、見慣れない項目があった。
【魔力循環装置(小)】
説明文が表示される。
《設置範囲の土壌に魔力を循環させ、植物の成長を促進する》
悠人の目が丸くなる。これだ。
「なるほど。魔法世界の農業は、こうやって加速するのか」
装置を選ぶ。畑の脇に、手のひらサイズの台座が現れた。中央に淡い光の石が埋まっていて、周囲に細い溝が走っている。起動ボタンを押すと、石がふわりと明るくなった。
次の瞬間、土が少しだけ温かくなるのが分かった。掌を近づけると、空気がやわらかく流れる。風でも熱でもない。目には見えないけれど、確かに何かが循環している感覚。
「面白い。これなら芽が出るのも早そうだ」
悠人はしばらく観察した。土の表面が乾かず、しっとりと落ち着いている。さっき播いた種のあたりが、ほんのわずかに盛り上がったようにも見える。気のせいかもしれない。でも、希望は持てる。
水場の蛇口をひねって、畑に少しだけ水をやる。土が均一に湿って、装置の光が小さく脈打つ。まるで畑が呼吸しているみたいだった。
「よし。今日は形ができた。明日から、育ち方を見ていこう」
水がある。トイレがある。畑がある。生活の骨格が見えた。悠人はベッドに腰を下ろし、深く息を吐いた。胸の奥に溜まっていた緊張が少しずつほどけていく。
「ここ、思っていたより落ち着く。手を入れた分だけ変わるんだな」
もちろん、まだ食料の確保は道半ばだし、王都に行くべきかも分からない。でも、今日一日で「明日に繋がる仕組み」が整った。
悠人はふと、外の気配が気になって入口へ歩いた。木扉の内鍵を外し、扉を少しだけ開ける。外の空気が流れ込み、草の匂いが混ざった。明るい光が入口から漏れて、足元の草を照らしているのが見える。
そのとき、外で小さな物音がした。草を踏む音。石を小さく転がす音。動物かもしれない。人かもしれない。悠人は反射的に扉を閉めかけたが、手が止まった。
「ここを明るくしたのは俺だ。驚かれても不思議じゃないな」
自分に言い聞かせるように呟く。怖いのは本音だ。でも、完全に閉じこもるのも違う気がした。悠人は扉を少しだけ開けて、外を覗く。誰の姿も見えない。草原は静かで、王都は遠い。
「音は確かにした。誰かいるのか?」
そのとき、入口の外、少し離れた場所から声がした。女の子の声。明るいけれど、警戒も混ざった声だ。
悠人は息を止める。心臓がどくんと鳴る。言葉は通じるのか。通じなかったらどうする。相手は人なのか。近づいてくる気配がある。
悠人は扉の影に半身を隠すようにして立ち、声の方向を見た。姿はまだ見えない。ただ、こちらを覗き込むような気配だけがある。
そして、その気配が、はっきりと言葉を落とした。
「あれ……?
ここ、ダンジョンだよね?
なんで、こんなに明るいの?」
定住者:1人/観光客:1人
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