第4話:平和な依頼

 テラ・バレーの街に朝が訪れる。

 石畳を叩く荷馬車の音と、開店準備を急ぐ露店商たちの野太い声。それらが混じり合う喧騒は、前世の俺が聞き慣れていた満員電車の騒音や、無機質なオフィスの電話のベルより、ずっと「生きている」という実感を与えてくれた。


 ギルド「金の獅子亭」の掲示板の前で、俺は一枚の依頼書を手に取った。

 

【依頼内容:月光草の採取】

【報酬:銀貨三枚】

【場所:静寂の森・周辺】

【備考:戦闘の可能性は低いが、地形に詳しい者が望ましい】


「……これだな」


 俺が求めているのは、武勲でもなければ、名声でもない。

 指先を動かすだけで山が消えるような狂った力を使わずに済む、穏やかで単調な労働だ。

 昨日のアイアン・ラットの件で、ギルド内には俺を「魔法を使わない変人」として、あるいは「底の見えない危険人物」として見る空気が漂っていた。それを打ち消すには、こうした地味な依頼を淡々とこなし、「ただの腕っぷしの強い労働者」という肩書きを定着させるのが一番だった。


 俺が受付に向かおうとしたその時、背後から凛とした、だがどこか棘のある声が響いた。


「——貴方が、昨日の『無手』の冒険者ね?」


 振り返ると、そこには一人の少女が立っていた。

 年齢は十六、七といったところか。腰まで届く銀髪をサイドテールにし、手入れの行き届いた白の魔導衣を纏っている。その手には、大粒の魔石が埋め込まれた豪奢な杖が握られていた。

 彼女の瞳は、好奇心と、隠しきれない優越感、そして微かな不信感に揺れている。


「……誰だ?」

「ルナ・アルマ。魔導学会直属、テラ・バレー支部所属の二級魔導士よ。貴方がギルドの依頼を『素手』で解決したと聞いて、少し確認に来たの。魔法を使わずに魔物を倒すなんて、文明的じゃないもの」

「文明的、か。効率がいいだけだ。ネズミ一匹に魔法を使うまでもないだろう」

「効率? 魔法こそが、人類が到達した最高の効率だわ。野蛮な筋力で解決するなんて、それこそ魔物と同じよ」


 ルナと名乗った少女は、鼻を鳴らして俺が持っていた依頼書を覗き込んだ。

「月光草の採取? 貴方みたいな粗野な人間が、繊細な薬草を扱えるの? 根を傷つけずに採取するには、微弱な風魔法で土を退けるのが定石よ。貴方のその『岩みたいな拳』じゃ、薬草を粉々にするのがオチだわ」

「……余計なお世話だ。俺は俺のやり方でやる」


 俺は彼女を無視して受付を済ませ、街を出た。

 だが、不運なことに、ルナもまた同じ方角へ向かう依頼を受けていたらしい。

「勘違いしないで。私はもっと奥地の『魔力溜まり』の調査に行くの。道が重なっているだけよ」

 そう言って、彼女は俺の後ろを一定の距離を保ってついてきた。


 静寂の森は、テラ・バレーから徒歩で二時間ほどの場所にある。

 その名の通り、風の音さえ遮断されたような静謐な場所だ。月光草は、その森の影になった湿地に自生しているという。

 

 道中、ルナは饒舌だった。

「いい? 魔法というの神から与えられた知恵なの。詠唱の一音、一音に意味があり、それが大気の魔力を編み上げて事象を書き換える。それは芸術であり、科学なのよ。それを『使わない』なんて、神への冒涜だわ」

「……俺にとっては、魔法はそんなに綺麗なもんじゃない」

「な、なんですって? 貴方、魔法を否定するつもり? もし魔法がなかったら、この世界はもっと暗黒に包まれていたはずよ」


 彼女は、魔法を愛している。

 その純粋な瞳を見ていると、俺の胸の奥が少しだけ疼いた。

 俺の中にある「魔法」を見せれば、彼女は喜び、そして次の瞬間に絶望するだろう。

 彼女が愛する芸術も、科学も、俺の指先から放たれる「事象の消失」の前では、ただの塵に等しい。

 俺が魔法を封印しているのは、彼女のような人々の「夢」を守るためでもあるのかもしれない。


 湿地帯に到着すると、そこには銀色に光る可憐な花が咲いていた。月光草だ。

 俺は跪き、そっと手を伸ばす。

 ルナが言った通り、確かにこの草の根は細く、少しの衝撃で千切れてしまいそうだ。


「ほら、見てなさい。魔法を正しく使えば、こうなるのよ」


 ルナが杖を構え、流麗な動作で小さな円を描いた。

「——《微風の指先(ソフト・ウィンド)》」


 彼女の杖の先から、そよ風のような魔力の塊が放たれる。それが土を優しく撫で、月光草の周囲だけを綺麗に掘り起こしていく。

 確かに、それは洗練された技術だった。

 

「どう? これが知性というものよ。貴方の拳でこれができる?」

「……確かに、器用だな」

「でしょ? 貴方も、少しでも魔法の勉強をすれば——」


 その時。

 森の空気が、一変した。

 

 湿地の奥、濃い霧の中から、巨大な影が音もなく現れた。

 ——フォレスト・タイガー。

 この森の主とも呼ばれる、強力な捕食者だ。その体躯は四メートルを超え、四つの瞳が不気味な紅光を放っている。

 

「な……なんで、こんな浅瀬に……っ!」


 ルナの声が震える。

 フォレスト・タイガーは、明らかに彼女の放った魔法の輝きに反応してやってきた。

 魔物は、魔力に引き寄せられる性質がある。彼女が誇った「洗練された技術」が、死神を招く呼び水となってしまった。

 

 タイガーが低く唸り、地を蹴る。

 その牙は、彼女の魔導衣など容易く貫くだろう。

 

「あ……あぁ……《火炎の……っ!》」


 動揺したルナの詠唱が乱れる。魔法は、精神の安定がなければ発動しない。

 タイガーが空を舞う。巨大な前足が、無防備な少女へ向けて振り下ろされた。

 

「——どけ」


 俺は、彼女の肩を掴んで後ろへと突き飛ばした。

 そして、一歩前へ。

 

 魔法は使わない。

 俺はただ、右足を踏み込み、地面の岩盤を掴むように指先に力を込めた。

 自分の中の魔力の大河から、ほんの一滴、その雫を右腕の筋繊維へ浸透させる。

 

(死なせるな。だが、壊しすぎるな)


 俺は、振り下ろされるタイガーの爪を、左腕で受け流した。

 ガリッ、という金属音が響く。魔力で強化された俺の皮膚は、名剣に匹敵する硬度を持っていた。

 そして、空いた右拳を、タイガーの胸板へと叩き込む。

 

 ——ドォォォォン!!

 

 爆発的な衝撃。

 だが、1話のような光の奔流はない。

 衝撃はタイガーの巨体を数メートル後方へ吹き飛ばし、その呼吸を完全に停止させた。

 

 タイガーは悲鳴すら上げられず、地面に転がった。

 

【討伐対象:フォレスト・タイガーの無力化を確認】

【ドロップアイテム:森虎の毛皮×1、鋭い牙×2、魔石(中)×1 を無限収納に格納しました】

 

 目の前から巨体が消え、再び静寂が訪れる。

 地面には、タイガーが吹き飛んだ際の土煙だけが残っていた。

 

「……な、なに……今の……」


 地面に座り込んだルナが、信じられないものを見るような目で俺を見上げていた。

「魔法も、杖も使わずに……あんな高位の魔物を、一撃で……? 貴方、本当に、何者なの……?」

「……ただの冒険者だ。魔法は、こういう時には不向きだと思ってな」


 俺は、無造作に月光草を手に取った。

 魔法を使わなくても、指先に魔力を集中させれば、指をナイフより鋭い感度のセンサーに変えられる。土の隙間に指を差し込み、感覚を研ぎ澄ませて、根を一本も傷つけずに引き抜く。


「ほら、これでお前の分も取ってやった。帰るぞ」

「……」


 ルナは、渡された薬草を見つめたまま、言葉を失っていた。

 彼女の魔法への信仰が、今、俺の「拳」という理不尽な現実によって激しく揺さぶられているのが分かった。

 

 帰り道、彼女は一言も喋らなかった。

 だが、街の門が見えてきた頃、彼女は小さく、だがはっきりとした声で言った。

 

「……私は、認めないから。魔法が、拳なんかに負けるなんて。貴方のその力、絶対に暴いてみせるわ」

「……勝手にしろ」


 俺は肩をすくめ、彼女と別れた。

 平穏な日常を守るための拳。

 だが、その拳が強すぎれば、結局は平穏を遠ざけてしまう。

 俺はポケットの中で、銀貨三枚を弄んだ。

 この金で、今日は少しだけ高い酒でも飲もう。

 

 魔法という名の絶望を隠し続けるために、俺は明日も、この拳を握り続ける。

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