第22話「新論理」


翌日。春馬は、機能不全に陥った論理回路を抱えながら、重い足取りで登校していた。


彼は、普段の『孤独の最適解』の制服であるグレーのパーカーではなく、母が選んだネイビーのジャケットと白のインナーを着用し、教室の扉を開けた。

その服装は、彼の周囲の視線という非論理的な変数を、僅かながらも不確実な形で集める。


春馬は、席に着くまでの十数歩の間に、昨日のデートの機能不全の論理を、母の「利益最大化」という上位論理で再構築しようと試みた。


旧論理の自己診断: 「悲しみの回避という目的を、楽しさの排除で達成できなかった。論理は無意味化した」

新論理: 「寂しさ(小損)は楽しさ(大得)の存在証明であり、総利益はプラス。つまり、論理を破った行為は生存戦略として最適解の可能性を秘める。この仮説は検証に値する」

彼は、母の言葉を、感情ではなく新しい演算フレームとして脳内で強制的に起動させた。


「この新論理を、女性不信という絶対的な防壁に適用できるか? いや、『裏切りのリスク』という最大の変数は、まだ観測されていない。裏切りリスクは依然として100%であり、新論理は未検証だ」

彼は結論を保留し、席に着く直前、まるで戦場に立つ兵士のように静かに深呼吸をした。


春馬の隣の席。若宮 蒼奈は、既に席に着いていた。普段のハーフアップではなく、ストレートのポニーテールで、その姿は非効率な美しさというデータを最大限に発揮している。その変化は、教室内の視線のベクトルを彼女に集中させていた。


周囲の男子生徒たちが、蒼奈のわずかな変化に気づき、ざわつき始める。その声は、春馬の論理的な平静を破るノイズ(ノラジック)として、春馬の鼓膜を揺さぶる。


「おい、若宮、ポニーテールじゃん。やべぇ、破壊力すげぇな……」


「女神が今日も隣の席の箕島(ぞうきん)に微笑むのかよ、地獄だな」


「蒼奈ちゃん、あんな男に優しくしてあげるなんて……さすがマドンナだね。私なら無理無理」


「それな〜」


春馬の耳には、その悪意に満ちた雑巾という旧いトラウマの符号が、現在の視線リスクと重なり、蘇る。彼は、周囲の視線リスクが予測値を大幅に超えて増加したことを観測し、反射的に身体を硬直させた。この状況下で、通常の防御論理(無視・拒絶)を実行することが最も効率的なはずだ。


「おはよう、春馬くん!」


しかし、蒼奈は、春馬の服装の変化も、周囲の悪意あるノイズも、昨日の感情的な出来事も、一切持ち出さず、いつも通りの笑顔で挨拶した。その「平常運転」の態度に、春馬はわずかな違和感、そして混乱を覚える。彼女の予測不能性が、論理の再起動を妨害する。


「ああ。おはよう、若宮」


春馬は、先日の感情的な敗北の影響で、いつものような「拒絶の論理」(「非効率だ」「関わるな」)を、即座に発動できなかった。彼の論理的防御システムは、「機能不全」の診断を受けた直後であり、再起動に時間を要していたのだ。


蒼奈は、まるで春馬の頭の中を読んでいるかのように、彼の論理的防御の隙を見逃さなかった。


「ねぇ、春馬くん」


「なんだ?」


「私ね、昨日の研究で、次の段階の仮説を立てたんだ」

蒼奈は、タブレットを取り出す代わりに、ノートとペンを春馬に見せた。それは、「論理的な分析」という、春馬が最も慣れ親しんだ共通言語による、新しい攻撃の予告だった。


「春馬くんの『孤独の最適解』は、『感情の排除』という定義で構成されている。でも、昨日の結果は、『楽しさ』が『寂しさ』を生み、論理が破綻した」


「だからなんだ。それは既に結論が出た破綻のデータだ。繰り返す必要はない」


春馬は、ノートではなく蒼奈の目を見て、警戒心を露わにした。昨日の敗北を経て、彼は彼女の予測不能な感情を警戒していた。


「うん。だから、次の研究では『感情の排除』じゃなくて、『感情の選別と定着』という新しい論理を試したいの」


「感情を選別? それは不可能だ。感情は非論理的で、切り分けられない。論理的な飛躍だ」


「それに、俺は『新鮮だった』としか言っていない。若宮が『感謝の意』だと解釈しただけだ。俺の口から、その単語は発せられていない」


春馬は、感情の定義という、自身の最も得意とする論理の土俵へ引き戻そうとする。


「ふふっ。春馬くん、論理的逃避だね」


蒼奈は、まるで春馬の抵抗を予想していたかのように、笑みを深めた。


「春馬くんが『新鮮だった』という客観的な事実を認めたのは、私への非効率な介入に対して『ポジティブな評価』を与えたからでしょう? それを『感謝』と定義するのは、この物語の法則では、最も効率的な論理的な推論だよ」


「春馬くんは、私を『研究対象』として論理的に分析する時は、『裏切りへの恐怖』という感情を完全に排除できているでしょう?」


「つまり、感情のフレームワークを、論理的な目的で一時的に上書きすることは可能。その制御プロセスこそが、究極の最適解よ」


蒼奈は、春馬の論理を逆手にとり、論理的な共同作業という名の新しい関係性を突きつけた。それは、『デート』という非効率な行為よりも、さらに強固で逃げ場のない「論理的な鎖」だった。


「……その研究活動の具体的な内容は?」


春馬は、「拒否」ではなく「内容の確認」という、論理的防御の完全な譲歩を示した。それは、「裏切りへの恐怖」が、「新しい論理への探求心」に一時的に上書きされた瞬間だった。


「決まってるじゃない。『共同作業』よ。放課後、一緒に図書館で勉強するの。それが、最も効率よくポジティブな感情(協力・達成感)を定着させる、新しい最適解だよ!」


蒼奈は、「共同作業」という、親密な関係性を連想させる言葉を、「最適解」という論理的な大義名分で春馬に叩きつけた。

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