第9話「最適解」


給食の時間の後、俺の周囲の空気は一変した。


蒼奈との鯖の味噌煮の交換――あの非効率で屈辱的な行為は、周囲のクラスメイトの視線という非論理的な圧力を一気に増幅させた。

教室の隅々から、俺という『汚物(雑巾)』に触れようとしたマドンナへの困惑と、俺に対する警戒、そして嫉妬が入り混じった視線が、粘着質な電波のように突き刺さってくる。


解析プロトコル:『周囲の悪意の構造』。俺は、この視線を知っている。過去の裏切りの前兆だ。若宮の行動は、君自身の評価だけでなく、俺という観測対象の周囲に、非効率的な悪影響を与えている。


放課後、俺は隣で明日の授業の予習をしている蒼奈に、静かに、しかし明確な敵意を込めて宣言した。

「若宮。即刻、俺への研究と介入を停止しろ」


「え? なんでかな、研究者さん。今日の給食の研究で、春馬くんの『幸福度(鯖の味噌煮)』が確実に増加したという論理的なメリットが出たのに?」

蒼奈は、俺の論理の根拠を問うた。


「メリット? 馬鹿なことを言うな。君の非論理的な介入は、俺個人の論理的な最適解を破綻させるだけでなく、公共の論理にも悪影響を与えている」

俺は、周囲の視線を意識させようと、教室全体を一瞥した。


「見ろ。君が俺という『雑巾』に関わることで、周囲の人間は混乱し、無益な憶測と感情的な摩擦を生み出している。これは、クラス全体の効率性を著しく低下させる。君の行動は、絶対評価のマドンナとしての責任と論理的に矛盾している。だから、やめろ」


俺は、自分の身を守るために、「クラスの平和」という最も強力な論理的な大義名分を振りかざした。

蒼奈は、俺の言葉を聞き終えると、いつものように満面の笑みで答えるのではなく、少しだけ真剣な瞳で俺を見つめた。


「ふむ。『クラス全体の効率性』ね。確かに、私はマドンナとしての責任を論理的に放棄すべきではないかもしれない」

俺は、彼女がこの「公共の論理」を受け入れたことに、かすかな勝利を確信した。


「でもさ、春馬くん」


彼女は、俺のノートPCに向けられた周囲の粘着質な視線を、一度、優しくなでるように見つめた。

「春馬くんが言う『クラスの効率性』のために、春馬くんが一人で孤独にいることは、本当に論理的な最適解なの?」


俺は、一瞬の沈黙の後、不敵の笑みを浮かべたまま、強い断定で返した。


「最適解だ。それは、俺の経験から導き出し、検証を重ねて確立した唯一無二の論理だ。人間関係という不確実な要素を排除し、裏切りという最大のリスクをゼロにする。これが、俺という存在にとっての絶対防御であり、最も高効率な生存戦略だ」

春馬は、孤独の論理を、過去のトラウマという動かしがたい事実で武装した。


「そっか。経験から導いた最適解なんだね」

蒼奈は静かにそう呟くと、再びノートにペンを走らせた。その様子は、俺の「孤独の論理」というデータを、新たな研究テーマとして記録しているように見えた。


俺は、彼女の口から出た「経験」という言葉に、強烈な不快感を覚えた。それは、俺の孤独の論理が、個人的な感情の帰結に過ぎないと否定されたように感じたからだ。


「待て、若宮」


俺は、彼女が次の言葉を発する前に遮った。

「君が今、『経験』と言ったな。君は、その最適解を導いた俺の経験の中身まで推測したのか?」

俺は、不敵の笑みを微動だにさせないまま、最も核心を突く論理の爆弾を投げつけた。


「君は先ほど、裏切りという最大のリスクをゼロにする、と俺が断言したのを傍受した。だからこそ、君の脳内では、『裏切り』という言葉が、この『経験』という論理に紐づけられているんじゃないのか?」

春馬は、蒼奈の洞察のプロセスを逆に辿り、その根拠を問い詰めた。

「なぜ『裏切り』という言葉が出てくるんだ?それは君の想像か? 俺の言動から導き出したというなら、その論理的なプロセスを説明しろ!」

俺は、彼女の非論理的な直感を、確固たる論理で押し戻そうとした。


蒼奈は、ペンを持つ手を止め、まっすぐ俺を見た。


「ふふ。裏切り、か」


蒼奈は、まるで新しいパズルを見つけたかのように楽しそうに答えた。


「だってね、春馬くん。『裏切りという最大のリスクをゼロにする』論理を、そんなにも必死に構築して、周囲からの視線まで『悪意の構造』と呼んで警戒しているのは、裏切られた経験がなければ、論理的にあり得ないでしょ?」


俺の脳内は、再び警報で満たされた。彼女は、俺のセリフの論理構造から、過去の動かしがたい事実を逆算した。マドンナの観察力と論理的推察力は、俺の想定を遥かに超えている。


「だから、想像じゃないよ。春馬くんの『絶対防御』という論理が、経験という事実を証明しているんだ」

そして、彼女は顔を上げ、太陽のように明るい笑顔で、俺の論理の核心を最も無防備な角度から貫いた


「そっか。その『最適解』とやらで、春馬くんは楽しいの?」


若宮蒼奈のその問いは、まるで高硬度のナイフが、俺の論理の砦の最も薄い継ぎ目を正確に抉り取るようなものだった。


楽しい?


解析プロトコル:『楽しさ』の論理的価値。

結論:ゼロ。楽しさは、再現性に乏しく、エネルギー消費を伴う非効率な感情であり、生存戦略における優先度は最下位である。故に、この問いは無価値だ。


俺は、頭の中で瞬時に論理を構築した。しかし、その答えを口に出そうとした瞬間、第四話の『お絵かきしりとり』で感じた、あの微かな高揚感が、喉元に引っかかった。


「……馬鹿な問いだ」


俺は不敵の笑みを浮かべ、蒼奈の目を射抜いた。


「楽しさという、極めて主観的で不確実な要素を、生存戦略の論理的評価軸に組み込むことはできない。楽しさの欠如は、悲しみという負の感情の欠如とトレードオフだ。論理的な安定的状態を達成している俺に、非効率な楽しさは不要だ」


俺は、「悲しみの回避=楽しさの排除」という、過去のトラウマで構築した絶対的な等式を持ち出した。


「なるほど。楽しさを求めないのは、悲しみを回避するため。完璧な自己防御の論理だね」


蒼奈はそう言いながら、満足そうに頷いた。まるで、俺の核心的なトラウマの証明書を手に入れたかのように。


「でもね、春馬くん。研究者として、質問したいことがある」


彼女の瞳は、まるでブラックホールのように、俺の全ての論理を吸い込もうとする。


「春馬くんが言う『最適解』は、『裏切りという最大のリスクをゼロにする』ことが目的なんでしょ? それはつまり、春馬くんの人生という長大な時間軸における、『トータルな効率性』を追求しているということだよね?」


俺は警戒レベルを上げたまま、静かに肯定する。


「そうだ。それが、唯一の真実だ」


「じゃあ、聞くよ。春馬くんの『最適解』は、確かに悲しみや裏切りのリスクをゼロにしたかもしれない。でも、春馬くんの残り数十年の人生というトータルで見たら、『楽しさ』というプラスの感情の増加をゼロに固定している。それは、プラスの利益(楽しさ)を意図的に捨てているということだよね?」


蒼奈は、机の上に広げたノートに、数学的なグラフを描いた。X軸が「時間(人生)」、Y軸が「感情(幸福度)」。


「悲しみ(マイナス)を回避してゼロにいる春馬くんと、悲しみ(マイナス)のリスクを冒しながら、楽しさ(プラス)を積み重ねていく人間。残り数十年の総和で見たら、どっちの人生が、より『高効率な利益』を得ていると思う?」


春馬は、蒼奈が描いたグラフの線を凝視した。蒼奈の論理は、俺の「リスク回避型最適解」を、「利益の最大化を放棄した、非効率的な戦略」として再定義していた。


論理的な矛盾(パラドックス)。俺の最適解は、リスク回避では最適だが、利益最大化という、より高次の論理では破綻している。なぜなら、俺は『悲しみの回避』という一項目に固執しすぎているからだ。


俺の不敵の笑みが、初めて苦痛によって歪んだ。彼女の論理は、俺の論理を否定せず、より上位の論理で包摂し、無力化した。


「……幼稚な論点すり替えだ。感情を利益として数値化できるとでも言うのか」


俺は最後まで論理で抵抗しようとしたが、その声は震えていた。


「できるよ。だって、昨日、春馬くんの鯖の味噌煮の幸福度は、52%で測定済みだもん」

蒼奈は、自信満々にそう断言した。


「春馬くん。君は、『裏切りのリスクをゼロにする』という研究の成功者だ。でも、私は、その『成功』が、『人生という総和の利益を最大化する』という究極の最適解と矛盾していると証明したいんだ」


彼女は、俺の目の前に差し出されたグラフの、Y軸(感情)のゼロ地点を指差した。


「私にとっての『研究対象』は、春馬くんの孤独という論理が、本当に最適解なのかを証明することだよ」


春馬は、自らの「最適解」の中に、これまで存在を許さなかった「楽しさ」という巨大な空白があることを、突きつけられた。その空白こそが、彼の人生の最大の非効率性であると。


そして、その瞬間、春馬は悟った。


彼女の研究対象は、若宮蒼奈の理論ではなく、箕島春馬という人間そのものの定義なのだと。

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