Obsession -誘う悪魔は絵画に潜む-
祇光瞭咲
第1章 絵画の中で死んだ男
第1話 お人好しのカラビニエリ
眠れぬ夜に祖母の手を握った。たった一夜の、幼少期の記憶である。
『怖いよ、おばあちゃん』
ベッドに潜り込んできた小さな孫に、
『何が怖いんだい、ヴァレリオ』
『悪いものがいるんだ』
月の明るい晩だった。月光は流水のごとく澄んでいたというのに、当時六歳のヴァレリオ少年には、それが酷く恐ろしく感じられたのだった。祖母の寝室の遮光カーテンは開いていて、レースのカーテンのその向こうから、白く輝く衛星が無言でこちらを覗いている。
『そうだね。ここには悪いものがいる』
祖母は皺だらけの手でヴァレリオの髪を撫でた。少年の滑らかな額に祖母の曲がった指が触れる。薄い皮膚の下に骨と熱を感じた。
『可哀想に。お前にはわかるのかい』
囁く祖母は、ヴァレリオを通り越してどこか遠くを見ているようであった。
父が、事故で入院した日の夜だったと思う。
ヴァレリオ少年はひとりで母方の祖母の家に預けられたのだった。
普段は疎遠にしている祖母。決してふたりの間に何があったというわけではなさそうだったが、母は息子を祖母に会わせることを避けているような節があった。
『大丈夫だよ、ヴァレリオ』
祖母はヴァレリオを抱き締めて言った。
『何も怖がることはない。悪いものは追い払うことができる。私がこの世にいる限り、決してお前に手を出させたりはしないよ』
大丈夫。大丈夫だ。
私が守ってあげるからね。
祖母はヴァレリオが眠りに就くまでの間、延々とその言葉を囁いていた。
***
イタリア、フィレンツェ。
ヴァレリオ・ジッリは毛布の中から腕を突き出し、枕元を手探りした。愛用のスマートフォンが繰り返しのバイブレーションで応答を急かしている。結局それは枕元にはなく、ベッドの脇に転がっていた。寝る前には確かに枕の上に置いたので、寝ている間に滑り落ちてしまったのだろう。
ヴァレリオはのろのろと起き上がり、スマートフォンを拾い上げた。
一月二十日、午前七時二十七分。
誰かに電話をするには早すぎる時間だ。
「……もしもし?」
〈おはよう、ヴァレリオ。あら、声が眠そうね。もしかして今起きたの?〉
尖ったような高い声。母も歳を取って少しは声が低くなってきたけれど、それでも起き抜けに聞きたい声質ではない。ちなみに、母からの電話は今週に入って三度目だ。
「おはよう、ママ」
ヴァレリオは寝癖のついた髪を掻き毟った。そろそろ髪を切る頃合だ、と思う。あまり鬱陶しくなる前に床屋に行かなければ、また署長にドヤされてしまう。
〈いつもこんな時間に起きているの? 今日も仕事でしょう。朝の支度もあるんだし、もっと早く起きた方がいいんじゃない?〉
「昨日は夜が遅かったんだよ、ママ」
言い訳がましく呟いた声は彼女の耳には届かなかったようだ。母は朝食を取らないことの健康的なリスクについてくどくどと持論を語り始めていた。
〈まさか、朝食を珈琲だけで済ましているんじゃないでしょうね。できればコルネットをひとつくらい食べなさい。甘いのはダメよ。砂糖は血糖値を――〉
ヴァレリオは半ば目を閉じて母の説教を聞き流しながら、立ち上がって着替えを取りに行った。部屋の中は冷えている。暖房代を節約するために、寝る時に暖房を切ってしまうのだ。ヴァレリオは椅子の背に掛けっぱなしにしてある洗濯物の中から、今日着る服を探して身に着けた。
〈ヨーグルトは食べてる? たまに食べるんじゃ意味ないの。毎日継続して食べないと――〉
母の言う通り、そろそろ家を出ないとまずい時間だ。すぐに顔を洗いに行きたいところだが、そのためには電話を切らなければならない。
「ねえ、ママ。俺、そろそろ仕事に行かなきゃいけないんだけど……」
億劫ながら口を挟むと、母は朝食についての話を唐突にやめた。唾を飲み込んだような一瞬の間を開ける。
〈――ヴァレリオ。あなた、大丈夫なの〉
何が、と訊きかけてヴァレリオも唇を引き結ぶ。今朝は何か、古い夢を見ていた気がする。白い月光。胸の中がざわついた。
「大丈夫に決まってるじゃないか。どうしてそんなことを訊くの?」
〈なぜかしらね。今朝はなんだか嫌な予感がしたのよ〉
母は躊躇いがちに言った後、少しの自信を滲ませて付け加えた。
〈私の勘は当たるから〉
「心配しないで」
ヴァレリオはスマートフォンを肩に挟み、歯ブラシに歯磨き粉を絞りながら笑う。
「俺はもう二十七だよ? ひとり暮らしも慣れたもんだし、仕事も問題なくこなしてる」
〈ええ……そうね。あなたはとても立派になったわ〉
しかし、口ではそう認めても、母の中ではヴァレリオはいつまでも子どものままなのだ。たとえ身長が二メートルに届き、
「とにかく、何も心配することはないから。もう切るよ。顔を洗わなくちゃ」
〈わかったわ。気を付けてね〉
「うん。また電話する」
電話が切れた。ヴァレリオは急いで身支度をして家を出た。
未明まで降り続いていた雨により、石畳は未だしっとりと濡れている。アルノ川からは霧が立ち始めていた。ヴァレリオはかじかむ指をポケットの中で握り締め、速足に通りを渡った。
街の中心部に近づくにつれて人通りが増えてきた。ヴァレリオのように通勤、通学する地元住民のほか、気の早い観光客が目を輝かせて街並みを眺めている。彼らにとっては、この陰鬱な霧ですらフィレンツェの街を幻想的に見せるスパイスなのだろう。ヴァレリオには理解できない感性だ。寒くて気が滅入る冬よりも、からりと晴れた夏の方がいい。フィレンツェの象徴たるドゥオーモだって、青空の方が大理石の白が映えるというものだ。
行きつけの
「おはよう」
間口が狭く奥に長い店内は、エスプレッソの甘く苦い香りに包まれている。向かって右側にパンや焼き菓子が並んだショーケースがあり、その奥では寡黙な店主がひとりで客を捌いている。
「おはよう、ヴァレリオ」
店主が毛虫のような眉を上げる。
「珈琲?」
「コルネットも。砂糖が掛かっていないやつ」
ヴァレリオはカウンターに肘をついて体重を預けた。長身のヴァレリオにはこのカウンターは少し低い。先にコルネットが提供されたが、エスプレッソが届くまで齧りつく気はなかった。
「おい、ヴァレリオ。大丈夫か?」
同じくカウンターで食事を取っていた常連の男に声を掛けられた。ヴァレリオは驚いて目を瞬く。
「え? なんで?」
「眉間に皺が寄ってるからさ」
常連客は眉根を指で叩き、ニヤリと笑ってみせた。
「あんたが難しい顔をするなんて珍しいと思ってな。いつもお気楽な顔してるくせに」
ヴァレリオはムッとして、それこそ眉間に皺を寄せる。
「誰がお気楽な顔だって? ハンサムの間違いだろ」
「よく言うよ」
常連客はのんびりとカプチーノを飲んでいる。ヴァレリオはエスプレッソの抽出を待ちながらあくびを噛み殺した。
俄かに店の外が騒がしくなった。と言っても、男がひとり大声を出しているだけだが。何事だろうと外の方を眺めていると、こちらに向かって後退りしてくるふたつの背中が視界に入る。
「またかよ」
隣で常連客が呟くと同時に、ヴァレリオも状況を察した。
モコモコと防寒着を着込んだふたつの背中は観光客のものだろう。あの佇まいはおそらく日本人だ。続いて姿を現したのは移民であろう風貌の男。男は何事か喚きながら詰め寄っているが、日本人の男女はオロオロと周囲を見回すだけである。
状況を訊ねるまでもなかった。ヴァレリオは溜息を押し殺して店を出る。常連客が止めようと声を掛けてきた気がするが、それには取り合わなかった。
「やあ」
ヴァレリオは男の方に話し掛けた。彼は無遠慮にヴァレリオを眺め回している。
「やめてあげたら? この人たち、随分と困っているみたいだ」
ヴァレリオは背後に庇う日本人の男女をチラリと見た。ふたりは状況を計りかねているのか、ヴァレリオに縋るような目を向けている。
「別にオレは困らせるようなことはしちゃいない。ちょっと小銭を分けてくれって頼んだだけだ」
移民風の男は唾を撒き散らした。
「どうせこいつらは金を持ってるんだ。恵んでくれたっていいだろう? とぼけた顔しやがって!」
男の眼光が観光客を射貫く。日本人の男女はビクリと身を縮めた。
「ああ、そうだね」
ヴァレリオは男に歩み寄るなり、無理矢理肩を組んだ。体格差に慄いたのだろう。男が僅かに身を引くが、ヴァレリオは彼を逃がさず、そのポケットに五ユーロ札を滑り込ませた。
「君の言うことはわかるけど、ここは丸く収めてよ。今日は寒いし、君も何か温かいものでも飲んで来た方がいい。できればあっちの店で、ね?」
男は鼻を鳴らしてヴァレリオの腕から抜け出した。怒り肩の背中が去っていく。
「あ、あの、グラッツェ!」
女の方が慌てた様子で言った。ヴァレリオはにこりと微笑むと、それ以上何も言わずバールの中に戻った。
エスプレッソは既に用意されていた。常連客と店主が呆れた眼差しでヴァレリオを迎える。
「ほっときゃいいのに。お人好しだな」
ヴァレリオは肩を竦め、エスプレッソに粉砂糖をぶち込んだ。
「お人好しじゃなかったら、カラビニエリになんてならないよ」
「そりゃそうか」
常連客が笑っている。店主はむっつりと言った。
「金を握らせたんだろう。ああいう輩は味を占めるぞ」
「わかってる。けどまあ、彼も苦労しているだろうからさ」
先ほどの男のような人間はフィレンツェでは珍しくなかった。彼らは詐欺まがいのやり方で観光客を騙しては、金をせびって生計を立てている。現地住民が巻き込まれることは少ないとはいえ、見ていて気持ちのいいものではない。
「一発懲らしめてやればよかったのに」
常連客が拳を構えるポーズを取ったので、ヴァレリオはプッと噴き出した。
「するわけないだろ、そんなこと」
コルネットを三口で平らげ、エスプレッソで流し込む。ヴァレリオは食器の脇に金を残してカウンターを離れた。
「ご馳走さま」
「また明日」
店を出ると、日本人観光客はいなくなっていた。相変わらず寒い。食事を取ったにもかかわらず、寒さは一層骨身に染みるようだった。
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