第4話 ランドレイス公爵令息

 シドリウスはここ百年ほど番を見つけるために世界中を飛び回っている。もともと竜人族の数は少なく、彼らは一生をかけて番を探し出す。


 竜人族の間で番が見つけられたら安泰なのだが、見つけられなかった場合は番が人間である可能性が高い。そのため、竜人族は天空を降りて人間の番を探し回る習性がある。


 シドリウスがオルクール王国を統治して二百年ほどの時が経つが、彼の場合は最初に有力貴族を粛正してしまったために政治が機能しなくなり、国が安定するまでは番探しどころではなかった。

 しかし、百年前にようやく国が平定したので専念できるようになったらしい。


 シドリウスが番探しをしている間、国政を任されたのがランドレイス家だ。

 ランドレイス家の者は代々品行方正で模範的だ。他の貴族は公爵家に一定の評価を示しており、信頼を寄せている。国民からも不平不満が爆発したことはない。

 したがって、ミリーネの婚約者であるアーネストも結婚相手には申し分ない人物だった。



 窓を拭き終えて書斎を出る頃には篠をつく雨が降り始めた。

 気温と湿度の変化でフィリーネが掛けている眼鏡のレンズは曇った。

 フィリーネはバケツを一旦床に下ろす。


 眼鏡をはずして服の袖で曇りを取ろうとすると、うっかり眼鏡を大理石の床に落としてしまった。眼鏡は数メートル先まで滑っていく。

「め、眼鏡が!!」


 フィリーネは視力が悪い。

 もともと悪くはなかったが、五年前から針仕事を始めたのを機にガクッと落ちてしまった。それ故に、近くのものは眼鏡なしでも見えるけれど、遠くのものはぼんやりとしか見えない。


 ハビエルに報告すると渋々ながらに眼鏡を買い与えてくれた。その代わり、眼鏡代を上乗せするように仕事量は増やされてしまったが……。

 フィリーネは目を凝らして滑っていった眼鏡を探す。


「大変です。眼鏡がないと何も見えません! どこへ行ったのでしょうか」

 しゃがんで手探りで探していると、高価な革張りの靴が視界に入る。それは男性もので、綺麗に磨き上げられていた。


 一瞬、ハビエルかと思ってフィリーネの心臓が大きく跳ねる。しかし、先ほどの朝食で数日出かけると言っていたので彼ではない。

 では、この立派な靴は誰のものだろう。疑問を抱くと同時に上から声が降ってくる。


「これを探しているの?」

 聞いたことのない男性の声だった。

 目の前にはフィリーネが落とした眼鏡が差し出されている。

「はい、私の眼鏡です!」

 フィリーネは元気よく返事をしてパッと顔を輝かせる。

 相手が誰かという疑問は吹き飛んだ。そんなことよりも大事な眼鏡が見つかったのだ。


 これで遠くのものがしっかり見えるし、胸を張って歩いていける。

 フィリーネは両手で眼鏡を受け取った。これでもう安心だ。


「ありがとうございます。困っていたので助かりまし……」

 眼鏡を掛けて顔を上げたフィリーネはピシリと固まった。


 目の前にいるのは、触ってみたくなるようなふわふわとした亜麻色の髪に、深緑の瞳をした青年。

 小柄そうに見えるがフィリーネが立ち上がるとそれなりに上背があり、品の良い紺色のコートがよく似合っている。


 フィリーネはこの青年をよく知っていた。

(この方はお姉様の婚約者、アーネスト=ランドレイス様です!!)


 直接会ったことはないけれど前に一度だけ、ミリーネとお茶をしている姿を見たことがある。ミリーネがしょっちゅう顔を誉めそやすのでフィリーネの記憶にも残っていた。

(まだ訪問の時間になっていないはずですが、どうしてここにいらっしゃるのですか!?)


 青ざめるフィリーネに対して、彼は人懐っこい笑顔で話し掛けてくる。

「気にしなくていいよ。今度からは気をつけてね。それにしても、君はここの侍女なのかい? 他の人と服装が違うし、なんというか……かなり質素な身なりをしているね」


 アーネストはフィリーネからボロボロのワンピースへと視線を移す。

 フィリーネは顔を朱に染めた。指摘にどう答えていいか分からず顔を伏せる。


(お父様が世間には病弱な娘と話しているようなので、私がフィリーネだと名乗るわけにはいきません。万が一口を滑らせてしまったら嘘がバレてしまいます!)

 すると、それまでアーネストの後ろで控えていた執事が助け船を出してくれた。


「ランドレイス様、早く客間へ行きましょう。今日はお嬢様が特別なお菓子をご用意しております」

 フィリーネは心の中で執事にお礼を言う。

 これで気がそれてくれればことなきを得られる。しかし、現実はそう甘くはなかった。


「お嬢様といえば、君はミリーネ嬢と顔立ちが似ているね。眼鏡を掛けたら雰囲気が変わるけど。もしかして君は……」

 アーネストが何かを口にしようとした瞬間、猫撫で声の横槍が入る。

「アーネスト様ったらこんなところにいらしたのね!」

 フィリーネは身を竦めた。


 後ろを確認しなくたって誰がやって来たのかは明白だ。

 フィリーネの側を横切ってアーネストの胸に飛び込んだのはミリーネだった。

 朝食時はアップにしていた髪が、今は下ろしてハーフアップになっている。どうやら髪型が気に入らなくてやり直したようだ。



 アーネストはほんの一瞬顔を引き攣らせる。胸に飛び込んできたミリーネの両肩を掴み、優しく引き剥がした。

「今日はいつもより長く過ごせるんでしょ? 私、一緒に観たいお芝居があってチケットを取っておいたの」

「ミリーネ嬢、光の精霊師である君なら知っているよね? 父の体調が優れなくて代わりに僕が代理を務めているって。今は期日までに回さなくてはいけない仕事がたくさんあるんだ。悪いけど芝居はまた今度観に行こう」

 アーネストがやんわりと断りを入れるがミリーネは食い下がる。


「公爵が床に伏せっているのは知っているわ。だけど、仕事が忙しいのを理由に私と会う時間を減らすのはどうかと思うわ。たまには可愛い婚約者の相手もしてちょうだい」

「これでも頑張って時間を作って会いに来ているよ。このところ自分の受け持っている仕事と父の仕事の両方に追われて寝不足なんだ。今朝も三時間しか寝ていない」

「それでも足りないわ。アーネスト様、三時間も寝る時間があるんだったらその時間を使って私に会いに来てくれたらいいのよ!」

「僕に休むなって言うのかい? 君との時間は取れるように努力している。それに、僕が代理を務めている仕事はこの国の根幹に関わるものばかりだ。遅らせるなんてできない」

「なによそれ。私と仕事どっちが大事なの!?」


 アーネストは辟易としているようだった。前髪を掻き上げてため息を吐く。

 一方でミリーネもまた、アーネストへの不満が止まらない。


「前は毎日でも会ってくれていたのに! 国民なんて何もしなくても生きていけるわよ。――ところで」

 ミリーネは振り返るとフィリーネを見据える。

「おまえはいつまでここに突っ立っているの? アーネスト様と話していたみたいだけど、一体何を話していたの?」

 語尾になるに連れてミリーネの目が鋭くなっていく。


 フィリーネが答えようとすると、それよりも先にアーネストが口を開く。

「ほんの少し世間話をしていただけさ。それよりも彼女、なんだかミリーネ嬢に似ていない? 気のせいかな?」

「アーネスト様、私がこの忌み……使用人と似ているなんてあり得ないわ。一緒にしないでちょうだい」

 ミリーネは一瞬面食らったものの、すぐに体勢を立て直して取り繕う。


「ああもう。今日こそはお芝居を見ていつもと違う過ごし方がしたかったのに!」

 ミリーネは地団駄を踏む勢いで不満を口にする。

「それなら、こうするのはどう? 今日は三人で一緒にお茶をするんだ。そうすれば少しは気分転換にもなってミリーネ嬢の気分も晴れる。ね、君もそう思うだろう?」

「は、はあ?」

 アーネストが突拍子もない提案をしてきたので、フィリーネは愛想の良い笑顔を張りつけるしかない。


(私に話を振らないでください! お姉様の殺気がっ、殺気がビシビシ飛んできます!!)

 そしてさらに、ミリーネは「絶対に断れ」という無言の圧力もかけてくる。

 無論、フィリーネだってそのつもりだ。三人でお茶など生きた心地がしない。


「申し訳ございませんが私は仕事がありますので遠慮させていただきます」

「そうなのかい? それは残念だな」

「彼女を困らせてはいけないわ、アーネスト様。さあ、おまえも早く持ち場に戻って。いいわね?」

 優しい声音で言い含めるミリーネは微笑みを浮かべている。だが、その目は一切笑っていなかった。


「はい。失礼します」

 フィリーネは深々と頭を下げて地下へと続く裏階段に向かう。平静を装っていたが、心臓はずっとドクドクと激しく脈打っていた。背中に嫌な汗を感じる。


(どどど、どうしましょう。お姉様は怒っているようでしたが、あれは怒髪天を衝く感じでした。あとで呼び出されるのは必至ですね)

 ミリーネは怒ると怖い。罵詈雑言を浴びせられるのはまだいいとして、問題はどんな罰――仕事を言いつけられるかだ。

 この間怒らせてしまった時は、機嫌が直るまで汚れていない玄関ホールの階段を一日中磨かされた。


(あの日の夜は心身ともにへとへとでした。今回も前回と同じだったらどうしましょう)

 叱られる覚悟も罰を受ける覚悟もできているが、ミリーネがどんな罰を言いつけてくるか気が気でない。

 とはいえ、考えても仕方がないのでフィリーネは不安を払拭するように頭を振った。それから、ぺちんと両頬を軽く叩く。


「ふぅ。まずはあれこれ考えるよりも目の前の仕事です。野菜の下処理を終わらせませんと!」

 胸の辺りで拳を作ったフィリーネは残りの仕事を完遂させようと意気込む。


 この時のフィリーネは自分の予想を超えるミリーネの罰が待ち受けているなど、知る由もなかった。

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