一九二六年 八月十二日

 あゝ、たまらない! 正一さまの視線を浴びることが、正一さまの御手によつて僕の生まれる音を聴くことが、喜ばしくてたまらない!


 僕は椅子に腰かけて、正一さまの手によつて生まれてゆく音を聴き、はじめは毒毒しく思はれた匂ひに酔ひながら、正一さまの視線を待つた。

 みられたい、正一さまにみてほしい。正一さまにとつての、正一さまだけの僕を、もつとふくらましてほしい。もつと、もつと正一さまの中で僕を育ててほしい。そして正一さまにとつての僕を完全なものにして、カンヴァスといふ真白で静かな、正一さましかしらない、正一さまだけの世界に産み落としてほしい!


 正一さまと視線がふれあつた。僕がたまらずに咲つてしまふと、正一さまはなんで咲うんだえと仰つた。

 なんだか恥づかしくつてと僕は云つた。

 恥づかしく思ふことはないと正一さまは仰つた。


 それからまたしばらく、正一さまの手で僕が生まれる音がつづいた。


 ──おまへの咲つた顔はいゝね。

 ──然様ですか。

 ──あゝ、すごくいゝよ、すごくいゝ。

 ──そんなに仰つては、また恥づかしくなつてしまひます。

 ──さういうところもいゝ。僕の気に入つたよ。

 ──恐縮です。


 愉悦はもうふるえるやうな、一層、體に影響する形にはつた。

 音を立てないやうにしたが、呼吸はもう、どんな為事をしたつてありえないやうな調子になつてゐた。


 正一さまが、カンヴァスの上から僕をみた。

 ──あゝ。


 正一さまは静かに咲つた。

 ──どうしたんだえ。

 

 ──いゝえ。

 ──なんでもないことはないだらう。

 ──いえ、なんでもないのです。


 あゝ、これ以上は隠せないかしらんと思つた。

 正一さまの視線が、僕の體の内側で、愉悦を激しく突きあげたのだ!

 僕はもう體の外側から刺激がほしくなつて、手前の指でもかみたくなつた。


 正一さまが、御自身の髪をさはられた。

 僕はいよいよ発狂しさうになつた。

 慾しい、あの手が慾しい、あの手にふれてほしい! あの髪に対してするやうに、僕の髪をさはつてほしい! ときどき御自身のくちびるをさはつたりするやうに、僕のくちびるをさはつてほしい!


 あゝ、あの手のぬくみをしりたい、あの腕に抱擁されたい、正一さまの近くへ、もつとそばへいきたい!


 ──正一さま。

 ──あゝ。どうした。

 ──息が、できないのです。


 正一さまはひどく驚いた顔をなさつた。


 ──なにか発作かえ。


 僕はもう聲なんか出せないで、ただ頸を振つた。僕はもう亢奮しきつた呼吸を解放してしまつた。

 呼吸の合間になにかちいさな音がして、それからはもう自分の呼吸しか聴こえなかつた。

 それだから、背にぬくみを感じたときには、體がちりぢりになつてしまつたやうに感じた。それほどの衝撃を感じたのである。


 ──さあ、僕の手の動きに合わせて、吸ふのと吐くのとを繰り返すんだ、いゝね。


 僕はもう正氣ぢやゐられなかつた。

 あらうことか、正一さまの着物を摑んで、しがみついた。

 そのまんまで椅子から転げ落ちて、かすかに藺草いぐさの匂ひのする、それ以上につんとした画具の匂ひのする足許に転がつた。

 僕は正一さまの両の手の間にゐて、彼をみあげる形になつた。

 正一さまはすぐに僕の横へ膝を突いて、僕に反対の方を向かして、背をさすったり叩いたりしてくれた。

 僕の内臓は健康だ、正一さまの手による刺激は體の熱を冷まさないし、呼吸を落ち着かせることもなかつた。



 あゝ、なんてことだらう!

 かうして書きだしたつて、これつぽつちも冷静になれない!



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