第十一話 夢・奏音

「あんまりお腹空いてないからいいや、ごめん」



 夜、奏音は喉が締めつけられた感じがして食事を拒んだ。ここ最近気にかけることが多かったようで、食欲が湧かない。




 母はべっとりとまとわりつくような視線をこちらに向けた後、一瞬作り笑いをして、右手でOKサインを作り「無理しないようにね」と言った。



 そして、奏音が食べるはずだった——いや、はなから母が食べるつもりだったのかもしれない——夕食のハンバーグとコーンスープ、野菜のグリルとTVリモコンをお盆の上に乗せ、ソファに運んだ。



 運ぶ様子を見届けながら、奏音は冷蔵庫から野菜ジュースとエナジードリンクを取り出す。



 冷蔵庫の中の、賞味期限がとっくに切れた片栗粉らしい粉をみた時、ふと頭にある疑問が浮かび、どうしても母に投げかけてみたくなった。




 なんだか、言わないと後悔しそうな気がした。



「姿が見えなくても、人ってそこに存在するのかな」



 母は、一度聞こえないふりをしたと思う。




 それでも奏音が黙って母を見つめていると、ソファにいる彼女は一瞬首をすくめ、そんなに面白い話でもないのに一回だけ「ははっ」と声を出して笑った。



 笑っている間もその右手はリモコンを操作している。ご飯のお供を決めているのだろう。彼女の横顔からは、作り笑顔が消えていた。



「どういうことよ」



 突き放すわけでも呆れているわけでもなく、お弁当を持ったか確認する時と同じような口調で返す。



 ソファにもたれ普段と同じように話しているが、その左手は硬く握られており、自分には遺伝しなかったその肉付きの良い足もぴたりと閉じ切っている。






 少し間が空いた後、母はこう答えた。



「忘れなければ、いなくならないんじゃないかしら」



 少し問いとはズレた回答のような気がしたが、父親の事とも日記の事とも捉えられるような返事だったので、妙に納得できた。








 母への質疑応答を終えると奏音は自室に閉じこもり、明日からの期末試験に向けて勉強を始めた。



 進級時の科目選択で自ら歴史分野を選択したくせに、今になって用語や年号を暗記するのが不得意ということに気づき、試験対策は困難を極めている。



「歴史は流れで理解するものだ」という有名塾講師の名言やそれを謳った教育系動画もあるが、奏音にとっては理解し難い。



 下剋上や一揆、その他紛争などは個人の立場によって見方が変わるため、時代の流れなど後からとってつけたようなものだと思ったからだ。



 戦争なんかがいい例だろう。こちらから見たら領土に侵攻してくる悪に見えても、向こうからしたら元々取られた領土を取り返そうとしているだけかもしれない。



 結局はものの見方なのだ。物事は多面性を帯びていることを忘れてはならない。故に頭の中は常に広く開かれた状態でなければならない。




 こんなに気難しい世の中に比べたら、明確に証明された公式がある数学の方がよほど簡単で、単純で、鈍感で、純粋で、誠実で——————————



















 穏やかな風に吹かれる中、ゆっくりと目を開けた。





 猛暑日の熱風、とまではいかない爽やかな風が頬をすべる。入道雲の映える大きな空。快晴。土っぽい夏の匂い。ちらほら聞こえる蝉の声。緑で彩られた木々。




 その心地よさに思わず目を薄め、深呼吸した。




 講堂内は広く、比較的新しい木製机と木製椅子が秩序を持って並べられている。窓は高く、木でできた床は降り注がれる夏の太陽によって輝きを帯びていた。



 奥にグランドピアノが一台ある。艶やかな黒の表面に、淡い光が滑っている。規則正しい並びを崩さない白と黒は、見ていて心地よかった。



 初めて来る場所のはずなのにどこか懐かしい匂いがして、そんな自分に少し驚いた。



 一歩踏み出すと、こっと反響が遅れて戻ってくる。



 講内をゆっくりとした足取りで歩く。額の前に手をかざしながら、真昼の日が差す窓を見る。



 ふと、机にあるつまみのついた直方体から音が漏れ始めた。




 ────ジジジ……ジジ




『本日未明、我が軍は南方方面海域において敵艦隊と交戦、巡洋艦一隻を撃沈するなど戦果を挙げたり──我が軍の勇戦奮闘、まことに称うべし────』




 そうか、またやったのか────




 アブラゼミの鳴き声に重なって聞こえたその音に、ひどく驚きも興奮もしなかった。

 そして、少しの高揚感と共に足をピアノの方に向かわせながら、呟く。



「万歳」




 口角の少し上がったその顔は凛としており、健康的な白い頬に、芯の強そうな厚い前髪を持っている。



 しかし目や眉はどこか虚ろで力が抜けており、乾ききった唇や細い首は、決して満足した人生を送っているようには見えなかった。




 少女は手の中にある楽譜を、脚の高さが合っていない不恰好な椅子の上に置き、鼻歌を歌いながらピアノの鍵盤をなぞり、微速で講堂内を歩き回った。





 ララー  ララー


 太陽白し 朝の砂


 フフー


 胸にしまえよ 今日のこと



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