オルフェウスの影

里中 汪

【特殊案件1】蒸気に溶けた殺意 1/7

6月9日 AM02:12

@千葉県船橋市 LS食品(株)加工工場C棟


 巨大なスチームコンベアは設定通りに大量の蒸気を吐き出し続けていた。

白い霧は天井の排気口へ吸い込まれていく。

ライン立ち上げから変わらない光景だ。


異物警告アラームが鳴った。

1日に2、3度は必ず起こる頻出トラブルだ。

乾いた電子音が鳴り、装置は停止した。


遠藤和也は、溜息をつき操作盤に目をやった。

操作盤に表示されたランプは赤ではなく黄色。

軽度の異物噛込異常であることを示している。

ずれてきた衛生帽子とゴーグルの位置を直し、腰に拳を当てて軽く叩く。

50歳を過ぎて慢性化した腰痛が辛い。


この設備と共に20年以上働いてきた。

試運転、立ち上げ、仕様変更、安全装置追加、運用マニュアル改訂。

その全てに手をかけてきた。

警告音は1日に何度も鳴る。

だが、毎回規則通りに対応すると生産ノルマは

達成できない。


現在の夜勤は単独体制だった。

ここで生産が滞れば、日勤にしわ寄せがいく。

「夜勤は楽だな」と言われる立場だからこそ、数字はきっちりと達成したい。


遠藤は装置モニターに移動し、操作パネルから本運転ではなく低速運転を選択した。

続いて装置側に回り、側面外装に手をかける。開度は4分の1未満。

この開度ではインターロックは作動しない。

それ以上開くと停止信号が入る設計であり、

この「余白」は安全と効率の折衷案として長年黙認されてきた。


現場には現場の最適解がある。

それは規則の許容範囲を最大限使うことだ、と遠藤は考えていた。


低速回転であれば危険は少ない。

コンベアを回しながら全体の異物をまとめて除去できるため、対応時間も半減できる。

このラインの従事者なら誰もが選ぶ手順だ。


前屈みでスチームコンベア機内を覗き込むと、右奥に大きな異物が見えた。

内部に頭を入れ、右手を差し入れた瞬間。

突如として、ゴーグルの内側が白く曇った。


驚きと恐怖で頭が真っ白になる。

反射的にゴーグルを拭う。曇りは引かない。

焦りが押し寄せる。


緊急停止という選択肢が一瞬頭を掠めたが、

非常ボタンは曇った視界では捉えられない。


異物はすぐそこにある。山勘で手を伸ばした。

白濁の向こうで、影が動いた。

ベルトコンベアのチェーン。距離感が掴めない。


激痛が右手を襲い、装置内に引摺り込まれる。

次いで、前頭部を装置に強く打ちつけた。


必死に手を伸ばすが、何も掴めない。

視界は白く、音は遠ざかり、意識は薄れゆく。


頭に浮かんだのは、家の玄関だった。

孫が靴につけてきた泥。

夜勤明けに掃除するはずだった、日常の断片。

その途中で、思考が途切れた。



─────────────────────

【労働災害速報(写し)】

発生日時:令和○○年6月9日 午前2時42分

発生場所:東京都△△市 LS食品加工工場C棟

被災者:男性1名(56歳・勤続38年)


<災害概要>

スチームコンベア運転中、異物噛込が発生。

被災者が確認作業のため側面カバーを開放し、設備内部に接近。

低速回転中の設備に身体を挟まれ死亡。


<推定原因(暫定)>

①装置安全装置の不充足

②安全手順の簡略化

③単独作業による緊急対応不実行


<安全装置の状況>

非常停止装置およびインターロックは正常。

違法改造および装置故障は認められず。


所見:被災者の規則逸脱行為に起因する不慮の労働災害と判断。

─────────────────────



6月17日 AM09:05

@東京都中央区 つむぎ損害保険株式会社

 損害サービス部 特殊事故対応室

 

モニター上で速報ファイルを3度読み返した。

添付された現場写真の拡大・縮小を繰り返し、細部を入念に確認する。


「巻き込まれによる労災、最近多いですね」

右隣のデスクから東野の声がした。

東野は2つ下の後輩の男。

若手の頃はよく面倒を見ていた。


「安全対策が形骸化しちゃったんですかね?

 慣れって、やっぱり怖いですね」

左隣から篠宮が答えた。社歴4年目の女性。


東野は即座に切り返した。

「慣れても安全対策を徹底する会社も多い。

 職場の安全意識が低いのかもな。それより、

 インターロック未作動が根本的な問題だ。」


勝手に人のモニター画面を覗き込み、

議論を開始されても迷惑甚だしい。

現場写真の確認に集中させてほしい。


「警察、労基、装置メーカーも確認済。

 残るは約款の判断だけ。ねえ、片瀬さん」

名前を呼ばれたら、返事するしかない。

「まだ決まった訳じゃない。

 しっかり現場調査してから判断するよ。」

篠宮が驚いて顔を上げる。

「調査はリモート面談でも済みますよ?

 警察と労基の詳細資料も後日届くでしょ。」

「現場が起点であり、終点。

 それがウチのモットーだから。」

東野と篠宮は呆れた表情を浮かべたが、

無視することにした。

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