第三章 記憶の宝庫

プリンの成功から三日が経った。


その間に、蓮は様々なことを学んだ。この世界の言語、通貨、社会構造、そして——「魔法」について。


レン・カルディアの身体には、ほとんど魔力が宿っていない。それは、この村で行われた「魔力測定」の儀式で明らかになった。


十歳になった子どもは全員、村の神殿で魔力を測定される。水晶玉に手を触れ、その輝きの強さで魔力の量が判定される。普通の子どもなら、水晶玉は淡い光を放つ。魔法の才能がある子どもなら、眩いばかりに輝く。


蓮が水晶玉に触れたとき、それは全く光らなかった。


「……魔力ゼロか」


神官は、失望したように呟いた。


「残念だが、お前に魔法の才能はない。剣の道も、魔力がなければ強化術式が使えん。農民として生きるしかないだろう」


周囲から、同情と蔑みの視線が向けられた。魔力ゼロの子どもは、この世界では「役立たず」として扱われる。戦えない、治せない、何もできない。ただ畑を耕すことしかできない底辺の存在。


蓮は、黙ってその言葉を聞いた。


また底辺か。前世と同じだ。「才能がない」「役立たず」——その烙印を、また押されるのか。


しかし、蓮は落ち込まなかった。


むしろ、奇妙な安堵を覚えていた。


蓮には、魔法も剣術も必要ない。蓮には、「製菓」がある。それは、魔力に依存しない技術だ。材料の性質を理解し、温度と時間を制御し、化学反応を導く——それが、蓮の武器だ。


そして、蓮には前世の二十五年間で蓄積した知識がある。


製菓の技術だけではない。基礎的な化学、物理学、生物学の知識。近代的な衛生観念、食品保存の方法、調理器具の原理。それらは全て、蓮の頭の中に残っている。


この世界では、それらは「チート」に等しい。


魔力測定の翌日、蓮は本格的な「実験」を開始した。


まず、蓮が取り組んだのは「砂糖」の確保だった。


この世界で砂糖が高価なのは、精製技術が未発達だからだ。サトウキビや甜菜(ビート)から糖分を抽出する方法は知られているものの、その過程は非効率的で、不純物の多い黒砂糖しか作れない。白砂糖は、王都の錬金術師たちが魔法を用いて精製しており、一般庶民には手が届かない。


しかし、蓮は知っている。砂糖の精製には、魔法など必要ない。


必要なのは、「再結晶化」の原理だ。


粗糖を水に溶かし、加熱して濃縮する。そして、ゆっくりと冷却することで、純度の高い砂糖の結晶を析出させる。不純物は溶液に残るので、結晶だけを取り出せば、白に近い砂糖が得られる。


蓮は、市場で安い黒砂糖を少量購入した。それを家に持ち帰り、「実験」を始めた。


鍋に水を張り、黒砂糖を溶かす。沸騰しない程度の温度で、じっくりと煮詰める。糸を引くくらいの濃度になったら、火から下ろし、ゆっくりと冷ます。


翌朝、鍋の底に、白い結晶が析出していた。


完全な白砂糖ではない。まだ、少し茶色がかっている。しかし、元の黒砂糖に比べれば、純度は格段に上がっている。


「……できた」


蓮は、その結晶を舐めてみた。


甘い。雑味のない、クリアな甘さだ。


これで、「砂糖」の問題は解決した。あとは、この精製法を改良し、効率を上げれば、安定的に砂糖を確保できる。


次に、蓮が着手したのは「バター」の製造だった。


この世界には、バターという概念がない。牛乳は飲料として消費されるか、チーズに加工される。乳脂肪を分離してバターを作るという発想が、そもそもないのだ。


しかし、バターの製造は難しくない。生乳をかき混ぜ続ければ、脂肪分が凝集してバターになる。前世の農村で行われていた、原始的な製法だ。


蓮は、村の牛飼いから新鮮な生乳を分けてもらった。それを陶器の壺に入れ、木の棒でひたすらかき混ぜる。


一時間後、乳の表面に黄色い塊が浮かんできた。


バターだ。


蓮はそれを布で包み、水分を絞り出した。そして、少量の塩を加えて練り上げる。


完成したバターは、黄金色に輝いていた。鼻を近づけると、芳醇な乳の香りが漂う。


「……ミラ、ちょっと来て」


蓮は、庭で遊んでいたミラを呼んだ。


「何? また何か作ったの?」


ミラは、目を輝かせて走ってきた。プリン以来、彼女は蓮の「実験」に強い興味を示すようになっていた。


蓮は、焼いたパンにバターを塗り、ミラに差し出した。


「食べてみて」


ミラは、パンを受け取り、一口かじった。


「……っ!」


彼女の目が、再び大きく見開かれた。


「なにこれ! パンが、こんなに美味しくなるなんて……!」


ミラは、夢中でパンを頬張った。口の端にバターがついているのも気にせず、あっという間に完食してしまう。


「もっと、もっとちょうだい!」


「ごめん、今日はこれだけ。でも、また作るから」


蓮は笑いながら、ミラの頭を撫でた。


これで、「バター」も確保できた。あとは生クリームだが、それは牛乳から乳脂肪を分離する過程で副産物として得られる。


材料の目処が立った。


次は、本格的な「菓子」の製作だ。


蓮が次に挑戦したのは、「シュークリーム」だった。


シュー生地は、製菓の中でも特に難易度が高い。水、バター、小麦粉、卵という単純な材料で作るのだが、その工程には繊細な技術が要求される。水とバターを沸騰させ、小麦粉を一気に加えて糊化させる。そして、卵を少しずつ加えながら練り上げる。温度、タイミング、攪拌の強さ——全ての要素が完璧に揃わなければ、生地は膨らまない。


蓮は、前世で何百回とシュー生地を作ってきた。最初の一年は、失敗の連続だった。生地が膨らまない、中が空洞にならない、焼き縮みする——あらゆる失敗を経験し、その原因を分析し、一つずつ克服してきた。


その経験が、今、蓮の手の中にある。


蓮は、精製した砂糖、手作りのバター、村で採れた小麦粉、新鮮な卵を用意した。


鍋に水とバターを入れ、火にかける。沸騰したら、小麦粉を一気に投入し、木べらで激しくかき混ぜる。生地が鍋底から離れ、一つの塊になったら、火から下ろす。


そして、卵を加える。


ここが、最も重要な工程だ。


卵を一度に加えると、生地が分離してしまう。少量ずつ、生地に完全に馴染ませてから、次の卵を加える。その繰り返しだ。


蓮は、木べらを握る手に力を込めた。


生地の状態を観察する。粘り、艶、落としたときの流れ方。温度計がなくても、蓮には生地の「声」が聞こえる。「まだ卵が足りない」「もう少しで完成だ」——生地が語りかけてくるのだ。


「……よし」


生地が完成した。


木べらで持ち上げると、三角形に垂れ下がる。「リュバン状態」だ。これで、焼成すれば生地は膨らむ。


蓮は、生地を絞り袋(代わりに布で作った即席のもの)に詰め、鉄板の上に小さな山形に絞り出した。


オーブンはない。代わりに、蓋付きの大きな鍋を使う。鍋の底に小石を敷き、その上に鉄板を置く。蓋をして、上からも火を当てる。これで、簡易的なオーブンになる。


温度管理が難しい。蓮は、鍋の蓋を少しずらし、中の様子を確認しながら、火加減を調整し続けた。


二十分後。


蓮は鍋から鉄板を取り出した。


そこには、見事に膨らんだシュー皮が並んでいた。


「……っ」


蓮は、思わず声を漏らした。


表面は黄金色に焼き上がり、中は空洞になっている。完璧なシュー皮だ。前世で作っていたものと比べても、遜色ない出来栄えだ。


「やった……」


蓮は、涙が出そうになるのを堪えた。


この世界に来て、初めて「自分らしいこと」ができた気がした。


次は、カスタードクリームだ。


牛乳、卵黄、砂糖、小麦粉。これらを鍋で炊き上げ、なめらかなクリームを作る。ここでも温度管理が重要だ。火が強すぎると、卵が凝固して「ダマ」になる。弱すぎると、いつまでも固まらない。


蓮は、木べらでクリームをかき混ぜながら、鍋底の感触を確かめた。


「とろみがついてきた……」


クリームが、急に重くなる瞬間がある。それが、完成の合図だ。


蓮は鍋を火から下ろし、クリームをボウルに移した。表面にラップ(代わりに油を塗った布)を密着させ、冷ます。


三十分後、クリームは適度な硬さになった。


蓮は、シュー皮の底に穴を開け、クリームを詰めた。


完成だ。


「ミラ! 母さん!」


蓮は、家族を呼んだ。


台所に集まった三人——ミラ、「母親」、そして「父親」——の前に、蓮はシュークリームを並べた。


「これ、何?」


「父親」が、不思議そうに尋ねた。がっしりとした体格の、日焼けした農夫だ。


「シュークリームっていう、お菓子だよ。食べてみて」


三人は、おそるおそるシュークリームを手に取り、口に運んだ。


そして——。


三人とも、同時に固まった。


「……なん、だ……これは……」


「父親」の目から、涙が溢れた。


厳格で寡黙な「父親」が、泣いていた。


「こんな……こんな美味いもの、食ったことねえ……」


「母親」も、ミラも、泣いていた。


シュークリームを頬張りながら、三人は声を上げて泣いた。


「レン……お前、これを……どうやって……」


「父親」が、かすれた声で尋ねた。


蓮は、微笑みながら答えた。


「俺にしかできないことがあるんだ、父さん。魔法は使えないけど、俺には『これ』がある」


その夜、蓮は一人で台所に立っていた。


窓の外には、満天の星空が広がっている。前世の東京では、こんなにたくさんの星を見ることはできなかった。


蓮は、自分の手を見つめた。


小さな手。十歳の少年の手。しかし、その手には、二十五年間の記憶が宿っている。


「乳化」という言葉が、蓮の脳裏をよぎった。


製菓において、「乳化」は最も重要な技術の一つだ。水と油という、本来混ざり合わないものを、温度管理と攪拌によって均一に結合させる。チョコレートガナッシュ、バタークリーム、マヨネーズ——それらは全て、「乳化」によって生まれる。


蓮が前世で最も苦労したのも、この「乳化」だった。何度も失敗し、何度もやり直し、何百回と繰り返して、ようやく「乳化」の感覚を掴んだ。


その技術が、今の蓮の武器だ。


「乳化か……」


蓮は呟いた。


水と油。混ざり合わないもの。しかし、それを「繋ぐ」技術がある。


それは、この世界でも通用するはずだ。


蓮は、窓の外の星空を見上げた。


この世界で、自分は何ができるのだろう。


製菓の技術で、どこまで行けるのだろう。


まだ分からない。しかし、一つだけ確かなことがある。


蓮は、もう「底辺」で終わるつもりはない。


前世で果たせなかった夢を、この世界で実現する。


自分の菓子で、人々を笑顔にする。


それが、神崎蓮——いや、レン・カルディアの、新しい人生の目標だ。

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