パティシエ×異世界転生_乳化の錬金術師 ~転生パティシエは甘味で世界を繋ぐ~
もしもノベリスト
第一章 底辺の見習い
午前四時三十二分。
神崎蓮の一日は、世界がまだ眠りの底に沈んでいる時刻に始まる。
スマートフォンのアラームが鳴り響く前に、体内時計が正確に蓮を覚醒させた。三年間、毎日繰り返してきた習慣は、もはや本能のように身体に刻み込まれている。六畳一間のワンルームアパート。窓の外はまだ完全な闘だ。カーテンの隙間から漏れる街灯の光だけが、狭い部屋をかすかに照らしている。
蓮は布団から身を起こし、まず両手を見つめた。
右手の人差し指には、昨日の焼成作業でできた火傷の跡。左手の親指の付け根には、パレットナイフを握り続けることで形成された硬いタコ。爪は短く切り揃えられ、指先の皮膚は乾燥してひび割れている。パティシエの手だ。まだ「見習い」という肩書きしか持たない、底辺の職人の手。
「……今日も、生きてる」
誰に言うでもなく、蓮は呟いた。それは確認であり、自分自身への鼓舞でもあった。
洗面台で顔を洗い、鏡に映る自分を見る。二十五歳。頬はこけ、目の下には消えない隈がある。かつては健康的だった肌は、慢性的な睡眠不足と不規則な食生活で青白くくすんでいた。髪を後ろで一つに結び、清潔感だけは保つ。厨房に立つ者として、それは最低限の矜持だった。
朝食は取らない。どうせ職場に着けば、余ったパンの耳か、形の崩れたシュー皮を齧ることになる。それが見習いの「まかない」だ。
五時十五分、アパートを出る。
最寄り駅まで徒歩八分。始発電車に乗り、都心へ向かう。車内はまだ空いていて、座席に腰を下ろすことができた。しかし蓮は眠らない。代わりに、頭の中で今日の作業工程をシミュレーションする。
月曜日。週の始まり。シェフが新作の試作を行う日だ。
つまり、通常業務に加えて、試作用の材料の計量と準備が追加される。バター、砂糖、卵、生クリーム、アーモンドプードル、バニラビーンズ——何十種類もの材料を、レシピ通りに、グラム単位の誤差もなく計り分ける。それが蓮の仕事だ。華やかなケーキを作ることではない。その土台を、ひたすら黙々と準備すること。
電車を乗り継ぎ、目的地の駅に着いたのは六時過ぎだった。
駅から徒歩五分。閑静な住宅街の一角に、その店はある。
「パティスリー・エトワール」
白い外壁に、金色の筆記体で記された店名。ショーウィンドウには、まだ何も並んでいない。開店は十時。それまでの四時間で、二十種類以上のケーキと焼き菓子を仕上げなければならない。
蓮は裏口から店に入り、更衣室でコックコートに着替えた。白い上着、チェックのパンツ、そして頭にはトーク帽。鏡で身だしなみを確認し、厨房へ向かう。
「おはようございます」
厨房に入ると同時に、蓮は深々と頭を下げた。
すでに数人の先輩パティシエが作業を始めていた。オーブンの予熱音、冷蔵庫のモーター音、そして金属製のボウルがステンレスの作業台に置かれる硬質な音。それらが混ざり合い、厨房特有の「朝の旋律」を奏でている。
「遅い」
返ってきたのは、一言だけだった。
声の主は、厨房の中央で生地を伸ばしていた男だ。黒田健吾、二十七歳。蓮と同期入社でありながら、今やスーシェフ——副料理長の地位にある。
「申し訳ありません。すぐに持ち場につきます」
蓮は頭を下げたまま、自分の持ち場へ向かった。厨房の最も端、冷蔵庫と洗い場の間にある狭いスペース。そこが蓮の「城」だった。
計量台の上には、すでに今日のレシピが置かれていた。A4用紙に印刷された、十二枚の指示書。蓮はそれを一枚ずつ確認し、必要な材料をリストアップしていく。
バター(無塩)——四キログラム。
グラニュー糖——三キログラム。
卵黄——八十個分。
生クリーム(乳脂肪分四十二パーセント)——二リットル。
アーモンドプードル——一・五キログラム。
数字の羅列。しかし蓮にとって、それは音楽の楽譜のようなものだった。正確に読み取り、正確に再現する。一グラムの狂いも許されない。なぜなら、製菓とは化学反応だからだ。砂糖の量が一グラム多ければ焼き色が変わり、卵白の泡立て方が足りなければスポンジは膨らまない。
蓮は冷蔵庫からバターを取り出し、計量を始めた。
デジタルスケールの数字を睨みながら、ナイフでバターを切り分けていく。四キログラムを、五百グラムずつ八つのブロックに。さらにそれぞれを、レシピに応じた分量に細分化する。単純作業。しかし、この単純作業を三年間、毎日繰り返してきた。
「神崎」
背後から声をかけられ、蓮の手が止まった。
振り返ると、黒田が腕を組んで立っていた。切れ長の目が、蓮を値踏みするように見下ろしている。
「今日の試作、シェフが新しいガナッシュを作るらしい。お前、チョコレートの準備できるか?」
「はい。カカオ分は何パーセントのものを——」
「六十六パーセントのヴァローナ。テンパリング、分かるよな?」
蓮は頷いた。テンパリング。チョコレートを溶かし、特定の温度帯で結晶化させることで、美しい艶と滑らかな口溶けを実現する技術。製菓の基本でありながら、最も難しい技術の一つだ。温度が一度でもずれれば、チョコレートは白く濁り、ざらついた食感になる。
「分かっています」
「本当か? 前にお前がやったとき、ブルーム出てたぞ」
黒田の声には、明らかな嘲りが含まれていた。
蓮は唇を噛んだ。確かに、半年前の試作で失敗したことがある。あのときは湿度の管理を怠り、チョコレートの表面に白い粉が浮いてしまった。シェフから怒鳴られ、材料費を給料から天引きされた。
「あのときの失敗は、二度と繰り返しません」
「へえ。まあ、お前みたいな才能のない奴が何を言っても、説得力ないけどな」
黒田は鼻で笑い、自分の持ち場へ戻っていった。
蓮は黙ってその背中を見送った。拳を握りしめ、爪が掌に食い込むのを感じながら。
才能がない。
その言葉は、三年間で何百回も聞かされてきた。シェフから、先輩から、そして同期だったはずの黒田から。最初は悔しかった。反論したいと思った。しかし今は、ただ静かに受け入れている。
なぜなら、それは事実だからだ。
蓮には、パティシエとしての「天賦の才」がない。黒田のように、一度見ただけで技術を盗む器用さもない。シェフのように、食材を見ただけで完成形をイメージできる直感もない。蓮にあるのは、ただ愚直に繰り返すことだけだ。百回失敗しても、百一回目に成功するまで続ける。それしかできない。
午前七時。計量作業が一段落し、蓮は次の仕事に取りかかった。
卵の分離。卵黄と卵白を、一つずつ丁寧に分けていく。八十個の卵を、一つも無駄にせず、一滴の卵黄も卵白に混入させず、完璧に分離する。
卵を割る。殻を半分に開き、黄身を片方の殻に残しながら、白身だけをボウルに落とす。そしてまた、殻から殻へ黄身を移し、付着した白身を落とす。この動作を、八十回繰り返す。
単調な作業。しかし蓮は、この時間が嫌いではなかった。
卵の殻が手の中で割れる感触。黄身の重さ。白身が糸を引きながらボウルに落ちていく様子。それらに集中しているとき、蓮は余計なことを考えずに済んだ。黒田の嘲笑も、シェフの怒号も、自分の才能のなさも、全てが遠くなる。
ただ、目の前の卵だけがある。
「——神崎!」
怒鳴り声で、蓮は現実に引き戻された。
顔を上げると、シェフが厨房の入り口に立っていた。五十代後半、白髪交じりの髪を短く刈り込んだ、厳格な顔つきの男だ。この店のオーナーであり、日本の洋菓子界で「鬼才」と呼ばれる人物。
「はい!」
「今日の試作、ガナッシュの仕込みはお前に任せる。テンパリング、失敗したら承知しないぞ」
「承知しました」
蓮は深く頭を下げた。心臓が跳ねる。緊張ではない。これは、チャンスだ。
三年間、ひたすら下働きを続けてきた。計量、洗い物、型磨き、フルーツのカット。華やかなケーキ作りには、一度も参加させてもらえなかった。しかし今日、シェフが蓮に「テンパリング」を任せた。それは、ほんのわずかでも、蓮の技術を認めてくれたということではないか。
いや、違う。
蓮は自分を戒めた。期待してはいけない。きっとこれは、黒田が忙しいからだ。他に手が空いている人間がいないから、仕方なく蓮に回ってきただけだ。
それでも。
それでも、蓮はこのチャンスを絶対に無駄にしない。
午前九時。蓮はチョコレートの準備を始めた。
ヴァローナ社のクーベルチュール・チョコレート。カカオ分六十六パーセント。フランスから空輸された最高級の製菓用チョコレートだ。一キログラムで数千円もする。失敗は許されない。
蓮はチョコレートを細かく刻み、ステンレスのボウルに入れた。湯煎にかけ、ゆっくりと溶かしていく。温度計を睨みながら、五十度を超えないように注意する。
チョコレートが完全に溶けたら、次は冷却だ。大理石の板の上にチョコレートを流し、パレットナイフで広げながら温度を下げていく。二十七度まで冷やし、再び三十一度まで温める。この温度変化によって、カカオバターの結晶が安定した形に整列し、美しい艶と「パキッ」という歯触りが生まれる。
「タブラージュ」と呼ばれるこの技法を、蓮は何百回と練習してきた。家に帰ってから、安い製菓用チョコレートを買って、深夜の狭いキッチンで繰り返した。失敗したチョコレートは、自分で食べた。甘いものが好きだったはずなのに、いつからか、チョコレートの味が分からなくなった。
それでも、練習を止めなかった。
パレットナイフを動かしながら、蓮はチョコレートの状態を観察した。色、艶、粘度。温度計の数字だけでは分からない、微妙な変化を読み取る。
「……よし」
二十七度。蓮はチョコレートをボウルに戻し、湯煎で再び温め始めた。三十一度。温度計が示す数字を確認し、蓮は湯煎からボウルを外した。
テスト用の紙にチョコレートを薄く塗り、冷蔵庫に入れる。三分後、取り出して確認する。
美しい艶。指で触れると、すぐに溶け始める。ブルームはない。
成功だ。
「神崎」
背後からシェフの声がした。蓮は振り返り、テスト用の紙を差し出した。
シェフはそれを手に取り、光に透かすように眺めた。そして、チョコレートの端を指で折った。「パキッ」という小気味よい音が厨房に響く。
「……及第点だ」
それだけ言って、シェフは自分の持ち場へ戻っていった。
蓮は深く息を吐いた。及第点。シェフの口から、初めて肯定的な言葉を聞いた気がした。
「へえ、まぐれだな」
冷たい声が、蓮の喜びを打ち消した。
黒田が、作業台の向こう側から蓮を見ていた。
「たまたま上手くいっただけだ。次はどうせ失敗する。お前みたいな奴は、一生フエも握れねえよ」
フエ——泡立て器。パティシエの象徴とも言える道具だ。見習いの蓮には、まだそれを握る資格がない。
「……はい」
蓮は静かに答えた。反論しても無駄だと分かっていた。黒田の言葉は、ナイフよりも鋭く蓮の心を抉る。しかし、傷ついた顔を見せれば、黒田はさらに喜ぶだけだ。
だから蓮は、何も感じていないふりをした。
午後八時。閉店後の厨房。
蓮は一人で洗い物をしていた。使用済みのボウル、泡立て器、パレットナイフ、オーブンの天板。それらを一つずつ洗い、消毒し、所定の位置に戻していく。
他のスタッフは、とっくに帰宅していた。黒田も、シェフも。残っているのは蓮だけだ。
これが、見習いの日常だった。朝は誰よりも早く来て、夜は誰よりも遅く残る。華やかなショーケースの裏側には、こうした地道な労働がある。
洗い物を終え、床をデッキブラシで磨き、排水溝の掃除をする。シンクを磨き上げ、ダスターを漂白液に浸ける。そして最後に、翌日の計量を行う。
午後十一時。ようやく、蓮は更衣室でコックコートを脱いだ。
全身が重い。足は棒のようだ。腰には鈍い痛みがあり、肩は凝り固まっている。しかし、これが蓮の「普通」だった。
裏口から店を出ると、冷たい夜風が頬を撫でた。十二月の東京。吐く息が白く煙る。
終電には、まだ間に合う。
蓮は駅へ向かって歩き始めた。人気のない住宅街。街灯の光が、濡れたアスファルトに反射している。いつの間にか雨が降っていたらしい。
歩きながら、蓮は今日の出来事を振り返った。
テンパリングは成功した。シェフから「及第点」をもらえた。それは、三年間で初めての「成果」だった。
しかし、黒田の言葉が頭から離れない。
「お前みたいな才能のない奴は、一生フエも握れねえよ」
才能。
蓮には、それがない。分かっている。自分でも、痛いほど分かっている。
それでも。
「……いつか、自分の店を持つんだ」
蓮は、誰もいない夜道で呟いた。
それが、蓮の夢だった。小さな店でいい。カウンターが五席あれば十分だ。そこで、自分の作った菓子を、お客さんに直接手渡したい。「美味しい」と言ってもらいたい。笑顔が見たい。
その夢のために、三年間耐えてきた。黒田の嘲笑にも、シェフの怒号にも、終わりの見えない下積みにも。
あと何年かかるか分からない。十年か、二十年か。それでも、蓮は諦めるつもりはなかった。
駅が見えてきた。
蓮は足を速めた。終電まであと十分。ぎりぎり間に合いそうだ。
そのとき。
視界の端で、何かが光った。
車のヘッドライト。
猛スピードでこちらに向かってくる。
蓮は反射的に身を翻そうとした。しかし、疲弊した身体は思うように動かない。
衝撃。
身体が宙に浮く感覚。
そして、暗闇。
意識が遠のいていく中で、蓮は不思議と穏やかな気持ちだった。
ああ、死ぬのか。
三年間、必死に働いて、結局何も成し遂げられなかった。
フエを握ることも、自分の店を持つことも、できなかった。
無念だ。
それだけが、最後の感情だった。
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