1-7、

 怪異は、強い。

 それはもう、人の手では立ち向かう事が圧倒的に難しいほどに、強い。

 

 怪異が強い理由は、単なる力だけではない。一般的に言えば、筋力、持久力、柔軟性。そのどれもが異様に優れているどころか、人間の思考力を持つことで最大限発揮している。

 

 更に怪異は、〝虚無〟になることが出来た。人間の姿から一変、大気の中に溶け込み息を潜める。その逆も然り、大気の中に息を潜めて一変、人間の姿となって人を襲う。

 

 ――……っ、速い。

 

 先ほどの広場から、三〇一〇教室まではおおよそ数百メートル。足の速い凌雅がひたすらに走るものの、凌雅と怪異の距離は縮まりつつあった。

 その後ろから彼らを追いかける尚也は、身体の力を抜き、地面を捉えて流すように走る、はしる。

 

「……、は、先輩ッ!」

 

 それから、どのくらい走った頃だろうか。

 場所はかわり、建物の中。あともう少しで件の三〇一〇教室へ到着しようとした頃。

 怪異の持つナイフが、先頭を走っていた凌雅へ今にも触れようとした時。凌雅が足を止めた。そして、立ち向かうために怪異へ身体を向ける。

 

 一言こちらへ叫んだのは、戦う許可をくれ、という意味合いだろう。

 

 同時に足を止めた怪異は、やはり楽しそうに笑う。

 笑って、意味の分からない言葉を叫び、また笑って、なめるような視線を凌雅から離さない。

 

「お前、っ、無理だ!」

 

 ――本当に、お前には無理だ。

 

 怪異は、強い。

 ただナイフが振り下ろされ、その刃を受け流す、これがどれだけ難しいことか。

 尚也は、怪異にひねり潰される人間を幾度となく見てきた。玩具で遊ぶかのように弄ばれる人間を幾度となく見てきた。

 

 それも、対する怪異は正気を失っている。理性などないに等しいのだ。

 尚也の想いは虚しくも、一度足を止めてしまったからには、戦い、勝利するしか道はない。これは尚也の責任だ。


「……っぅ、」

「ギャ!!!ハ!!!! サァ!!ハ、ガァブウゥグ!!」

「……は、っ、」

「キクキク、ギャ!!ハ!!!!」


 怪異は、一瞬の隙に飛び出した。

 凌雅へ向けて、怪異が持つナイフが振り下ろされる。一発目は、辛うじて耐えた。しかし、どっしりと構えていた体勢が崩される。崩されてしまえば後は、もう。

 

 ――……クソ。


 

 尚也は咄嗟に地面を蹴ると、凌雅と怪異の間に滑り込んだ。容赦なく振り下ろされた二発目を受けた右手が、痺れるように痛む。


「凌雅」

「……はい」

「合図したら、必ず撃て」


 思わずナイフを手放しそうになるが、そういう訳にはいかなかった。指先まで神経を走らせて、しっかりと柄を握り込み離さない。


「サァ、さァ、ハは、ガァ!!!」

「なんて言ってんだよ、ソレ」

「シィ、しぃ、ヒ、ひ、が、ブぅぅう」

 

 何度も、何度も。

 繰り返し叩きつけられる攻撃は、一撃一撃が重たい。重たいどころか、どんどん強くなっていく。

 ――今しか、ない。

 すると、突然。怪異が、ハッとした顔をする。

 攻撃を突如として止め、目を見開き、喉を鳴らした。


「裏切り者」

「ウラ、ギリ、モノ。お前は、オマエは、始祖様を裏切った」

「裏切った、ウラギッタ、ギャ、ハ!」


 そしてナイフを放り投げたと思いきや、続けて叫ぶ。

 両手を高らかにあげ、薄暗い廊下で叫ぶ。


 その指先が僅かに動いたのを、尚也は見逃さなかった。


「凌雅! 撃て!!」

「はい!!」


 パチン、と音が鳴る。

 怪異が消える音が、静かに鳴り響く。

 しかし、怪異は消えなかった。消えられなかった。


「……ハ、ェ、なん、でぇ?」


 凌雅は懐から取り出した小型の銃を、上着のポケットにしまい込んで大きく息を吐く。と、そのまま狭い廊下の壁にもたれかかって天を仰いだ。

 

 ――よくやった。

 

 この銃は、怪異が〝虚無〟に戻ることを一時的に阻止することが出来る。むしろそれしか出来ない特殊なものだ。

 杭を二本打ち出し怪異にぶつけることで、数十秒の間、変幻を止めることが出来た。

 消すためではない、ただ、止めるだけの銃。


「すべては、大いなる、始祖様のために」


 尚也は上がった息を落ち着かせるようにゆっくり吐き出すと、また同じ文言を繰り返す怪異の前に立った。そして、静かに、たった一歩前に踏み出す。

 抵抗もしない怪異のコアへ、ひとつ。


 音もなく消えた怪異のあとに残るのは、ふたり分の呼吸音のみ。

 廊下についた蛍光灯が、ついてを繰り返す。かちかち、と意味も無く。

 

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