彼女バックアップ
アボカド18%
第1章 問い
「明日、大切な人がそうじゃなくなったらどうする?」
夜のコンビニ帰りだった。雨は上がっていたけれど、歩道はまだ濡れていて、街灯の光が足元で滲んでいた。袋の中で、缶コーヒーと菓子パンがぶつかって、鈍い音を立てる。
「急にどうしたの……?」
聞き返すと、彼女は肩をすくめた。濡れた前髪を指で払って、いつもの調子で歩き続けている。冗談を言う直前みたいな顔だった。
「単純な疑問。今のあなたの考えじゃなくて、そうなった状態のあなたの立場を前提に答えてほしいの」
意味は分かるけれど、輪郭がはっきりしない言い方だった。いつもそうだ。大事なことほど、少しだけぼかして投げてくる。
「そうなった状態って……」
「そのまま。そうじゃなくなったら、ってこと」
「説明になってないじゃん」
「いいの。それで」
彼女はそう言って、コンビニの袋を軽く揺らした。中身なんて大したものじゃないのに、妙に楽しそうだった。
この手の質問には、たいてい正解が用意されている。優しい言葉とか、前向きな決意とか。相手が安心する答え。
でも、どれもしっくりこなかった。
「まあ、どうするかは分からないかな。ただ……」
「ただ?」
立ち止まって、彼女がこちらを見る。少し見上げる形になる。視線が合うと、余計なことを言えなくなる。これは昔からだ。
冗談で流そうと思った。いつもみたいに。そうすれば、この話はここで終わる。そういう選択肢も、たぶんあった。
それでも、口から出たのは別の言葉だった。
「そうなったら、僕は寂しいよ」
言ってから、少しだけ後悔した。正しくもないし、格好よくもない。相手を支える言葉でもない。ただの感情だ。
「そう……」
彼女はただ短く呟いた。それ以上、何も返さない。否定もしないし、肯定もしない。ただ受け取った、という感じだった。
また歩き出す。川沿いの道は静かで、遠くの車の音だけが低く響いている。
交差点の手前で信号待ちをしていると、向かいのビルの壁面モニターが切り替わった。白い背景に、見慣れたコピーが流れる。
《あなたの“今”を、未来へ。》
《万が一に備える、人格バックアップ》
街には、こういう言葉が当たり前みたいに溶け込んでいる。天気予報や求人広告と同じ並びで、何事もない顔をして。
彼女はそれを見なかった。
僕もそれを見ないふりで目線を逸らす。
信号が青に変わる。二人で並んで横断歩道を渡る。
「さっきのさ」
「なに?」
「答え、変だと思わなかった?」
「別に」
「もっと、まともな答えはあったよね」
「それはそうかもね」
彼女はそう言って、小さく笑った。軽い笑いだった。いつも通りの、日常の中の笑い。
僕もつられて笑った。そのまま、何事もなかったみたいに歩いた。
その夜のことを、僕はあとになって何度も思い出す。
あれはただの雑談だった。
ただの、少し変わった質問だった。
――そう思おうとすれば、思えた。
でも、確かにあのとき、僕はそう答えた。
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