第一章④

 思わず見惚みとれていると、凛生は紬希にコーヒーを差し出した後、壁に立てかけていた折りたたみの椅子を引き寄せて隣に腰を下ろす。

「ところで、まだお名前を聞いていないんですが」

 紬希は急な接近に緊張しつつも、今さらながら、自分だけがまだ名乗っていなかったことを思い出した。

「か、片山紬希です。二十四歳で、求職中です」

 凛生に比べてあまりに情報の少ない自己紹介だったが、凛生は目を細めて笑う。

「紬希さんか。可愛い名前ですね」

「そ、祖父が、付けてくれたそうで」

 つい声が揺れてしまったのは、家族以外の男性から名前で呼ばれるなんて、子供の頃以来だったからだ。

そもそも紬希は、彼氏はおろか、人を好きになった経験も、興味を持ったことすらない。

むしろ、人とあまり関係を深めてしまえば特殊体質がバレてしまいそうで、常に緊張感を持って接していた。

結果、気味悪がられるくらいなら距離を置いた方がマシだと考え、他人との間に一線を引き続けて現在に至る。

 だからこそ、女性をいきなり名前で呼ぶイケメンはさぞかし恋愛偏差値が高いのだろうと、まるで他人事ひとごとのように分析していた。

 一方、凛生は紬希から視線を外さず、どこか意味深な表情でゆっくりとまばたきをする。――そして。

「さっき、〝いろんな苦労が全部癒されていくような感じがした〟って言ってましたけど、なにか悩んでることでもあるんですか?」

 穏やかな口調で尋ねられ、紬希はついさっきの醜態を思い出して苦笑いを浮かべた。

「い、いえ、悩みという程のものではなく、……ちょっと途方に暮れているだけです。ここしばらく、いろいろ上手くいかなかったので」

「いろいろ?」

「就活、とか」

「とか?」

 適当に流すつもりが続きを促され、紬希はあまりペースにまれないようにと、差し出されたコーヒーをひと口飲んで間を空ける。

 しかし、凛生は質問を取り下げるどころか、依然として紬希をまっすぐに見つめ、根気よく答えを待っている様子だった。

「あの……、別に、そんなに心配していただく程のことでは……」

 視線に堪えられずそう言うと、凛生は小さく肩をすくめる。

「心配しますよ、あんな顔見たら」

「あれはその……、ちょっとした手違いというか、完全に無意識的なもので……」

「無意識だとすると、より危ういです。いつか限界が来る前に、吐き出しておいた方がいいですよ。それに、僕のようなまったくの他人相手なら後腐れがないし」

「だ、大丈夫です。さすがに、これ以上迷惑をかけるわけには」

「迷惑というか、僕はただ、自分が作ったチョコレートを食べてあんなにも幸せそうな顔をしてくれる人には、幸せであってほしいなと思っただけです。そのために、少しでも心を軽くする手助けができればなと。もちろんただの僕のエゴですから、紬希さんが気にする必要はありません」

「…………」

 正直、紬希には、気を使わせない言い方を選んでまで聞き役を申し出てくれる理由が、まったくわからなかった。

 ただのお人好しとして納得できれば楽だが、向けられた親切をそのまま受け取れる程単純な性格ではない。

 だが、家族も相談相手もおらず、多くのことを一人で背負って生きてきた中で、こんなふうに声をかけてもらったのは久しぶりであり、チョコレートの余韻も助けてか、そのときは勝手に緩んでしまう気持ちに抗うことができなかった。

 その結果。

「そんなにたいした話でもないんですけど……、唯一の家族を亡くして以来ずっと一人っきりで、しかも急に仕事を辞めることになってしまって、次もまったく決まらないし、おまけに貯金もどんどん減っていて、……これからどうするんだろうって、日々不安が募ってまして。さっきいきなり泣いてしまったのは、少し、心が弱っていたせいだと思います。あと、久しぶりに大好きなチョコレートを食べて、気持ちが緩んでしまったというか」

 気付けば、心の中に溜め込んでいたものをすっかり口に出してしまっていた。

 散々躊躇ためらっておきながら、スラスラと言葉が出たことには自分でも驚いたけれど、これもすべて美味しすぎるチョコレートのせいだと、紬希は頭に言い訳を浮かべる。

 凛生は、紬希が言葉を締めくくった後、甘く穏やかな雰囲気とは裏腹な深い色のひとみを、かすかに揺らした。――そして。

「――紬希さん」

 ふと意味深に名を呼ばれ、途端に緊張感を覚える。

 凛生は逡巡しゅんじゅんするかのような束の間の沈黙を置いた後、やがて紬希との距離をさらに詰め、視線をとらえたままゆっくりと口を開いた。

「ひとつ、提案なんですけど」

「は、はい」

「……うちで、働きますか?」

「はっ……?」

 突然の提案に、つい間抜けな声が出る。

なにせ、凛生がサラリと口にしたのは、ここしばらくというもの、紬希が求めてまなかったものだ。

幻聴を疑い固まる紬希を他所に、凛生はさらに続ける。

「最近、人手が足りていなくて。スタッフを増やしたいなと思っていたところなんです。もちろん、正社員で」

「正、社員……?」

「はい」

 本音を言えば、いっそなにも考えずに飛びついてしまいたいくらいに魅力的な提案だった。

 その半面、さすがにこんなに都合のいい展開などあり得ないという冷静さもかろうじて残っていて、紬希は凛生の顔の前に両手のひらを掲げる。

「あ、あの、ちょっと待ってください。こんなお店なら働きたい人なんてたくさんいるでしょうし、わざわざ私みたいなど素人を雇わなくても……」

「求めているのは簡単な作業をお願いできる助手なので、素人かどうかはあまり関係ないんです。ただ、それよりも、僕が提示する交換条件をんでくれる人を求めていまして」

「交換、条件……?」

 やはりそう来たかと、その不穏な響きに、紬希はかえって安心する。

 うまい話には必ず裏があるはずで、おそらく簡単ではないであろう条件とやらを聞いてしまえば、これ以上踊らされずに済むだろうと思ったからだ。

 しかし。

「はい。条件というのは、結婚です」

「……は?」

「僕と、結婚してください」

「…………」

 凛生がサラリと口にしたのは、想像の斜め上をいく、極めて異常な提案だった。

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