第一章②
「なんで……」
混乱の
店には自分一人しかいないとわかってはいるが、紬希からオブジェの場所まで二メートル以上あり、手や体が触れてしまったと考えるにはあまりに不自然だった。
紬希は床一面に散った花びらの
そのときふと人の気配がし、おそるおそる視線を向けると、カウンターの奥から現れた二十代後半くらいの青年と目が合った。
黒シャツの胸元に入った〝Chat Noir〟という
青年は紬希と壊れたオブジェを何度か見比べた後、カウンターの外に出て来て、硬直する紬希の顔を
「お怪我はありませんか?」
「け、怪我……?」
「はい。あのテーブル、小さいですけど
「…………」
言える立場ではないけれど、この状況からして、明らかにオブジェを倒した張本人と思われる人間の怪我の心配をしている場合ではないだろうにと紬希は思う。
もちろん自分が倒したわけではないと訴えたい気持ちは山々だが、それこそ状況的に、無理筋であることは明らかだった。
青年は返事をしない紬希の目の前で、首をかしげる。
そんな場合でないことは重々承知だが、間近から見た青年の顔は驚く程整っており、柔らかい口調に反した涼しげな目元がとても印象的で美しく、首をかしげる仕草すら優雅に見え、うっかり目を奪われそうになった。
しかしそれも束の間、青年はようやく床に散らばるオブジェに視線を移し、小さく肩をすくめる。
そして。
「これは僕が一ヶ月かけて制作したチョコレートのオブジェで、パリで開催されたショコラティエのコンクールで入賞したものなんです。……こう見えて、割と絶望しているので、なにか
青年はようやく、紬希が想像していた展開にもっとも近い発言をした。
紬希は、なんとか不可解な現象であることを理解してもらう
だがそんなことができるはずはなく、すっかり途方に暮れかけた、そのとき。
床に倒れたテーブルの陰で、やけに見覚えのある白い
「あぁ……!」
つい、絶望の
途端に怒りが込み上げたけれど、紬希は
「ごめんなさい! 私のせいです! べ、弁償を……」
語尾が弱々しく
黒ぶち猫の仕業とはいえ自分にキッカケがあることは事実であり、心の中は申し訳なさでいっぱいで、紬希は頭を上げることができなかった。
店内がしんと静まり返る中、紬希の頭を巡っていたのは、やはり妙な猫に関わるべきでなかったという後悔。
一方、青年は
「そんなことより、怪我は?」
「そ、そんなことじゃないです、一ヶ月もかかった大切な作品を……」
「怪我は、ないんですね?」
「…………」
やけに怪我の心配ばかりをしてくる青年に戸惑いつつ、紬希はひとまず
青年はほっとしたように息をつき、かと思えば紬希のシャツの
「ああ、……汚れてしまってますね。飛び散ったチョコレートの破片が溶けてしまったのかも」
「え……?」
見れば、
ただ、今の紬希にとってシャツのシミ程度は、青年がやたらと気にかけてくれる怪我以上に
「いえ、これくらい全然だいじょ……」
「早く落とした方がいいです。奥の洗面台で洗いましょう」
「はい?……あの、別にこんなの……」
「さあ、どうぞ」
「…………」
結構強引な人だと思いながらも、オブジェを壊してしまった手前強く否定できず、紬希は渋々青年に従う。
青年はショーケースを兼ねたカウンターの内側に紬希を案内し、裏側にある、店舗とガラスで仕切られた
ずいぶん幅の狭いビルだと思っていたが、厨房にはそこそこ奥行きがあり、見れば、さらに奥へと続くドアも確認できる。
あの間口で
「チョコレートは中性洗剤で簡単に落ちますから、安心してください。あ、カバンやジャケットはこの椅子へ」
「……ありがとう、ございます」
「急いだ方が」
「…………」
紬希は青年のペースに流されるまま、言われた通りにカバンを下ろし、ジャケットを脱いで袖口のボタンを開ける。
すると、青年はタイミングを見計らったように細く水を出した。
「じ、自分で、できますので」
「ああ、すみません。シャツを駄目にしてしまわないかと心配で」
「私が壊したオブジェに比べれば、こんなの別に……」
「そんな言い方をしないでください。オブジェと言っても
「さ、三年も……? むしろ、そんなにもつんですか……?」
「たった三年ですよ。まあ、制作したのは半年前なので、あと二年半くらいは飾るつもりでいましたけど」
「…………」
よほど挙動不審だったのか、青年は突如小さく笑った。
「すみません、今のは冗談です。あまりにも恐縮されているので、ついからかいたくなってしまって」
「からかっ……」
「ごめんなさい」
人が悪いと思いつつ、責められる立場にない紬希はこっそり
「恐縮して当然です……。今だって、どうやってお
最後は消え入りそうな程に声が小さくなり、青年は少し慌てた様子で首を横に振った。
「からかっておいてなんですけど、本当に、気にしないでください。チョコレートのオブジェがもたないのは事実ですし、怪我がなくてなによりです。……というか、思ったより激しい倒れ方をしたので、肝が冷えました」
「……思ったより?」
「さっきも言った通り、あのテーブルはとても重いので、倒れたら危ないなって薄々思っていたんです。面倒臭がらずに早めに対策しておくべきでした」
「そう、……ですか」
ほんの一瞬、小さな違和感を覚えた気がしたけれど、考える余裕などない紬希には、その正体がよくわからなかった。
やがて袖口のシミは
「なにからなにまで、ありがとうございます」
「いえいえ、綺麗になってよかった」
「それで、その。できれば、お詫びの話をさせていただけると」
「ですから、何度も言ってるように、そんなに気にしなくて大丈夫ですよ」
「さすがに気にします。……このままでは、私の気が済みません」
はっきり言い切ったものの、本音を言えば、青年の厚意に甘えるべきではないかという迷いも少なからずあった。
なにせ、求職中の紬希がお詫びとして提供できるものなど、ほとんどない。
ただ、これでは気が済まないという気持ちも嘘ではなく、紬希はドキドキしながら青年の反応を待つ。――すると。
「だったら、新作の試食をお願いできますか?」
わずかな沈黙の後、青年が口にしたのは、まったく予想もつかなかった提案だった。
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