第15話 父親と名乗るインベーダー

 ピンポーン。

 無機質なチャイムの音が、張り詰めた空気を切り裂いた。


「は、はーい!」


 美結が弾かれたように玄関へ向かう。

 鏡の前で何度も笑顔の練習をしていたその顔は、今は恐怖と期待が入り混じった、泣き出しそうな表情で歪んでいた。


 ガチャリ。ドアが開く。


「……よお、美結。久しぶり」


 入ってきたのは、海藤健二(かいどう・けんじ)という三十代半ばの男だった。

 痩せ型で、色素の薄い茶髪を少し長めに残し、安っぽいスーツを着崩している。

 かつてはバンドマン崩れでモテたのだろう。目元には確かに人を惹きつける愛嬌のようなものが伺える。

 ……腐った果実のような、甘ったるい愛嬌が。


「い、いらっしゃい健二くん。どうぞ、上がって」


 海藤はお邪魔しますよと革靴を脱ぎ、ズカズカとリビングに入り込んできた。

 その視線が、部屋の中を舐め回すように動く。

 大型テレビ、高級ブランドの加湿器、美結のバッグ。


 値踏みだ。

 久しぶりに会った元恋人の家に対する感慨ではない。

 空き巣が金目の物を探す目つきだ。


 そして――その視線が、ソファに座る俺に向けられた。

 海藤が目を細める。


「へぇ……これが、俺の……」


 俺と目が合う。

 その瞬間、背筋に冷たいものが走った。


(……こいつが)


 俺の身体の遺伝子の半分を提供した男。美結を孕ませ、認知もせずに逃げた男。


「私と健二くんの娘、アリサだよ」


 こいつと血が繋がっているという事実だけで、吐き気がする。


「初めまして、だね……パパだよー」


 海藤が膝をつき、目線を合わせてくる。

 作られた笑顔。目の奥が笑っていない。


 俺を見る目は、我が子を見る目ではなかった。

 同情を誘うための道具か、あるいは美結を繋ぎ止めるための鎖か。


「……」


 俺は無言で、美結の後ろに隠れるフリをした。

 怯えている演技ではない。本能的に距離を取りたかったのだ。


「ごめんね、緊張しているみたい……」


「いいっていいって。突然パパだなんて言われても、驚くよな……これから時間をかけて、本当の家族になっていけばいい」


 海藤は立ち上がり、美結の肩に馴れ馴れしく手を置いた。

 美結がビクリと震えるが、拒絶はしない。


「座ってくれよ。話したいことが山ほどあるんだ」


 海藤はソファの真ん中にドカッと座り、出されたお茶を一口飲んだ。

 そして、堰を切ったように語り始めた。


「美結……本当に悪かった。あの頃の俺は、若くて、バカだったんだ」


 懺悔の時間だ。

 夢を追いかけていたこと。

 怖くなって逃げ出してしまったこと。

 だが、片時も美結と子供のことを忘れたことはなかったこと。


「俺もさ、お前と別れてから色々あってさ……色んな女を見たけど、やっぱり、俺にはお前しかいないって気づいたんだよ」


 ペラペラと、よく回る舌だ。

 美結はそれを、砂漠で水を飲むように必死に吸収している。

 彼女が一番欲しかった言葉。愛している、必要だ、お前だけだ。それらを的確に並べてい

 る。


「俺も心を入れ替えてさ、今は事業を立ち上げて頑張ってるんだ……これからは俺が、二人を守りたい」


 海藤が美結の手を握りしめ、真剣な眼差しで見つめる。


「美結。俺と、やり直してくれないか? 三人で、一緒に暮らそう」


「……っ!」


 美結の瞳から、涙が溢れた。

 それは、彼女が夢見ていた普通の幸せ。

 両親と子供がいる家庭。


(……上手いな)


 俺は冷めた目で観察を続けていた。

 いきなり金の話はしない。

 まずは家族という甘い夢を見させ、美結の警戒心を完全に解く。

 一緒に住もうという提案も、家賃を浮かせて美結のヒモになるための布石だろう。


 だが、完璧な演技に見えても、綻びはある。

 こいつはさっきから、チラチラと時計を見ていた。

 そして、俺に対しては、最初の挨拶以来、一度も話しかけてこないし、視線も合わせない。

 興味がないのだ。美結という財布にしか用がないから。


「……嬉しい。私、ずっと……」


 美結が海藤の肩に寄りかかろうとする。

 完全に落ちた。そう確信したのだろう。

 海藤の口元が、微かに歪んだ。


「ああ、俺も嬉しいよ……やっと、本当の人生が始められる」


 海藤は一呼吸置き、さもついでのように、あるいは些細な障害のように切り出した。


「でもな、美結……その新しい生活を始めるにあたって、ひとつだけ問題があるんだ」


「え? 問題?」


「今の事業のことなんだが……ちょっとしたトラブルに巻き込まれててな。このままだと、俺たちの未来が閉ざされちまうかもしれないんだ」


 ――来た。

 たっぷりと時間をかけて信頼させ、未来を提示し、最後にそれを人質に取る。

 詐欺師の常套手段だ。


「この子が小学生になる前に、安定した生活基盤を作りたいんだ……美結、少しでいいんだ。協力してくれないか? 俺たちの将来のためだ」


「えっ……で、でも、私……」


「あるだろ? こんな良いマンションに住んでるんだから……百万、いや五十万でいい。来月には倍にして返すから」


 海藤が握った手に力を込める。

 美結が揺らいでいる。

 子供のため、将来のため、という言葉は、母親にとっての殺し文句だ。


(……もう、十分だな)


 俺はスマホを握りしめた。

 咲夜への合図を送る準備はできている。

 だがその前に――


 俺は、三歳児の仮面を被ったまま、海藤の前に進み出た。

 最後に一つだけ、確認しておきたいことがあった。


「ねえ、パパ?」


「……あ? なんだよ」


 海藤が、水を差されたことに苛立ちを隠さずに俺を見た。

 俺は俯き、スカートの裾をぎゅっと握りしめて言った。


「うち……おかね、ないの」


「え?」


「ママ、いつもいっしょうけんめい、はたらいてるけど……食べるものも、あんまりなくて……」


 俺は上目遣いで海藤を見た。


「パパが、おかねくれるの? おいしいごはん、たべさせてくれる?」


 美結が「えっ、アリサちゃん?」と驚いて俺を見るが、俺は無視して海藤を見つめ続けた。

 さあ、どうだ?

 金がないと言ったら、この男はどう反応する?


 海藤の眉がピクリと動いた。

 一瞬、舌打ちしそうな顔になり――次の瞬間、ねっとりとした視線を美結に向けた。

 品定めするような、いやらしい視線だ。


「……そっかぁ。お金、ないのかぁ」


 海藤は、ニタリと笑った。


「でも大丈夫だぞ、アリサちゃん。ママは美人だからなぁ……もっと上手な稼ぎ方がある」


「え……?」


 美結がキョトンとする。

 海藤は美結の太ももに手を這わせ、耳元で囁くように言った。


「俺、いい仕事知ってるんだ。美結は、すごく人気が出ると思う……簡単な接客をするだけで、大金が手に入るんだ」


 ――ああ、ダメだこいつ。

 コイツは今、自分の子供の前で、母親に身体を売れと言った。

 風俗か、あるいはもっと劣悪な何かか。

 自分は働かず、美結を食い物にして生きていく。その宣言だ。


 更生の余地なし。情状酌量の余地なし。

 俺の中で、裁判官のハンマーが打ち鳴らされた。


「……そっかぁ」


 俺は小さく呟き、ふっと笑う。

 幼児がするような表情ではない。


 ――有罪判決は、下った。


 他人を容赦なく切り捨てる、酷薄な大人の笑みだ。


「ダメだな、お前」


「……あ?」


 声色が変わったことに、海藤が怪訝な顔をする。

 俺はソファの上に立ち上がり、汚物を見るような目で海藤を見下ろした。


「おい咲夜。始めろ」


 指を鳴らす。

 同時に、リビングの大型テレビが青白く光った。


 ――さあ、断罪の時間だ。

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