法的に安全な復讐の小説の書き方

nco

第1話 書けるかではなく、越えるかどうか

小説を書く前に、私は一つだけ確認する癖がある。

書きたいかどうかではない。

**書いても線を越えないかどうか**だ。


誰かをモデルにする以上、最初に見るべきは感情ではない。

法律だ。


私は机の上に六法を置き、民法七百九条を開いた。

不法行為。

名誉毀損、プライバシー侵害、人格権侵害。

呼び方はいろいろあるが、裁判所が見るのは感情ではなく要件だ。


私はノートに書いた。


・事実の摘示があるか

・社会的評価を低下させるか

・特定の個人が認識できるか


この三つが揃わなければ、名誉毀損は成立しない。


重要なのは順番だ。

多くの人は「悪く書いたらアウト」だと思っている。

だが実務では違う。


**誰のことか分からなければ、そもそも始まらない。**


私はそこで、数日前の出来事を思い出した。

ある配信者の画面が、検索結果から消えた。

理由は分からない。

通知も説明もなかった。


ブロックされた、という事実だけが残った。


だが、ここで一つ確認する。

「ブロックされた」という事実を書けるか。


答えは、書けない。

それは実在の人物との具体的関係を示す事実だからだ。

特定性に直結する。


では、何を書けるか。


私は要件を一つずつ潰していく。


ブロックされた事実 → 書かない

配信者の名前 → 書かない

配信内容 → 書かない

具体的な発言 → 書かない


ここまで削ると、ほとんど何も残らないように見える。

だが、実際には残るものがある。


**構造**だ。


誰かが、誰かを、何も言わずに切る。

切られた側は理由を知らない。

理由を知らないまま、物語だけが増えていく。


この構造は、特定の人物に属さない。

属さないものは、責任も生まれない。


私はそこで、もう一つ条文を思い出した。

プライバシー侵害。


私生活上の事実であり、

公開を欲しない情報であり、

かつ、一般に知られていないもの。


ここでも同じだ。

特定の人物の私生活を書かなければ、問題にならない。


私はノートに線を引いた。


・経済的に苦しい → 抽象化すれば可

・人間関係が噛み合わない → 可

・未払い通知 → 架空人物なら可


評価を下げるのではなく、

生活を置くだけなら、線は越えない。


ここでようやく、私は「書ける」と判断した。


書ける、というのは自由という意味ではない。

**制限の中で成立する、という意味だ。**


私は最初の一文を書く。


> 通話が切れたあと、部屋は少しだけ明るくなった。


この文は、誰の評価も下げない。

誰の事実も摘示しない。

誰のプライバシーも侵さない。


安全だ。


一文書くごとに、私は確認する。


・これは事実の摘示か

・これは特定性を生むか

・これは評価を下げるか


どれも当てはまらなければ、進める。


机の上には、未払いの通知が三通ある。

だが、それは**誰の通知か分からない**。

分からない以上、裁判所は判断できない。


私はあえて、人物の名前を書かない。

年齢も、職業も、ぼかす。

配信業をしている、という程度に留める。


それで十分だ。

十分すぎるほどだ。


小説とは、本来、何でも書けるものではない。

**書いても責任を問われない線を、どれだけ精密になぞれるか**の作業だ。


私はペンを止め、ノートを閉じた。


これは復讐ではない。

告発でもない。

ましてや暴露ではない。


ただ、法が許す範囲で、

人間の構造を配置しているだけだ。


そう理解したとき、

私はようやく、安心して続きを書けると思った。


いつも通りの、なにもない朝から。

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