第19話 軟膏剤と銀縁丸眼鏡の男
「城下町の、高級飲食店でお見受けしたことがあります」
僕は上手くいったことが嬉しく、調子にのって、店主にそんなことを口走っていた。
言った傍から「しまった」と気づく。
無暗な接触は持つべきじゃない、話しかけずにテントへ向かえば良かったと少し後悔した。
平民だとバレたら終わりなんだ。
慣れた雰囲気で喋って、ミーナにいいところを見せたかったのかもしれない。
「高級なんて、そんな大層なもんじゃありませんよ」
店主は謙遜し、誤魔化すように笑った。
「この国の貴族さんたちは立派な建物に立派な椅子、立派なテーブルに、立派な食器を好むもんですから、粗相のないようにそれなりのもんは揃えて営業してますがね。だから肉も一級品ですよ、ですが焼き方や私自身の腕前は、その辺りの平民の主婦と代わりやせん。蓋を開ければそんなもんですよ、ここだけの話しですがね」
店主の付け加えた「ここだけの話」は素直に受け入れていい。
これは「辺境伯は面をつける」という、この風習から生まれた国民性らしいが、この国の者は他所者に会うと愚痴りたがる。
関係がないからだ。
いくら自国の貴族の悪口を言おうと、他所者には関係がなく、彼らは「そういうものですか」などと笑って誤魔化しながら話を流す。
「辺境伯」たちにとっては、そんな外国の庶民の告げ口も土産話となり、黙って家に持ち帰るのだそうだ。
店主の方は日ごろのストレスを片手間に解消できる。
だからお互い損がない。
「明日も営業してますから、気が向いたら食べに来てください。庶民の味を提供させていただきますんで」
店主は「庶民の味」という言葉に笑いを含ませながら話した。
「機会がありましたら、また寄らせていただきます」
気づくとミーナは既に食べ終わっていた。
値段の割に量は少なめだから仕方ない。
僕は少し急いで肉を食べ終え、「さあ、行こう」と右手でミーナの左手を取った。
「また、お待ちしております」
店主に見送られ、僕らはサーカスの行われるテントへと向かった。
「お肉、おいしかったですね」
ミーナはそう言って、小さな笑みを浮かべた。
それは大喜びというようなものではないが、僕は久しぶりにミーナの笑顔を見た気がした。
「……ああ、また食べに来よう」
〇
ミーナの口元に、さきほど食べたお肉のタレのようなものが付いていた。
ポケットからハンカチを取り出し、「じっとして」と言って僕はミーナの口元をふいてあげた。
ミーナは「言ってくれれば自分でできます」と恥ずかしがっていたが、僕は笑って誤魔化した。
逆光するテントの門を潜ろうとした時、中から出てきた見知らぬ人の肩がぶつかった。
「これは失礼しました」
男はそう言って黒いハットのつばを片手で摘まみ、軽く会釈すると去っていった。
「お兄ちゃん、大丈夫ですか」
「……ああ、なんでもない。行こう」
僕はその男が妙に気になり、ミーナに声をかけられるまで、遠ざかる背中を少しばかり見つめていた。
〇
テントの中は既に、待ち遠しそうにステージを見つめる貴族たちで溢れかえっていた。
それぞれは指定された番号の席に座り、出店で買った肉や果物をかじりながら開幕を待つ。
「僕らも何か買って入ればよかったな、あの場で食べるんじゃなくて」
「ミーナはいらないのです。外で立って食べるのは、あまり好きではないので」
「そうか……」
僕はミーナとそんな会話を交えながら、頭の片隅で、肩のぶつかった男のことを考えていた。
男は特徴的な銀縁の丸眼鏡をかけていた。
気になっているのには理由がある。
すれ違う時、妙なにおいがしたからだ。
気のせいかとも思ったが、おそらく、あれはあの男から漂ったものだ。
彼が会釈した時だ、そのにおいがした。
あれはおそらく、
メンソールのひんやりとした香りがした。
思うに、ヴィックス・ヴェポラップ軟膏の類ではないかと思う。
妊婦がつわりの際、においを誤魔化すために鼻孔のまわりに塗ったりするあれだ。
だが彼は妊婦ではない、それ以前に男だ。
鼻炎もちだろうか、花粉症だろうか……いや、声はよく通っていた。
では、何故そんなものをつけているのか。
サーカス会場は出店で賑わい、いい香りで溢れているというのに、わざわざそれらを遮断する理由はない。
でなければ何故ここにいるんだという話だ。
いや、厳密には完全に遮断することなどできないのにだ。
あれはあくまで誤魔化すためのものであって、だから、結局のところ、軟膏剤の混ざった外気を吸うことになる。
だがそれは本当に軟膏剤のニオイだったろうか。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます