10話

教卓を物差しで叩く三春の授業を抜け出し、トイレに行った。用を足して手を洗っていると、鏡越しに伊田島の入ってくる姿見えた。一瞬、驚いたような目つきをしたが、悟られまいといった風に、あいつは小便器に向かった。

「霜月、お前スポーツかなんかやってんのか?」

 手の水気をはらって出て行こうとしていた時だった。

「……いや? してないけど、なんで?」

「いや、別に……」

 いつかの体育でのことを言ってるんだろう。あれは大将にも軽率だと怒られた。たかがグローブ空手で能力を使うなと。

話はそれだけのようだった。今度こそトイレを出て行こうとした。

「この間、長谷川に会ったわ」不意に言葉が出てきた。

「……長谷川って、中学の?」

「うん。そんで、なんかさあ、俺……」

「……ん?」

「人殺しって、言われたんだけど」

 トイレ内がしんとした。伊田島は用を足すこともせず、五秒くらい黙って、「那々騎か」ぼそりと訊ねた。何か警戒しているような声色だ。

「知らん。たぶんそうだろ? それで、なんか知らないか?」

「なにが?」

「あのとき、あの場には俺と伊田島と、それと楠木しかいなかっただろ?」

「うん」

「……お前が言ったの?」

伊田島は鏡越しに俺の目を見て、「知らない。俺じゃない」と言った。「じゃあ楠木か」と返すと、「事故だろ?」と焦るように言った。

「決まってるだろ、事故だ。那々騎は何より俺の親友だった。まず俺が殺す訳ないだろ?」

「ああ、そ、そうさ。だから事故ってことで終わって」

「じゃあ――なんで長谷川は、人殺しって言ってきたんだ?」

伊田島は口を閉じた。それから「知らない」と言った。

「玉木先生が説明しろって、怒った感じに言って、今思えば焦ってたんだと思うけど、その次は警察にも説明したと思う。警察の人はなんだか優しい口調だった気がする。それが俺、そのときの記憶が結構曖昧で、でも中一の頃の話だし当然なんだけど、なんか部分的に覚えてなくてさ」

「カウンセリング受けただろ?」

「受けた。そのせいかなあ?」

「分からない」

「……とにかく、俺は殺してない。あれは事故だった、お前も知ってるだろ、その場にいたんだから」

「ああ、知ってるよ、分かってるさ。あんまし声荒げんな」

「じゃあなんで長谷川はあんなこと言ったんだよ!」俺は荒げた。

「……知らないって」

「覚えてんだよ、何人かの女子が、あれから卒業まで、魚の黒眼みたいな丸い目で俺を見てたって」

「はあ?」

「その中に長谷川もいた。あいつら、多分あの時点で俺が殺したって思ってたんじゃないかと思うんだ。でも俺は、今にして思えば何か修正することもできたけど、実際、包丁を持ってたのは確かだし、持ってただけだけど確かだし……」

――両肩をぽんと掴まれた。

「しっかりしろ」

伊田島は熱のこもった目で言った。体育会系の屈強な肉体、流石は空手部主将だ。説得力を感じる。

「俺も楠木も知ってるよ、あれは事故だったって」

「……じゃあ、なんでお前、あれから俺を避けるようになったんだ?」

伊田島は少しばつが悪そうに視線を逸らし、「お互いに、なんとなくそうすべきだと思ったんじゃないかって、そう思ったんだ。お前だけじゃない、楠木ともあれから遊ばなくなった」

「嘘を広めた奴がいる」俺はぼそりと言った。

「霜月?……」

「俺が那々騎を殺したって、嘘を広めた奴がいる」

 伊田島の顔が怖気づくように、引き攣った。それが気になって鏡へ振り向いた。

「……」

自分と目が合って、背中に悪寒が走った。


       〇


誠も大将も、高校に入ってから知り合った友人だ。だから二人は、中学の頃の俺を知らない。事故のことも知らないし、そのとき何があったのかも知らない。

あのときは、確か家庭科室の鍵が開いているのを伊田島が見つけたことに始まった。俺たち四人は室内に入り、意味もなく皿やコップや、スプーンやフォークを食器棚から取り出してテーブルに並べた。楠木は窓際のフェンスに腰かけて、窓を開け、グラウンドか何かを眺めていたような気がする。あいつはナルシストっぽいところがあって、たそがれるのが好きだった。伊田島がロッカーから箒を出してきて、一本を那々騎に渡した。並べていた皿を片付け、テーブルにフォークとスプーンを追加して、ビリヤードの真似事を始めた。記憶の中の那々騎は乗り気で、確かゲームルールを提案していた気がする。それがあいつの特技だった。なんでも自分の遊びに変えてしまう奴だった。伊田島がフォークで、那々騎がスプーンだ。箒の先端で順番に自分の食器を突いて、先に相手の食器をすべて外に落とした方が勝ちだ。観戦していると自分も参加したいと思い、何かないかと俺は引き出しの中を漁った。ナイフがあった。ただしそれではフォークやスプーンみたいな曲線がないため、テーブルの上にべたっと張り付いてしまい突けない。それに切れそうで危ないからと、は結局参加を諦めた。

見ているだけではすぐに飽きて、引き出しや戸棚の中をまた漁り始める。そこで包丁を見つけたのだった。危ないことを分かっていながら、別に使う訳でもないと何か言い訳を思い浮かべながら、カバーを外し、確か腹の低い位置で包丁を握り、銀色に光る刃の表面を見下ろした。ぼやけて映る、自分の顔の輪郭を探るように眺めた。

ビリヤードに夢中になっていた那々騎が、不意に、後ろ向きに俺の正面へと下がってきた。


放課後のベルが鳴り、隣の教室から出てきた誠と合流し、その日は教室に残らず下校した。バイトのシフトが入っていて誠が残れないのだ。流石に俺一人で残るというのも確信犯的過ぎると言えばいいのか、流石に自分の姿が客観的に見えてしまう。

「あのさあ、なんか俺の噂とか流れてないよなあ?」

「噂?」

「うん」

「……どんな?」

「なんていうか、その……」

「無砂利場さんをやたらじっと見る人、とか?」

「……マジで?」

「言ってみただけだ」

「なんだよ」

「別に噂なんて聞かない。気になることでもあるのか?」

「ないならいいんだ」

 誠は不思議そうにしていたが、バイトがあるからか深くは訊ねなかった。校門の前で別れ、誠はバイトへ、俺は駅前へ向かった。

マンションに到着し、部屋番号を入力した。大将から応答がなく、何回かやったが無言だった。住人らしき女の人が入ってきた。「こんにちわ」と不審がられないようにし、順番を譲った。エントランスのドアが開き、女の人はつかつかと富裕層の赤い靴を鳴らして奥へ消えていった。姿が見えなくなったことを確認して、念動力で止めておいたドアの隙間からすっと中に入った。

部屋の前まで来て、ドアノブを掴んだ。引くタイプのものだ。鍵がかかっていなかった。

「いるのかよ」

 中に入ると、もわっと変なにおいがした。換気扇が止まっているのかと思いながら、不気味なほどに静かな、真っ暗な廊下を進む。するとパソコン部屋の扉が少し開いていて、廊下に部屋の明かりが細く漏れていた。。そこから誰かの荒い呼吸が聞こえる。それが人二人分のものであるよに思えた瞬間、頭が真っ白になった。部屋の中で、素っ裸の久野さんと大将が合体していた。

 俺は思わず口を押え、息を殺した。そして後ろ向きに、忍び足でその場から退散した。なんとか玄関まで戻り、部屋の外に出て、そっと扉を閉めた。念動力を使えばよかった。浮けば足音を気にせずに済んだことに気付いた。

男女が目合う際の生臭いにおいを始めて知り、エントランスからマンションの外に一歩出たばかりの俺の身体には、動悸以外の動きがなかった。呼吸を思い出して深く吸い込む。鼻の粘膜についてしまっていたらしく、微かにもわっとした。洗顔ペーパーを取り出し鼻と鼻孔を拭いた。

タワーマンションの上階のベランダの欄干に、夕暮れの日差しの反射している姿が見えた。どれが大将の部屋だったか……。あいつはまだ、今も久野さんと……。

考えないようにしてマンションに背を向け、その場をあとにした。

いつまでたっても、俺にだけ出口がないように思えた。


       〇


「お前には執念がないわ」

廊下の先から係長の気だるげな声が聞こえた。

「会社に残ることが迷惑か……それで、辞めることでかかる迷惑は考えなかったか?」

「執念?」

「んん?」

「自己啓発セミナーみたいこと言わないでくださいよ、ちゃんとこうやって面と向かって話してるんですから」

 もう一人の声は妙に落ちていた。腑抜けたようにも思えるが、真っすぐに話す。

「ああ?」恫喝的な声。

「執念の何たるかは個人の美学に基づくじゃないですか」やはり落ち着いていて、係長の気迫にも動じていない。

「つまり人それぞれじゃないですか、つまり係長が僕に執念を感じないというのは、単なる好みの問題じゃないですか」

「好みだと?」苛立ちが声に、表面化し始めている。

「僕は辞めようとしてるんです。ですからつまり、これ以上簡単な言葉がありませんけどね、辞めるんです。真面目に辞めにきた訳で、執念の話なんかされても困りますよ。そりゃあ辞めるにしろ、多少のコミュニケーションは取らないといけませんからね、建前ですよこれは。分かるでしょ、迷惑がかかるなんて知りませんよ。僕の知ったことじゃないんですよ。係長の言葉を借りるなら執念ですよ、僕のこれは。執念でもって辞めるという行為に全力を注いでる訳です、あなたは自分の好みにそぐわないからといって、なんだか昭和的な根性論でカッコつけているだけのように思えます」

 車輪のついた椅子が、机に軽く当たる音がした。勢いをつけて立ち上がる係長の姿が想像できる。重低音の利いた「筋通せ」という声があって、「だから建前ですって」という変わらない落ち着いた声があった。

「そうやって、みんな立派な社会人やってんじゃないですか、係長からも色々とばせてもらいましたけどね、でももういいので辞めますね」

「待てぇ」という怒りに震えた低い声にかぶり、足音がこちらに近づいてくる。

「あ、先輩」

 部屋の入口から色白の、猫背の男が出てきた。軽く会釈し「お疲れ様です」と薄暗い目が俺を見た。

「……辞めるのか?」

「はい。お世話になりました」

「明日は?」

「もう来ません」

「……そうか」

部屋の中から「箕尾!」と怒鳴り声が聞こえる。箕尾は「熊がうるさいので、失礼します」

「帰るのか」

「喫煙所に寄ってから帰ります」

「……じゃあ付き合うわ、最後だから」

「……はい」

 係長が来る前に二人で廊下を抜けた。

 朝には大型トラックが何台も止まる裏口に、ひっそりと喫煙所は設置されている。近年、嫌煙家が主権を握るようになり、禁煙ファシズムが横行し、以前までは社内食堂の隣に一室あった最後の喫煙室もなくなり、この屋外喫煙所が残すところ最後となった。メンソールタバコに火をつけ、人吸いし、深く吸って吐きだした。

箕尾が言った。「うざい上司って無能なんですよ」

「無能?」

「だって俺だけがうざいって感じてる訳ないじゃないですか、そんな稀な人間じゃないんで。つまりあいつは他の奴にもうざいって思われてるんですよ、別に俺だけじゃなくて。そんな奴の下につく価値あります? あいつ絶対出世しませんよ?」

「お前なあ」

「俺ごときに、はっきりうざいって思わせちゃってんですよ、あいつは。だから無能なんです。一番やばいのは、なんだかうざいのに、心の中でさえうざいって言葉では言い切れない奴です」

箕尾は灰皿にタバコを捨てた。「お世話になりました」そう言って背を向け、裏口から道なりに歩いていった。

 私の火の性質には二つある。一つは放射、二つは圧縮である。圧縮は、圧の加え方によって現した火の形をある程度自由に変えることができる。

突き出した私の手の平の先には、矢のような火が現れていた。先端を真っすぐに辿っていくと箕尾くんの背にぶつかる。

私は発射した。箕尾くんは路傍に倒れた。屋外と立体の駐車場を繋ぐ地上の道路だ。立体駐車場の鉄柱がある真下で、丁度照明がなく真っ暗だった。

箕尾くんは辺りを照らし炎上した。

――という、実行可能な一連の妄想が頭の中に起きた。


私は足裏からぬくぬくと火を漏らした。長い時間をかけて背後のショッピングセンター「鳳凰」を火で覆った。すると火事が起きた。時間は夜の八時だ、売り場では閉店を告げる音楽が流れていることだろう。お客や従業員の悲鳴が聞こえ始めるまでに、そう時間はかからなかった。

脇腹に畳んで挟んでいたジャケットを羽織り、私は夜の空に飛び上がった。

若者にとっての祇園祭とは、宵々々山から宵山までの三日間にある。それは夕方から夜にかけて開かれる夜点と歩行者天国だ。烏丸周辺から四条通り、八社神社の目前にかけてが通行規制され、歩行者天国となる。四条烏丸の交差点周辺では多くの夜店が見られ、日の落ちた今頃から多くの若者やカップルで溢れかえる。

それは熱帯の夜に生息する蟻の密集地である。夏の蒸し暑さと息が詰まるほどの人混み。そこでは訪れたカップルがよく喧嘩別れするという話を聞く。

若者は行きたがる。あの人混みに身を埋めたがる。最終的には四条烏丸付近の路傍の段差にでも腰かけて、「やりたいことやった方が楽しいじゃん?」などと言ってナンパに精を出す者もいれば、「祇園祭って毎年つまらんな」と昨年と同じことを言いながら、だらだらと男同士で無駄に時間を浪費する者もいる。

そこに能力者は紛れ込む。祭りに乗じて、各々が各々の解釈で祭りを楽しむのだ。明確な目的で以って楽しむ者もいれば、ただ身を投じ、漠然と時間を浪費する者もいることだろう。

七月十六日、金曜日、仏滅。宵山――今日は祇園祭、最終日だ。

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