あの日と同じ場所で
体育館の脇。植え込みに隠れるように置かれた、古びた木製のベンチ。
そこは新芽の匂いと、乾ききらない土の匂いが混ざっていた。
「……ここ、ですね」
七瀬さんが、吸い込まれるようにベンチの前で立ち止まった。
西日が彼女の黒髪をオレンジ色に縁取っている。
「入学式の日は、人が多くて……。私、本当にこのベンチにたどり着くのが精一杯で」
彼女はゆっくりと腰を下ろした。
そして、当時の自分となぞるように、ベンチの端に力なく手をつく。
(……ああ、やっぱりそうだ)
隣に立った瞬間、すべてが「正解」だと告げてい。た。
ベンチの高さ、背後にある植え込みのざわめき。そして何より、あの日自分の腕の中に預けられた、熱を帯びた細い肩の感触。
記憶のピースが、恐ろしいほどの速さではまっていく。
(俺だ。間違いなく、あの日ここにいたのは俺だ……)
確信が、冷たい汗となって背中を伝う。
「……あ」
七瀬さんが重心を崩し、ふらりと体が右側に傾いた。
「危ない」
反射は、思考よりも残酷だった。
無意識にポケットから飛び出した左手が、彼女の肩をガッシリと受け止める。
「…………っ」
七瀬さんの息が止まった。
至近距離で、彼女の黒髪が微かに揺れる。
左手から伝わる体温が、「あの日」の記憶と完全に一致する。
(頼む、俺じゃありませんように……。人違いであってくれ……)
心の中で、情けない祈りを捧げる。
だが、俺を支える左手は、あの日と同じように彼女の体をベンチへ誘導していた。
「……青木くん」
「……あ、悪い。つい」
慌てて手を離そうとした俺を、七瀬さんの言葉が止めた。
「あの時も……左側から、支えられた気がします」
彼女がゆっくりと顔を上げる。
その瞳は、何かを確かめるように俺の左手を見つめていた。
「支えてくれた人は、私の左側に立って……右手じゃなくて、左手で私の体を支えてくれたんです。だから、すごく安定してて……」
七瀬さんは、自分の肩に残った余韻を確かめるように手を添えた。
「青木くんって、左利き……だったんですね」
「え? ああ、まあな。……それがどうかしたか?」
俺は必死に心拍数を抑え、わざとらしく首を傾げてみせる。
人違いだと言ってくれ。そんなの誰にでもある偶然だ、と笑ってくれ。
「偶然……ですよね」
七瀬さんは小さく笑った。でも、その瞳は笑っていない。
何か、とてつもなく重要なパズルのピースを見つけてしまったような、熱い光が宿っている。
「でも、もしその偶然が重なったら……。それはもう、偶然じゃないのかもしれないです」
俺は何も言えず、ただ彼女の言葉を飲み込んだ。
俺が「その人」である証拠が、いくつも浮かびあがってくる。
おわった。
心の中でそう呟いた瞬間、俺の喉は砂を飲んだように乾ききっていた。
左手を通して伝わる、七瀬さんの肩の体温。
あの日、ベンチで支えた時と同じ、華奢で、でも確かな重み。
(……俺だ。100パーセント、俺だわ)
認めざるを得ない確信が、冷たい汗となって背中を伝う。
七瀬さんの視線に耐えきれず、俺は弾かれたように手を離した。
七瀬さんは俺の左手を見つめたまま、ゆっくりと立ち上がる。そして、逃がさないと言わんばかりに、俺の正面へと回り込んだ。
七瀬さんの瞳には、確信という名の熱が宿っている。
「青いスリッパ、左利き……そして今の支え方」
彼女は一歩、俺との距離を詰める。
「それでも……まだ偶然だって、言い張りますか?」
俺は黙り込んだ。
正直に言って、今の状況は耐え難いほどに「恥ずかしい」。
彼女が今まで、どれほど熱心に「恩人さん」を神聖視していたか、俺は一番近くで聞いてきた。
「……仮に、俺だったとして。何なんだよ」
「え……?」
「俺はあの日、ただの気まぐれで君を助けただけだ。そこに高尚な理由なんてないし、ドラマみたいな感動的な話でもない。たまたま通りかかっただけなんだよ」
俺は一気に言葉を吐き出した。
「なのに、七瀬さんは『命の恩人』みたいに大げさに考えてるだろ? 俺があの日助けた男だって認めたら、明日から君、俺を見るたびに深々と頭を下げたり、過剰に感謝したりするんだろ? そんなの、気まずくて嫌なんだよ」
それが、俺の偽らざる本音だった。
感謝されたいわけじゃない。特別な目で見られたいわけでもない。
ただ、今まで通り、どうでもいい話をしていられる関係でいたかった。
「……感謝されるのが、嫌なんですか?」
「嫌っていうか……困るんだよ。そんな立派な人間じゃないし」
俺は、逃げるように視線をグラウンドの方へ向けた。
「人違いでした、って笑って流してくれた方が、よっぽど気が楽なんだ」
沈黙が、二人の間に横たわった。
七瀬さんは、俺の横顔をじっと見つめていたが、やがて、くすりと小さく笑った。
「……何が可笑しいんだよ」
「いえ。青木くんらしいなって。……私の感謝が、そんなに重荷だったなんて気づきませんでした」
彼女はどこか清々しい表情で一歩身を引いた。
「分かりました。青木くんがそこまで嫌なら、今のところは『人違い』ってことにしておきます。……でも」
七瀬さんは、校門の方へ歩き出し、途中で振り返って微笑んだ。
「私が勝手に感謝して、勝手に青木くんを『いい人』だと思うのは、私の自由ですから。……それは制限しないでくださいね」
「……もう勝手にしろよ」
「はい、勝手にします。……じゃあ、続きはまた明日、空き教室で」
軽やかな足取りで去っていく彼女の背中を見送りながら、俺は深いため息をついた。
バレた。確実にバレた。
(……明日からどんな顔して会えばいいんだよ)
左手に残った熱が、いつまでも引かない。
俺の平穏な日常が、少しずつ、でも確実に形を変えていくのを感じていた。
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