『虚空の魔王(自称)が、隣の席の聖女(元・暗黒騎士)に勝てない理由』

春秋花壇

第1話 | 封印されし右腕の邂逅

窓の外では、五月の柔らかな陽光が校庭の砂を白く焼き、どこか遠くで運動部の吹奏が微かに響いている。


都立御剣高校二年の教室。休み時間の喧騒の中、佐藤駆(カケル)は一人、静寂という名の深淵に沈んでいた。


「……ふ。まさか、これほどまでの密度とはな」


駆は低く、喉を鳴らすような声で呟いた。鼻腔をくすぐるのは、埃っぽいワックスの匂いと、隣の席の女子から漂う微かな石鹸の香り。だが、彼が感じ取っているのはそんな日常的なものではない。


彼は右腕に巻かれた、少し黄ばんだ包帯を愛おしそうに撫でた。


「おい、そこの転校生。さっきから何ブツブツ言ってんだ?」


前の席の男子が、ニヤニヤしながら振り返る。クラスメイトたちの視線が、好奇の針となって駆の皮膚を刺す。普通の少年なら縮こまる場面だが、駆の口角は不敵に吊り上がった。


「貴様らのような『常人』には、この大気の歪みは感じ取れぬか……。無理もない。この教室、あまりに魔力が濃すぎる。何者かが、古代の封印を解いたようだな……。くっ、静まれ、俺の右腕……!」


駆は突如、右腕を左手で強く押さえつけ、椅子をガタつかせて悶絶してみせた。その額には、演技ではない本物の汗が滲んでいる。


教室が一瞬、静まり返った。

それは感銘ではなく、純粋な「戸惑い」と「引き」による沈黙だった。


(……あああああああああ! 痛い! 痛すぎる! 誰か、誰か彼を止めて!)


その時、隣の席の学級委員・白鳥凛は、机の下で拳を血が滲むほど握りしめていた。

視界がチカチカする。心臓が、まるで全力疾走したあとのようにドクドクと警鐘を鳴らしている。


(なんなの、あの包帯の巻き方……! 左右非対称にして末端を少し垂らすのは、中級者がやりがちな『拘束具への憧れ』じゃない! しかも今のセリフ、『魔力が濃い』じゃなくて『因果が捻れている』にすればまだマシなのに……!)


凛は、自身の脳裏に濁流のごとく溢れ出す「改善案」を必死に抑え込んだ。彼女にとって、カケルの言動は単なる奇行ではない。それは、三年前までの自分自身が振り撒いていた、猛毒そのものだった。


「佐藤くん。……その、右腕、大丈夫?」


凛は、精一杯の「優等生スマイル」を顔面に貼り付けて声をかけた。頬が引き攣っているのが自分でもわかる。


駆はゆっくりと顔を上げた。前髪の隙間から、鋭い(と思い込んでいる)視線が凛を射抜く。


「……フン、聖なる乙女か。貴様には見えるのか。この右腕に巣食う、深淵の蛇が」


「……見えないわ。蛇どころか、糸屑も見えない」


凛は冷徹に言い放ちつつ、内心では絶叫していた。(聖なる乙女(ホーリー・メイデン)って呼んだわね今! 昔の私の二つ名(自称)が『爆炎の聖女』だったことへの嫌がらせ!?)


「隠す必要はない。俺の『虚空の眼(ヴォイド・アイ)』は、貴様の魂に刻まれた混沌の残り香を捉えているぞ……」


駆は椅子を回し、凛にぐいっと顔を近づけた。

鼻先が触れそうな距離。駆の瞳は、冗談を言っているようには見えない。本気で、世界を救う途上の戦士のような、真っ直ぐで澄んだ熱を帯びていた。


凛の心臓が、跳ねた。

それは共鳴による羞恥心なのか、それとも。


「……魂の残り香なんて、ないから。佐藤くん、ここは学校。現世なの。魔界でも異界でもないの」


「ふっ……。認めぬか。だが、運命の歯車は既に回り始めた。この『封印されし右腕』が邂逅を果たした以上、平穏な日常など……ぐああああっ!?」


突然、駆が机に突っ伏した。


「……どうしたの?」


「……し、鎮まれ……ッ。奴だ、奴が目覚めようとしている……! 闇の波動が、俺の理性を食らおうと……!」


駆は必死に右腕を抑え、椅子から転げ落ちんばかりに身悶えする。

クラスの女子たちが「え、何、怖いんだけど……」とヒソヒソ声を漏らし始めた。冷ややかな視線が、教室の温度を数度下げたように感じられた。


(まずい。このままだと、この子、初日でカーストの最底辺どころか、保健室登校確定になっちゃう……!)


凛の中に眠る、かつての「爆炎の守護者」としての義憤が、あるいは単なるお節介が、羞恥心の防壁を突破した。


「――っ、仕方ないわね!」


凛は勢いよく立ち上がると、駆の右腕をがしっと掴んだ。

柔らかい手のひらの感触に、駆が「……え?」と素に戻った声を出す。


「佐藤くん、あなたの右腕……私の『浄化の光』で抑え込んであげるわ。だから、今は静かにして。……いいわね?」


凛は、駆の耳元で、彼にしか聞こえないような囁き声を落とした。

それは、かつての自分を呼び覚ます、禁断の詠唱。


「……狂おしき夜の眷属よ、我が呼び声に従い、その楔を深淵へと戻しなさい(黙って大人しく座ってないと、その包帯、今すぐ引きちぎるわよ)」


前半は神聖なトーンで、後半は地獄の底から響くような低音で。

駆の体が、ビクンと震えた。


彼は驚愕の表情で凛を見上げた。その瞳には、恐怖ではなく、言いようのない感動が浮かんでいた。


「……貴様。やはり、そうだったのか。その波動、その眼光……。間違いない。貴様はかつて、北方平原を血に染めたと言われる……」


「違うから。全然違うから。座って。教科書開いて」


凛は顔を真っ赤にしながら、駆を椅子に押し戻した。

掌に残る、駆の腕の体温。そして、彼の包帯から漂う、洗濯洗剤と……ほんの少しの「秘密」の匂い。


(……何やってるのよ、私。せっかく隠し通してきたのに、これじゃ共犯じゃない……!)


凛は激しい後悔に身を焦がしたが、隣の席で「……ふっ、まさかこの学園に、これほどのレベルの『同族』がいようとは……。面白くなってきた」と、嬉しそうに震えながらノートに怪しげな魔法陣を書き始めた少年の横顔を見て、溜息をついた。


窓から吹き込んだ風が、二人のカーテンを大きく揺らす。

凛の平穏な日々は、この瞬間、カケルの掲げる「運命の歯車」とやらによって、無残にも粉砕されたのだった。


「……放課後、屋上に来なさい」


凛は、顔を伏せたまま呟いた。


「なに? ……まさか、決闘(デュエル)か?」


「反省会よ。あなたのその『設定』、穴だらけだから、全部叩き直してあげるわ」


「な……ッ!? 俺の聖典を修正しようというのか!」


「うるさい。魔力が暴走するわよ」


凛の言葉に、駆は「くっ……!」と口を噤んだ。

五月の風が、少しだけ熱を帯びて吹き抜けていった。


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