第6話 兆動

 ――ミシミシッ。


 妙に静まり返った室内に、古びた建物が軋む音が響いた。天井から細かな塵がぱらぱらと舞い落ち、誰もが息をひそめる。

 恐怖というより、現実を受け止めきれず動けずにいた――そんな空気の中、沈黙を破ったのはノアだった。


「ウォード伯爵、そこにいますか?」


「はい、公子様」


 ノアは静かにうなずくと、扉を押し開けて入ってきたウォード伯爵に鋭い眼差しを向けた。


「なるべく気取られないように、外の様子を確認してきてください」


「承知いたしました」


 伯爵が足早に部屋を出ていくと、ノアは私たちの方へ向き直り、深く頭を下げた。


「勝手な行動をお許しください。恐らく、この城が砲撃を受けています。安全を確かめるために動きました」


 淡々とした口調に、かえって胸の奥がざわついた。

 母が静かに問いかける。


「わかりました。……公子、あなたはこの状況をどう見ていますか?」


 ノアは一瞬、私とレオンの方を気遣うように目をやってから、慎重に言葉を選ぶように答えた。


「憶測にすぎませんが、あの山道に仕掛けられていた罠、そして敵の動きや装備を考えると――山賊のような衝動的な襲撃ではなく、計画的な犯行かと思われます」


 わずか十四歳の少年とは思えないほど、彼の声はこの状況下でも落ち着いていた。

 その冷静さが、逆に恐怖を現実として突きつける。


 計画的――。つまり、私たち皇族を狙った襲撃。

 頭では理解していたのに、実際に命を狙われていると思うと、足元が震えた。


「そうですか……」


 母は小さく息をつき、しかしすぐに表情を引き締めて続けた。


「計画的な動きなら、この廃城に逃げ込むのも敵の想定内ということですね」


「はい。ですので、早いうちにここから脱出した方がよろしいでしょう」


「分かりました。戦う術を持たない者たちは城外へ避難させます。……そして、公子、あなたは帝都へ向かい、現状を伝えなさい」


 母らしい判断だった。

 しかし、ノアはその言葉を受けても、すぐには動かなかった。


「……できません」


 静かな拒絶だった。

 母も私も、一瞬、息をのんだ。


「公子、これは命令です」


 母の声には皇太子妃としての威厳が宿る。

 けれどノアは、怯むことなくその瞳を真正面から見返した。


「承知しています。ですが――父上より、“皇子殿下と皇女殿下を命にかえても守れ”と命じられています。私が離れるわけにはいきません」


 その瞬間、まだ少年の顔に宿った強い決意に、私は息を呑んだ。

 母も少しだけ目を細めて、やがて静かにうなずいた。


「……分かりました」


 短い沈黙のあと、母は私とレオンの方へ向き直る。


「エリー、レオン。話は聞いていましたね。――すぐに出発します」


 けれど、母の足元にしがみついたレオンが、震える声で言った。


「……行きたくない」


 母は一度だけ目を閉じ、そしてその小さな手を優しく引き離した。


「レオン・ヴァル・セレスティア!あなたは我がセレスティア帝国の皇子です。幼くとも、その血を継ぐ者。……皆の手本となりなさい」


 レオンは唇を噛み、涙をこらえながらもまっすぐに母を見上げ――小さく、けれど確かにうなずいた。

 その姿は、確かに“皇子”だった。


 私は駆け寄りたい衝動を押さえ、ただ祈るように両手を握りしめる。


 母がエントランスに立つと、ざわついていた従者たちが一斉に彼女を見た。

 母は二度、手を叩いて静寂を取り戻す。


「応援を呼びに向かわれた皇太子殿下、城を守るアルヴェイン公爵には申し訳ありませんが――私たちがこの場に留まっても足手まといになるだけです。戦えぬ者は城を離れなさい。若い女性から順に」


 冷静な判断だったが、その裏にある母の意図もすぐに理解できた。

 敵の手に落ちたとき、最も傷つけられるのは女子供だということを、母はよく知っている。

 帝都では想像もできないような惨劇が、まだこの大陸のどこかで起きているからだ。


 母の声が再び響く。


「狙われているのは――私たち皇族です。戦う術のない者は別の道を通り、必ず帝都へ戻りなさい。生きて帰るのです。それが、あなたたちの“戦い”です」


 従者たちは一様に俯き、やがて母の願いを受け入れるように頷いた。

 涙をこらえながら、彼らはそれぞれの道を選び始める。

 その背を見つめながら、私は胸の奥でひとつの予感を覚えていた。


 ――この夜を境に、もう二度と同じ日々には戻れないのだと。

 

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