第1話
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雨が葬式の前日の夜からぽつぽつと降り始めた。夜中には大降りになって私の部屋の窓をばつばつ叩いたりもしていた。その窓を、私の部屋のすぐ外にある街灯がぼんやりと仄白く照らしている。
私はベッドの上で部屋の右を向いてみたり、左を向いてみたり何度も寝返りを打つ。だけど、眠気は私だけを避けて通り過ぎていってしまうように、まったく訪れてくれなかった。まるで〈幸せ〉のように私の頭の上を素通りしてしまうのだ。いつもそうなのだ。私は、そう思わずにはいられなかった。私は眼を見開いてじっと暗闇を見つめ続けていた。
一階で時計の鐘の音がカーン、カーンと二回聞こえた。
もう深夜の二時だ。
私は、もう一度寝返りを打った。右を向いていて私の部屋の壁しか見えなかったのが、左を向くと今度は、私の部屋の内部が闇の中にゆらゆらと浮かんでいた。もう長いこと使っていない勉強机。確か、小学校に入学する時に、上京してきた祖父に買ってもらったものだ。小学校の低学年のときは、その机に座って何時間でも、何かを書いている事が好きだったのに。どうして、今はこの机と仲良くできなくなってしまったのだろう。
私は、鉛筆やノートが散らかっている机に眼を凝らした。そうしたら、その机に一枚の白い紙が置かれているのが、見えたような気がした。私は、溜め息を一つ吐きながら、枕の上で小さく首を横に振った。どんなに関係ないことを考えようとしても、やはり、姉の姿は私をしっかりと捉えて、なかなか私の事を離してくれそうに無かった。
その私の幻覚の中で姉は、顔を醜いくらいゆがめながら必死に「誰か、私の事を助けて!」と叫んでいた。
警察は、姉は昨日の深夜に亡くなったようだ、と言っていた。
姉は昨日の今頃、八重桜に縄をぶら下げている。外はまだまだ春は遠くて、とても寒い。その手は、寒さによって、病人のように大きく震えている。
その震えに、寒さ以外の何かも混じっていたの?
私は幻覚の中の姉に尋ねた。だけど、姉は一言も答えてくれなかった。答えてくれる代わりに、私に向かって、悲しそうに小さく笑っただけだった。
「おい! 智子! 来てくれ!」
父は、あの朝、姉から目を離さずに叫んだ。どんなに強い声を出そうとしても、その裏側では恐れによって大きく震えているように、父の前に立っている私には聞こえた。父は、この姉の死によって、これから家族の上に降りかかる崩壊に恐れおののいていたのかも知れない。
だって、あんなにも体裁だけでも取り繕おうとしてきた家族なのだから。私は父の顔を黙って見つめながらそう思っていた。
「そんなに大きな声を出して、どうし……ああ!」
のんびりと外に出てきた母は、口を両手で抑えて、腰を抜かしたように玄関にへたりこんだ。そして父以上に目を外に飛び出させていた。
母もきっと、姉の垂れ下がった頭に、自分の家族に突然取り付いた死神の姿を重ねて見ていたのかも知れない。
私はその時、ある事が閃いた。そして、玄関に座り込んでいる母を押し退けるようにして家の中に駆け込んだ。幸運にも、父と母は姉の姿に茫然としているようで、私の慌てた姿に注意を払わずにいてくれた。
私は、階段を一つ飛ばしでかけあがって、私の部屋の隣にある姉の部屋に飛び込んだ。
姉の部屋は、空っぽの小さな机と、数冊の本しかない小さな本棚と、丁寧に整えられた小さなベッドがあるだけのとても質素で落ち着いた感じの部屋だった。
私は、この部屋の変わりように驚いた。そして入った時に、この部屋に入るのはもう一、二年振りである事を思い出した。確か、前に入った時は本棚には色々な本が入っていた。机の上には漫画が何冊か置いてあって、姉と一緒に読んだような記憶もあるのに、今はそのような物は一つもなかった。全てがそぎおとされてしまったような部屋だと私は、玄関の前で茫然としている父と母とは違った意味で茫然としてしまった。
私は、ある日突然、姉の部屋へは行かなくなったのだ。だけど、決して姉が私を自分の部屋に入れさせてくれなかった訳ではなくて、私の方が姉の部屋に入る事を嫌がったのだ。姉は、始めの頃は何度も「慶ちゃん、私の部屋で漫画でも読まない?」などと言って誘ってくれた。だけど、私は頑迷に「今忙しい」と言って断り続けた。そして、姉は私にそう言われて拒絶されるたびに、少し悲しそうな顔をして「そう」と言ったのだけど、自分の事で精一杯だった中学に進学したばかりの私は、それに気付かぬふりをし続けていた。そうしているうちに、姉は私を自分の部屋には誘わなくなっていった。
その頃の私は、姉の部屋に入ってしまうと、妹と姉との埋めようもない差を見せつけられそうで怖かったのだから仕方がないじゃない。
私は記憶の置くから顔を覗かせてくる、姉のあの悲しそうな顔を押さえつけるように、思った。そのように、自分を勇気づけるように自分自身に言い聞かせた。すると、突然、心に麻酔を打たれたように、何も感じなくなった。私は、ほっとしたのだけど、それによって何だか自分自身が父や母と同じ人間になってしまったようで、嫌な気分がした。
だけど、気を取り直して、改めて姉の部屋を観察する。すると、思ったとおり、姉の空っぽな机の上に、一枚の白い紙が置かれていた。机に寄っていって見ると、几帳面な字がびっしりと書き込まれていた。姉の〈遺書〉だった。私はそれをもぎ取るように取って、貪るように何度も何度も読んだ。そして読み終えると、その紙を小さく折り畳んで、パジャマのズボンのポケットに押し込んだのだった。
姉の〈遺書〉は、次のような言葉で始まっていた。
『私は、慶ちゃんの事がとても羨ましかった。』
そして、その一番最後は、このように締め括られていた。
『PS
お父さん、お父さんが私に言ったことは、結局私には守る事ができませんでした。弱い私でごめんなさい』
「私は、慶ちゃんの事がとても羨ましかった」
私は、汚い自分の机を見つめながら、ぽつんと言った。まるで姉が言っているような気で言ってみた。だけどどうしても、私は姉になることは出来なかった。どうしても、姉がどのような気持ちでそのような事を書いたのか分からなかった。
雨は小降りになってきたのか、窓を打つ音がぽつぽつと小さくなっている。
私は、寝返りを打って右を向いた。そして壁を見つめたのだけれど、やはりさっきの疑問の答えは壁には書かれていなかった。
姉は死んでしまったのに、私は今こうして生きている。
「人が死ぬということはどういう事なのだろう」
私は小さくて低い声に出して、自分自身に尋ねてみる。だけどやはりよく分からなかった。理性では姉の死は理解できるのだけれど、それが私の心まで届かなくて、私の心は黙っているというような感じだった。私の眼は、朝、姉が空中でぶら下がっているのを目の当たりにしてから今まで、一粒も涙を流していない。私は、姉が死んだのに涙一滴も姉のために流す事ができない。自分では自覚していなかっただけで、本当は冷血な人間なのだろうか。いっそ、泣くことができたなら楽になれるのかな。
私は、壁をじっと見つめながら、こう思わずにはいられなかった。
私は、とりとめもなく考える。
姉は、家族四人の夜の食卓で、いつも楽しそうに、学校の事を話していた。私は学校の事を話そうとは思わなかったし、実際、私になんか話す事は一つもなかった。だから、私以外の三人だけの世界がいつも出来上がった。学校での失敗談とか、先生の面白い話とかを栄養分にして、その世界はどんどんその壁を強固にしていった。私は、黙って外から見つめることしかできなかった。
当然、両親は、私なんかの何倍も、何十倍も姉の事を愛していた。両親はもちろんそのような事は一言も言わなかったけれど、私はいつだって、そのように思い込んでいた。
だけど、そんなとても明るく、居るだけで楽しくなりそうな姉を私は嫌ってはいなかった。逆に、尊敬すらしていた。だからこそ、それ以上に妬まずにはいられなかった。
姉と一緒にいると、「何で私だけ?」という暗い炎に体の内側がチリチリと焼かれている自分がいた。
そのような父と母と姉のいる居間に、私はどうしても居場所を見つけることができなかった。居間にいると、夕御飯を食べている間の短い時間でさえ息苦しかった。私に誰も話し掛けてくれないことが息苦しかったのではない。時々私の方に向けられる父や母の視線が、私の存在がまるで透明であるかのように私の後ろに消えていく。それがなによりも息苦しかった。
自分の存在が透明になってしまった理由が私自身にあるのか、それとも家族のせいだったのか、もう私には分からなかった。なにより、考えてしまうと私の嫌な部分ばかり見えてきそうで怖くて、なるべく考えないようにしていたのだ。
そして、すべてをいつの間にか家族のせいにしていた。そうするのが私にとって一番楽だったし、それ以上に、そうしていないと自分を保てなくなっていたのかも知れない。
私は、自分の部屋に閉じ籠もって、居間になるべく行かないようにした。時々私の部屋に飛び込んでくる、三人の王国になっていた居間からの笑い声が、ますます私の透明な存在をより透明にしていった。ますます私を居間から遠ざけていった。そして、ますます私は、私自身の生きる価値を見失っていった。
最近の私は、だんだん生と死の境界があいまいになってきているような気がしていた。もし誰かに、「そんなに生きるのが辛いなら死ねば」と言われたら、人間が呼吸をするくらい自然に「ホント、死のうかな」と言える気すらしていた。
だけど、そのような私の考えが、単なる甘い考えだったことに気付かされたのは確か、一週間前だろうか。
私は黙って、ソファの一番端に座りながら、居間でテレビを見ていた。この番組は、あるタレントが日記状の物語を書いて、素人から選んだ出演者に演じてもらい、最終的にその素人たちが結ばれるか、というコーナーがあった。私は、このコーナーが、なぜかとても好きで毎週見るようにしていた。
話し掛けられるのが嫌で、私はひたすら自分の存在を消しながら見ていた。だからなのか、父も母も私には話し掛けてくれない。時々姉だけが、「この番組、面白いよね」などと話し掛けてくる。私は一言も答えない。あまりに番組に夢中でそれに気付かない振りをし続けた。
自然と、父と母と姉の三人の笑いの輪が出来上がっていたのも当たり前だった。
午後九時四十分くらいになって、そのコーナーは終わった。私はなるべく居間の空気の流れを乱さないように、音を立てずにそっとソファから立った。この場を一秒でも早く立ち去りたかったので、風呂にでも入ろうと思った。
風呂の前にある洗面台で、シャカシャカ歯を磨く。
ワハハハハ。
居間からの笑い声がドアを伝わって、洗面所に流れ込んでくる。なんだか、私が居間にいたとき以上に大きな笑い声のような気がした。
ガラガラ。
風呂場に入る。風呂の蓋を持ち上げて横に立て掛け、右手を風呂の中に入れる。少しぬるい。だから焚く。熱くなるまで、もう私にはすることがなかった。
私は、ひざを胸に抱き締めて、掌は風呂の縁を握る。
「もう生きたくないよ……」
私の声が無意識に、ポツリとこぼれ出た。
私は、私の声があんまりに悲しく響いた事に驚いた。何だか、北極のど真ん中に一人ぽつんといるみたいに、とても寒かった。
「寒い、寒い、寒い……」
私は、金属製の風呂の縁にぼんやりと映る自分の顔をのぞき込む。初めて見る顔であるかのような、青白い見慣れない顔が浮かんでいた。それを見ていると、より悲しくなってしまった。
その時、私は、「しまった」と思った。このままでは、本当に死んでしまうのではないかと思った。そして、自分が死ぬという事は、気が狂いそうなくらい怖かったのだ。
私は、これ以上物思いに耽っていると、その思いに押しつぶされそうな気がした。だから、何も考えるな、と自分に言い聞かせて、黙って、暗い天井を見つめることにした。
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