第2話 アイという名の少女(2)
北海道の春の太陽は、決して芯から熱く感じることはない。
カーテンの隙間から差し込む光は、細く、どこか青白い。 俺は瞬きを繰り返し、この半年間で見慣れたはずの天井をじっと見つめた。
だが、今朝は何かが違っていた。
独身男のむさ苦しいアパートには似つかわしくない、微かな香りが漂っていた。安っぽい洗剤や古本の埃の匂いじゃない。それはもっと……柔らかい、花のようでもあり、俺が普段使っているものより高価なシャンプーのような香りだった。
そこで、昨夜の出来事が一気に脳裏に蘇る。
雨。公園。ずぶ濡れの金髪の少女。そして、彼女を居候させるという俺の狂った決断。
「……本当に、やっちまったんだな」俺は独り言を漏らした。
すぐに起き上がり、ベッドを整える。躊躇いがちな足取りで自室のドアを開け、キッチンと繋がった小さなリビングへと向かった。
そこでは、ソファの上で五木アイがまだ眠っていた。 昨夜貸した予備の毛布に包まり、小さく丸まっている。厚化粧のギャルメイクもカラーコンタクトもない彼女は……昨日とは、全く別人のように見えた。
眠っている顔はとても穏やかだが、目尻には消しきれない疲労の影が残っている。長い睫毛が微かに震えた。
彼女は、ただのどこにでもいる女子高生に見えた。学校で噂されているような「悪い女」でも、「安い」女でもない。ただ、帰る場所を求めていた一人の女の子だ。
覗き魔だと思われないうちに視線を逸らし、俺は簡単な朝食の準備を始めた。トーストとインスタントの味噌汁。この寒い朝に腹を温めるには、それで十分だろう。
チン!
トースターの跳ね上がる音がして、アイが飛び起きた。
「あ……っ!」
彼女は直立不動のように座り直し、警戒心を露わにして目を見開いた。毛布が床に滑り落ちる。
「おはよう」俺は努めて冷静に言い、小さな食卓に二つの皿を並べた。
アイは何度も瞬きを繰り返し、困惑した様子で部屋を見渡してから、ようやく俺に視線を止めた。彼女の顔が、耳の先までじわじわと赤くなっていく。
「あ、荒木さん……っ! ごめん! こんな昼まで寝ちゃって!」
「まだ朝の七時だ、アイさん。急ぐ必要はない」俺は答えた。
「顔を洗って、朝飯を食え。そろそろ学校へ行く時間だ」
彼女は固く頷くと、ひどくぎこちない足取りで洗面所へと駆け込んでいった。
***
学校への道のりは、いつもより長く感じられた。
俺たちは並んで歩くことはしなかった。アイは俺の三メートルほど前を歩き、顔をマフラーに埋めるようにして俯いている。
もし他の生徒に一緒に登校しているところを見られれば、彼女の噂はさらに加速し、俺まで巻き込んでしまうことを恐れているのだ。
(自分の人生がボロボロなのに、まだ俺のことを気にかけてるのか……)
教室に着くと、いつも通りの喧騒が広がっていた。窓際の一番後ろ、自分の席に座るなり、二人の人物が俺を襲撃した。
「おい荒木! お前が遅刻ギリギリなんて珍しいじゃねえか」威勢のいい声が響く。
信悟しん さとるだ。中学からの親友で、そのエネルギーとテンションは、見ているだけで疲れることもある。
「きっとまた夜更かしして小説でも読んでたんでしょ、悟。邪魔しちゃダメよ」隣に立つ少女が、薄く微笑みながら口を添えた。
千夏明日香ちなつ あすか。悟の彼女だ。中学時代から付き合っている二人は、時に嫉妬を覚えるほど安定した関係を築いている。
明日香は冷静で大人びたタイプで、お祭り騒ぎの悟とは対照的だ。
「何でもない、ただ少し寝坊しただけだ」俺は短く返した。
悟が目を細め、身を乗り出して小声で囁いてきた。「なあ、荒木……さっき五木さんが教室に入ってきたんだけどさ。あいつ、今日なんか雰囲気が違った気がするんだ。髪もいつもより整ってたし」
俺は黙り込んだ。当然だ。彼女は俺の家でシャワーを浴び、今朝ちゃんと髪を梳かしていたのだから。
「気のせいだろ」俺は教科書を開きながら受け流した。
「へえ……冷たいねえ」悟が茶化す。
だが、明日香の視線は俺から離れなかった。彼女は鋭い女の勘を持っている。
「荒木くん、何か悩み事があるなら相談してね? 私たち、長い付き合いなんだから」
俺は明日香を見つめ、それから前列に座るアイに目をやった。彼女はギャル仲間に囲まれ、どこか無理をしているようなトーンで笑っている。
(まさか、彼女が俺の家に住んでいるなんて言っても信じないだろうな)
「ありがとう、明日香。でも大丈夫だ」
授業が始まったが、思考は上の空だった。俺は昨夜の自分の言葉を反芻していた。『もっと自分を大切にすると約束しろ』。 他人の自尊心を修復するのは、簡単なことじゃない。壊れた物を直すのとはわけが違う。根気のいる、長いプロセスだ。
窓の外に目をやる。北海道の空はまだ灰色だが、少なくとも雨は止んでいた。
一年。卒業までに、彼女が自分の足でしっかりと立てるように。あの痛々しい『ギャル』の仮面に隠れなくて済むように。
だが、俺はまだ気づいていなかった。この学校には、俺たちの不自然な関わりに気づき始めた「別の目」があることに。
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