1-10-6.四月二十二日

志絵莉しえりちゃん、今日はワインは? さすがに彼氏の前で酔った姿なんて晒せないかい?」


「あれぇ、福地ふくちさん、わたしの年齢知らないんですか~?」


 え~聞こえな~い、と耳を塞ぐ福地さん。

 確かに普段はこの店で酒を飲んでいる。いけないとわかっていながらも、ジョエルさんはわたしが飲める量を把握してくれて、わたしがヤケになっていても過剰には出さないようにしてくれているから、とりあえず病院送りにはならずに嗜めている。


「志絵莉さん、お酒強そうでしたけど、そうでもないんですか? っていうか、酔うとどうなるんです?」


 彼の眼には好奇心しか浮かんでいない。彼からすれば、酔い潰れるわたしなんて想像できないのだろう。普段から彼を手のひらの上で転がしているようなわたしが、お酒なんかで理性を失う姿など。


「そりゃあもう大変よ。ただでさえ意地悪な志絵莉ちゃんなんだぞ? とんでもない悪の女王様になるのさ。跪いて足を舐めろとか、逆立ちしてワンと鳴けとか」


「言ってないから」


 あることないこと一紀かずきくんに吹き込もうとする福地さんにぴしゃりと言い放つ。すると、メインと共にジョエルさんが一本のワインボトルを持ってきた。


「ちょっ、それ……頼んでないですけど」


「いえ、これは私が勝手に持ってきただけです。ここに、二十年もののシャトー・ムートン・ロスチャイルドがありまぁす! このボトルを……ああ、うっかり開けてしまいました~!」


 なんて下手な芝居を打ちながら、ジョエルさんはあろうことかボトルのコルクを抜いた。


「いや、何してるんですか!」


 何を慌てているんだろうというような視線を向けてくる一紀くん。いやこのワイン、一本で二十万以上するんだぞ。うっかりで開けていいものじゃない。というか、何でこんなものがこの店にあるんだ。


「そしてうっかり……お二人のグラスに注いでしまいました~」


 と、わたしと一紀くんのグラスに注がれる、深く暗い赤紫。注がれるだけで、植物的なアロマから、そこに内包されるフルーティーな熟成香が辺りに広がって、鼻腔をくすぐりながら肺を満たしていく。


「若い男女の明るい未来を祈って、乾杯」


 ジョエルさんの掛け声で、福地さんと大林夫妻が拍手をしてくれるので、仕方なく、わたしはワイングラスを手に持つ。これがジョエルさんが言っていた、カップル向けのトクベツなサービスというやつか。

 こんなこと、今まで提供したことが本当にあるのだろうか。特別扱い……してもらってるんだろうな。嬉しいけれど、何だか申し訳ない気もする。


「グラスはぶつけないで、軽く持ち上げるだけでいいよ。あと、飲むのキツかったら無理しないでね」


 一紀くんにそっと教えてあげると、彼もわたしを真似てグラスを手に持った。そして改めて乾杯の声と共にグラスを軽く持ち上げて、口を付ける。

 こんな高級なワイン、わたしだって初めて飲む。ワインを飲み慣れていない一紀くんからしたら、決して美味しいとは言えないはずだ。度数だってそれなりに高い。この間の飲み会は飲み方が良くなかったからだけど、一度酔い潰れたのは事実。無理はしないでほしい。


 一口を含むと、酸味と渋みが広がって、次第に濃厚な果実味が顔を出す。そして何と言ってもこの香り高さ。味の奥行きを作り出しているのは間違いなくこの芳醇な香りだ。

 ちらと一紀くんの方を窺ってみると、彼もわたしの真似をして一口だけ口に含んでみている。


「大丈夫? 飲めそう?」


「ええ、大丈夫です。ワイン初めて飲んだんですけど、こんな感じなんですね」


「それなら良かった。でも無理しないでね。あとこれ超高いワインだから、もう普通のワイン飲めないかもね」


 と言うと、思わず目を丸くして、一紀くんはそっとグラスを置いた。


「メルシィ、ジョエルさん」


「いいんです。志絵莉さんがCheriシェリをここに連れてきてくれたこと、嬉しく思いますから。ハハハ!」


 ジョエルさんは日本語を勉強してから、オヤジギャグにはまり出したと聞いたことがある。まさかこれも全て、そのギャグが言いたかっただけではないだろうな。


「ここまでされて別れちゃったら、わたしここに顔出しづらいんですけど……」


「何言ってんだい、別れる気なんかさらさらないから、ここに連れてきたんだろう? わざわざ見せつけてくれちゃって」


 と、大林おおばやしのご主人が言うと、奥さんがそこに付け加える。


「別に気にしなくていいのよ。皆、今の志絵莉ちゃんを応援して、祝いたくてやってるんだから。別れちゃったとしても、それはそれ。今度はうんと慰めてあげるんだから」


 どうやらここのお客さんも店主も、お節介でお人好しが過ぎるらしい。


「大体、志絵莉ちゃんに捕まったが最後、簡単に別れられるわけねぇわな。それに、別れたらの話をするより、明るい未来を考えようぜ。結婚式には、ぜひ呼んでくれよな」


 福地さんですらそんなことを言う始末。っていうか、福地さんはわたしを何だと思っているんだ。


「志絵莉さん、皆さんから好かれてるんですね」


「好かれてるっていうか、孫か何かだと思っているんじゃない?」


 福地さんなんかはわたしをどう思っているかは知らないけれど、ジョエルさんや大林さんたちはそんな風に見ているんじゃないかと思っていた。それが温かくて、ついつい足を運んでしまうんだけれど。



 それからは皆で話ながら、食事を進めていった。一紀くんには酔わないように、少しずつ飲んだり、食事と合わせて飲むように伝えて、ジョエルさんには彼のために水も用意してもらった。これでこの間みたいに潰れるほど酔うことはないだろう。酔うにしても、気持ち良く酔えたらいい。


 わたしも酔ってしまっているのか、いつもより気分が高揚している。今日という日が本当に楽しくて、幸せな一日だと感じられた。これまで生きてきて、こんなに楽しい日はなかったんじゃないかと思えるくらい。


 食事も済んで、ボトルも空になって、それでも談笑は止まらずに、夜は更けていく。

 そろそろ帰ろうかと重い腰を上げて、ジョエルさんに会計をお願いした。


「あのワイン、大丈夫ですか?」


「あれは私がうっかり開けてしまったものだから、志絵莉さんが気にする必要はありませんよ。結婚式の披露宴のご馳走は、ぜひ当店に依頼してくださいね」


「もう、気が早すぎますって」


 フレンチとしては良心的な価格だけれど、今日は贅沢したのでそこそこいいお値段になっていた。しかし領収書をよくよく見てみると、メルシィ割とかいう謎の割引をされていて、二割も引いてくれていた。

 ここまでされては、もし本当に結婚式を挙げることになったなら、ジョエルさんに声を掛けないわけにはいかないなと思う。彼はそれを狙っているわけではないのだろうけれど、気のいい常連が通い続ける理由がこういうところに垣間見える。

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