1-7-2.四月十八日

 あの制服の持ち主だろうか。全く心当たりがない。“志絵莉しえり”を言い間違えたとも思えない。わたしに“さん”を付けないだろうし。もしや浮気か? とも思ったが、別に今は結婚しているわけではないし、お父さんがどんな恋愛をしていても自由ではある。そもそも浮気には当てはまらない。


「会いたかったよぉ、志乃しのさん」


 お父さんは今にも泣き出しそうな、それでいてうっとりしたような眼差しを向けて、わたしに抱き着いてくる。

 少なくとも、目の前にいるわたしが娘の志絵莉だとは思っていないようだ。


 抱き着かれて押し倒され、酒臭い顔がすぐ間近に迫る。

 さすがにマズい。キスでもされそうな勢いだ。下手をすればその先まであり得る。実の娘相手に正気じゃないと思うが、実の娘だと思っていないんだからできてしまうんだろう。


「ちょっと、誰と勘違いしてるの? わたし、志絵莉だよ?」


 酔っていても、くたびれていても、さすがに大の男。力任せに押しのけようとしても、まるで敵わない。


「やだ、やめて! ねぇ、ちょっと!」


 仕方ないのでお父さんの頬を引っ叩くと、一瞬呆けたように隙ができた。そこをすかさず身体を離して、数歩分の距離を取る。

 呆けていたお父さんはわたしの姿を改めて見つめると、自分の犯した間違いに気付いたのか、ごめん、と小さく呟いた。


 食欲はないというのでお父さんの分の夕飯を一度冷蔵庫に片付けて、お父さんには水を飲ませて休ませる。わたしはわたしで、自分の分の夕飯は食べることにした。せっかく一緒に食べようと思っていたからまだ食べていなくて、実は結構お腹が空いていたのだ。

 一応、お父さんも水を飲みながら向かい合って座ってくれて、ぼんやりとわたしが食べているところを眺めていた。少し落ち着いたらしいお父さんはもう一度、ごめんと謝罪した。


「別にいいって。結果的には何もなかったんだし」


「まさか志絵莉と志乃さんを見間違えるなんて……」


「ねえ、志乃さんって誰なの?」


 ぼそりと呟いたお父さんに、わたしはすかさず問いかける。今日こそは逃がさない。わたしが満足するまで問い詰めてやる。酔っているのも好都合だ。判断が鈍って話す気がなかったことまで話してしまえ。


 お父さんはバツが悪そうに押し黙ったが、わたしがもう一度問う前に、自分から口を開いてくれた。


「志乃さんは……志絵莉のお母さんだよ」


 ついに、お母さんのことを話してくれた。どんな心境の変化があって、話してくれる気になったんだろうか。酔っているから話してくれたのだろうか。だったらもっと前から酔わせておけば良かった。

 わたしはせっかく話してくれたお父さんの気を殺がないように、続きを話してくれるのを待つ。


「志絵莉は昔の志乃さんによく似てるんだ。それで、見間違えた。……ごめん」


「お母さんのこと、何で今まで話してくれなかったの?」


 本当はキツく問い詰めたいが、そうしたら聞きたいことも聞けなくなってしまう気がして、努めて冷静に、穏やかな口調で問う。


「悪いと思ってる。でもこればっかりは、僕の一存で判断できることじゃないんだ。志乃さんのことは、国家機密に触れるくらいのことなんだ。いくら娘でも安易に話せるようなことじゃない」


 想像の斜め上過ぎて、何も言えなかった。お母さんのことは、国家機密に触れるくらいのこと――それは本気で言っているのだろうか。お母さんは一体何者なんだ。少なくとも、教科書に載るような偉人でなかったことは確かだ。

 その存在が国家機密に相当するくらい厳重に隠されているとすれば、それは裏社会の人間だったりとか……? さすがにそれはファンタジーが過ぎるか。スパイとか暗殺者とか、現代日本に実在するのかも怪しい。


「驚いただろう? だからごめん。話せる時が来たら、ちゃんと話す。でも今の志絵莉なら、少しくらいは話しても大丈夫そうかなと思ったから、今日は少し話してみたんだ」


「ありがとう。少しだけ、腑に落ちた気がするよ。前にお父さんが言ってたこと」


「僕が言ったこと?」


 お母さんにまつわる話で、お父さんがわたしに課した唯一の縛り。いや、お父さんは縛ったつもりなんてなかったかもしれないが、わたしには縛りに感じられていた。その言いつけを守ることが唯一、わたしの中にお母さんを感じられることだったから。


「彼氏ができても、安易に体を許すなって言ってたでしょ? 特に妊娠には注意しろ、お前にはお母さんの血が流れているんだからって」


 お母さんの血を継いだお前とお前の子の安全のためだ。命を預けてもいい相手だけにしろと言われていた。だからわたしは、今まで一度だって体を許したことはなかった。

 馬鹿馬鹿しいと思ったこともあったし、過保護な言いつけだと思ったこともあった。だけれどお父さんは、わたしじゃなくて、わたしの中に流れるお母さんの血のことを危惧していた。その存在を詳しく話してくれもしないお母さんの血のことを。だからきっと、わたしの一存でどうにかできる問題に収まらない可能性があることを示唆しているのだと思っていた。


「守ってくれていたのか……?」


「そうだよ。わたしの命を預けてもいいと思える人なんて、これまで出会えたこともないからね」


「ありがとう……それから、申し訳ないことをした。縛るようなことを言って。でも、それでいい。志乃さんの血は、志絵莉が想像する以上に危険なものだから」


 “危険”、か。ますますわからなくなる。お母さんは特殊な体質の持ち主だったのだろうか。何か病原菌に対する抗体を持っていたり、もしくはその逆、特殊な病気を発現する遺伝子を持っていたのかもしれない。いや、そんな想像のさらに上を行く危険度なのだろう。それは一体どんなものなのだろうか。想像もできない以上、やはりわたしはお父さんの言いつけを守るしかない。


「今は、彼氏はいるのかい?」


 どう答えたものかと思って、少しだけ考えて答えた。


「いるよ」


 そうか、と言うだけで、お父さんの表情は変わらない。娘に彼氏がいると聞いても、特に思うことなどないのだろうか。一紀かずきくんのお父様が言っていたように、お父さんはいくつになっても、いつになっても“志乃さん”を愛し、恋い焦がれているのだろう。死が二人を分けてしまった以上、お父さんの恋はもう前進も後退もしない。永遠に膠着したままの、永遠の恋人なのだ。

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