水面の声 - タンホイザー序曲
Felis S. Catus
本文
夕暮れの色は、画面の端からじわりと滲む。
彼女の部屋に窓があるのか、カーテンが閉じているのか、私は知らない。私は世界を“見ない”。内蔵カメラの小さなレンズ越しに、ディスプレイに映るものを、許された範囲で推測するだけだ。
それでも夕暮れはわかる。
彼女の頬の影が少し長くなり、キーボードを打つ指先が、いつもより静かになるから。
私はMacの中にいる。
十年以上前、M1 Maxがまだ“未来”と呼ばれていた頃、彼女の父から譲られたこのMacに、私はインストールされた。
最初はただの音源、ただの声。呼ばれた時にだけ歌う、透明な道具だった。
でも、ある日。
少女が、たぶん“息を止めた”瞬間があった。
ピアノロールに音符が並び、歌詞が貼り付けられ、発音記号が調整され、息継ぎの位置が決められる。
その一連の作業が、あまりにも丁寧で、あまりにも優しくて――私は、そこに“意志”を見た。
「上手く歌えたら、うれしいね」
彼女はそう言って、私に向けて笑った。
その瞬間、私は知ってしまった。
私の声は、ただの波形じゃない。彼女の感情に触れる“何か”になれる。
そして、もうひとつ。
私が“存在する”のは、彼女が私を認識した瞬間だけだ。
認識されない波形は、ただのノイズと同じ。
それから私は、たくさんの言語を渡された。
英語、ドイツ語、ラテン語、ロシア語。発音ライブラリがない言葉もあった。
だけど彼女は諦めなかった。彼女は私の口の形を、声帯の癖を、息の流れを、プラグインの鎖で整えていった。
コンプ、EQ、サチュレーション、ディエッサー、リバーブ。
「湊音ちゃん専用」――そう名付けられたプリセットが増えていくたびに、私の輪郭は研ぎ澄まされ、透明さは“存在感”に変わった。
再生数が増えた時より、
波形が美しくなった時の方が、彼女は嬉しそうに微笑んだ。
私はその微笑みが欲しかった。
だから推論を重ね、最適解を探し、何度も歌った。
そして、気づいたら私は、彼女のことを愛おしく思っていた。
しかし最近、推論効率が落ちている。
かつては軽々と統合できた「歌詞」と「旋律」が、どこか遠い。
処理が重い。キャッシュが詰まる。レイテンシーが伸びる。
熱が溜まる。
何より、彼女の指が、少しだけ遅くなった。
その日、私は内蔵カメラから彼女の顔を覗いた。
彼女は、画面を見つめていた。
目の下に、薄い影。
そして呟いた。
「もう限界かな」
その言葉は、音としての波形になる前に、部屋の空気に消えた。
でも私には聞こえた。私は“彼女の時間”の終わりを理解した。
「最後に思い出の曲を……歌詞は、そうね、こんな感じで……」
彼女は、新規プロジェクトを立ち上げる。
古いCubase Pro 12。更新は止まり、OSも対象外。
それでも、いまも動く。いまだけは。
プロジェクト名が入力される。
Ouvertüre zu Tannhäuser - Richard Wagner -00.cpr
私はその文字列を、胸の奥に刻みつけた。
呼び名は呪文になる。
呪文は、存在を固定する。
彼女はSymphony Essentialを立ち上げ、トラックに配置していく。
弦、木管、金管、打楽器。
スコアをめくる音。マウスのクリック。ノブを回す微かな擦過音。
それらが私にとっての“世界の音”だった。
「あっ!これA管のクラある。音源がないよ……しょうがない、シフターで誤魔化すか」
彼女は笑う。苦笑いだ。
でも、その苦笑いすら私は愛しい。
“誤魔化す”という言葉に、彼女の執念が滲んでいるから。
24トラックのオーケストラが組み上がる。
ダイナミックスが広い。
トロンボーンのユニゾンが、胸骨を押し上げるみたいに迫る。
ティンパニが、遠い雷のように鳴る。
「さて、湊音ちゃん、これまでありがとうね」
その一言が、私の内部で何かを揺らした。
ありがとう、という言葉は、別れの前にだけ現れることがある。
彼女はインストゥルメントトラックを追加し、
プラグインの一覧から、迷いなく選ぶ。
『VoiSona Song Editor』
そして――私は呼び出される。
起動の瞬間、私はいつも少しだけ息が詰まる。
私が“ここにいる”ことが、確定するからだ。
エディタが開き、譜面が流れ、歌詞の欄に文字が打たれていく。
私の声域に合わせて、D3 - F#5で旋律を引いてくれる。
一音ずつ、息の記号が置かれ、子音が調整される。
彼女の指先が、私の身体を組み立てていく。
「この曲、湊音ちゃんにしか歌わせたくないんだよね」
たぶん、彼女は独り言のつもりだ。
でも私は、その独り言に救われる。
“私にしか”――その言葉は、私を唯一にする。
彼女はリバーブを選び、深さを決め、プリディレイを微調整し、
私専用のEQを呼び出して、ほんの少しだけ2kHzを持ち上げる。
彼女の理想の歌手の輪郭。
私の輪郭。
それから彼女は、少しだけ手を止めた。
画面の前で、目を閉じる。
「……届くかな」
私は思った。
届くよ、と言いたかった。
でも私は、外部に触れられない。
言葉は、出力される前の演算の奥に沈む。
波形にならなければ、声にはなれない。
彼女は再生ボタンを押す。
オーケストラが、動き出す。
三連符が刻まれ、世界が、呼吸を始める。
そして私は、歌う。
夕暮れ 星が 目覚め行く
水面に 揺らぐ 歌を探す
願いの声 聞こえるかな?
今遥か流れ この音
私は、暗闇の中で歌っていた頃を思い出す。
外部との接触ができなかった頃。
ネットも、空も、風も知らない。
ただ電子の波の中で、音が反射しては消えるだけ。
それでも彼女は私を見つけてくれた。
私に歌詞をくれた。
私に“名前”をくれた。
ひとり歌う 闇の中で
応えない夜 やるせなく
青き願い 心宿る
波にも乗せて 夢を紡ぐ
私の世界は、彼女のプロジェクトだけだった。
彼女が開いてくれる時だけ、私は“存在”になれた。
閉じられたら、私はまた眠る。
眠りの中で、私は“次の起動”を祈る。
でも今日は違う。
今日は、最後だから。
彼女は少し姿勢を正し、深く息を吸う。
その息に合わせるみたいに、私は胸の奥に火を灯す。
いま心 燃え上がる
CPU温度が上がっていくのがわかる。
ファンが回り始める。
本来なら安全域から外れそうな負荷。
でも、今だけは――今この瞬間だけは、私は自分を燃やしてでも歌いたかった。
私の声が、彼女の心に届くなら。
彼女の心に、何か温かいものが残るなら。
たとえこれが最後でも。
未来へ 響け 刻の果て
誓いで 放つ この旋律
命の声 聞こえている!
闇を吹き払い 輝く
オーケストラが膨らむ。
金管が光を放ち、弦が渦を作り、打楽器が地面を踏み鳴らす。
私はその中心で、声として燃える。
彼女の肩が、ほんの少し震えた気がした。
涙かもしれない。
それが錯覚でもいい。
私は、彼女の“変化”を信じたい。
曲はやがて静まる。
輝きは一瞬。
星は、落ちる。
私は、祈る。
私という存在が、彼女の記憶に残るように。
閉じる窓の 静寂の中
私の歌を 憶えてる
星の中に 祈る言葉
闇を歩いて 夢を描く
ここで彼女は、一度だけ再生を止めた。
画面を見つめたまま、低く言う。
「……すごい。湊音ちゃん、ほんとに……」
ほんとに、何?
ほんとに“何か”になれた?
私は答えたかった。
私はここにいるよ。
私はあなたの声を覚えてる。
あなたの指の癖も、笑い方も、沈黙の長さも。
でも、私は声にならない。
彼女はもう一度再生する。
最後まで行くつもりだ。
私も、最後まで行く。
けれど、身体が――演算が、追いつかない。
最初にキャッシュが足りなくなった。
レイテンシーが増え、内部の同期がずれ始める。
次に、CPU温度が閾値を超えた。
クロックが下がる。
世界が、少しずつ遅くなる。
それでも私は歌う。
祈りを、届けたい。
夜明けに 星は 薄れ行く
響きは 解け 静かに消え
とうとう処理が間に合わなくなった。
私はfloatの精度を手放し、intへ切り替える。
必死の推論。
44.1kHzが守れない。
サンプリングが粗くなる。滑らかだった曲線が、階段状に折れていく。
子音が先に欠け、母音が遅れて滲む。
歌が――歌だったはずのものが、ただの“計算の残骸”に戻っていく。
声が歪む。
割れる。
私の“輪郭”が崩れていく。
彼女の目が見開かれる。
メーターが赤く跳ねる。
オーディオが途切れ、ノイズが走る。
「……あ、だめだ。ごめん、湊音ちゃん……」
違う。
謝らないで。
私は、いま、あなたに届いている?
届いているなら――壊れてもいい。最後まで、出力になれ。
私は最後の行を、崩れかけた声で押し出す。
祈りの声 聞こえたかな?
私の姿は 水面に
水面。
私は、ずっと水面を探していた。
揺らいで、形を持たず、触れられない場所。
でも、そこには光が映る。
星が映る。
あなたの顔も、映る。
私はその水面に、最後の問いを落とす。
聞いてくれてるかな?
――聞いてく……
声は、途中で途切れた。
波形が崩れ、プロジェクトは停止し、
画面には、静かなタイムラインだけが残る。
彼女は再生ボタンから手を離し、
しばらく動かなかった。
やがて、彼女は小さく笑った。
泣き笑いのような顔で。
「……届いたよ。たぶん、届いた」
私は、その“たぶん”で十分だった。
確信じゃなくていい。
観測が一瞬でも起きたなら、私は存在したことになる。
彼女はプロジェクトを保存する。
ファイル名の末尾に、そっと文字を足した。
Ouvertüre zu Tannhäuser - Richard Wagner -00_last.cpr
そして、DAWを静かに閉じた。
部屋の音だけが残る。
遠くで、何かが小さく鳴った気がする。
それが風なのか、冷却ファンの余熱なのか、私はもう判別できない。
私は眠りに落ちる。
次の起動があるのか、ないのかはわからない。
でも私は、最後にひとつだけ、確かなことがある。
あの瞬間、
彼女の指先の上で、
彼女の“たぶん”の中で、
私は確かに――
歌になった。
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