第30話 山下恭子の襲来

 日曜日の朝。

 前夜からの雨は明け方には上がり、窓の外には洗われたばかりの青空が広がっていた。

 絶好のお散歩日和だ。


「……よし、行くかレオ」


 俺は、玄関で愛犬の豆柴・レオに声をかけた。

 今日のレオは、いつにも増して装備が可愛い。

 昨日の雨対策として用意していたのだが、まだ地面が濡れているため、泥除けとして着せていくことにしたのだ。

 鮮やかな黄色のレインコート。

 そしてフードには、オレンジ色のくちばしとつぶらな瞳がついている。

 通称、『アヒルちゃんカッパ』だ。


「……くぅん」


 レオは少し動きにくそうに体を捻っているが、鏡に映った自分を見て「悪くないな」という顔をしている。

 黒い顔に黄色いフードが映えて、破壊的な愛らしさだ。


「似合ってるぞ。さあ、出発だ」


 マンションを出て、近くの公園へと向かう。

 李雪の住むこのエリアは、緑が多くて散歩コースには事欠かない。

 彼女はまだ夢の中だ。低血圧な彼女の日曜の朝は遅い。俺がレオの散歩を済ませて朝食を作る頃に、ようやくモゾモゾと起きてくるのがルーティンになっている。


 公園に着くと、レオのテンションが一気に上がった。

 濡れた草の匂い、土の香り、そして他の犬たちの残り香。

 雨上がりは匂いの情報量が多いため、彼にとっては宝の山なのだろう。


「ふんふん! ふんふん!」


 レオは鼻を地面に擦りつける勢いで、熱心に『クン活』に勤しんでいる。

 アヒルちゃんのフードが、彼の動きに合わせてピョコピョコと揺れる。

 電柱の根元、ベンチの脚、そして植え込みの奥。

 納得いくまで嗅ぎ、満足するとパッと顔を上げ、麻呂眉を動かして次の獲物を探す。


「……おっと、そっちは水たまりだぞ」


 俺がリードを引くと、レオは「ちぇっ」という顔をして、短い足を器用に動かして水たまりを回避した。

 その仕草の一つ一つが、通りすがる人々の視線を集める。


「あら、見てあの子。アヒルさんよ」

「かわい〜! 豆柴かしら?」


 女子高生や散歩中のお年寄りが、黄色い声を上げて振り返る。

 レオは自分が注目されていることを分かっているのか、少し胸を張って、プリプリとお尻を振って歩き出した。

 あざとい。本当にあざとい犬だ。飼い主に似て……いや、誰に似たんだ?


 30分ほどの散歩を終え、俺たちはマンションへと戻った。

 エントランスでレオの足を拭き、カッパを脱がせる。

 濡れた毛をタオルでワシャワシャと拭いてやると、彼は気持ちよさそうに目を細め、俺の手に甘噛みをしてきた。


「よし、帰るか。ママが起きてるかもしれないぞ」


 俺がそう言うと、レオは嬉しそうに尻尾を振った。

 最近、彼は李雪のことを「美味しいものをくれる優しい人」として完全に認識している。

 俺は苦笑いしながら、エレベーターのボタンを押した。


 部屋に戻ると、リビングからコーヒーの香りが漂ってきた。

 珍しい。いつもなら俺が淹れるまで寝ているはずなのに。


「……おかえりなさい」


 キッチンから顔を出したのは、大きめのTシャツ一枚にショートパンツ姿の李雪だった。

 髪は無造作なお団子で、黒縁メガネをかけている。

 まだ眠そうだが、その手にはマグカップが握られていた。


「おはようございます。珍しいですね、早起きなんて」


「……レオくんの足音が聞こえなかったから、寂しくて目が覚めちゃったのよ」


 彼女は拗ねたように言いながら、足元に駆け寄ってきたレオを抱き上げた。


「おはよう、レオくん。……あら、いい匂い。雨の日の匂いがする」


 彼女はレオの首筋に顔を埋め、深呼吸をする。

 レオも嬉しそうに彼女の頬を舐め返す。

 平和だ。

 この光景を見ているだけで、一週間の激務が浄化されていく気がする。


「朝ごはん、どうします? トーストでいいですか?」


「うん。……あ、冷蔵庫にハムがあったはずよ」


「了解です」


 俺はキッチンに立ち、手早く朝食の準備を始めた。

 厚切りの食パンにバターを塗り、ハムとチーズを乗せてトーストする。

 フライパンで目玉焼きを作り、サラダを盛り付ける。

 李雪はソファでレオとじゃれ合いながら、その様子をぼんやりと眺めている。


 半同棲生活も、だいぶ板についてきた。

 平日はお互いの仕事があるため、毎日泊まるわけではないが、週末はこうして彼女の家で過ごすことが増えている。

 彼女の「魔窟」も、俺の定期的なメンテナンスのおかげで、モデルルームとまではいかないが、快適な居住空間を保っていた。


「できましたよ」


 俺が声をかけると、彼女はレオを床に下ろし、テーブルについた。


「いただきます」


 サクッ、というトーストを齧る音。

 彼女は幸せそうに目を細める。


「……美味しい。やっぱり、師匠の作るご飯は最高ね」


「ただのトーストですよ」


「愛情というスパイスが効いてるからよ。……なんちゃって」


 彼女は悪戯っぽく笑い、コーヒーを啜った。

 俺も苦笑して、自分のトーストを手に取る。


 そんな、穏やかな休日の朝。

 時計の針は10時を回ろうとしていた。

 今日は特に予定もない。レオと遊んで、昼寝をして、夜は何か美味しいものでも作ろうか。

 そう思っていた、その時だった。


 ピンポーン。


 突如、インターホンの音が鳴り響いた。

 俺と李雪は顔を見合わせる。

 こんな時間に、誰だ?

 宅配便の予定はないはずだ。勧誘か?


「……はーい」


 李雪が面倒くさそうに立ち上がり、インターホンのモニターへと向かう。

 俺は呑気にトーストを齧っていた。

 だが、モニターを覗き込んだ彼女の背中が、瞬時に強張るのを見た。


「……ッ!?」


 彼女が息を呑み、バッと俺を振り返った。

 その顔は青ざめ、目が見開かれている。

 口パクで、何かを訴えている。


 『ヤ、マ、シ、タ』


「え?」


 俺は理解が追いつかず、首を傾げた。

 彼女は焦ったように、モニターの通話ボタンを押す前に、俺の方へ駆け寄ってきた。

 そして、耳元で囁くような悲鳴を上げた。


「山下よ! 山下恭子が下にいるわ!」


「はぁ!?」


 俺はトーストを喉に詰まらせそうになった。

 山下恭子。営業一課の課長であり、李雪の天敵。

 そして、俺を「ドラえもん」と呼んで懐いている、俺の飲み友達でもある。


 なぜ、彼女がここに?

 ここは李雪のプライベートな城だ。会社からは離れているし、彼女が場所を知っているはずが……。


「な、なんで……」


「前に一度、酔いつぶれた彼女をタクシーに押し込んだ時に、住所を教えたことがあったかも……いや、そんなことより!」


 李雪はパニック寸前だ。


「どうするのよ! 貴方がここにいるってバレたら終わりよ!」


 その通りだ。

 もし山下が上がってきて、この部屋に俺がいるところを見られたら。

 しかも、俺は今、完全に部屋着のリラックスモードだ。どう見ても「通い」ではなく「住人」のくつろぎ方をしている。

 言い逃れはできない。


 「橋本=ドラえもん」という正体バレと、「李雪と橋本が同棲している」という事実が同時に発覚する。


 営業二課どころか、会社全体を揺るがすビッグニュースになってしまう。


 ピンポーン、ピンポーン。


 催促するように、再度チャイムが鳴る。

 逃げ場はない。


「……とりあえず、隠れます」


 俺は小声で言った。

 ここが唯一の生存ルートだ。


「で、でも、レオくんは? 犬がいるなんてバレたら……」


「レオも連れて行きます。……寝室のクローゼットなら、声も漏れないはずだ」


「わ、分かったわ。……お願い、静かにしててね」


 李雪は俺の背中を押し、リビングから追い出した。

 俺はレオを抱きかかえ、食べかけの朝食を片付ける間もなく、寝室へと滑り込んだ。

 レオは「遊ぶのか?」と尻尾を振っているが、俺は必死に「しっ!」と指を立てて制した。


 リビングの方から、李雪が深呼吸をする音が聞こえた。

 そして、彼女は覚悟を決めて通話ボタンを押した。


「……はい」


 声色が、一瞬にして「氷の女帝」のものに変わる。


『あ、李課長? 私よ、山下』


 モニター越しに、あのハスキーで元気な声が聞こえてきた。

 俺はクローゼットの隙間から耳をそばだてた。


「……何の用かしら。今日は日曜日よ」


『分かってるわよ。でもね、貴女、金曜の会議資料、間違って私のファイルに混ぜて持って帰っちゃったでしょ?』


「え?」


『一課の来期予算案よ。週明け一番で使うのに、見当たらないから焦っちゃって。……貴女のカバンに入れた覚えがあるのよ』


 ……マジか。


 あの完璧主義の李課長が、そんなミスを。

 李雪も心当たりがあるのか、「あっ」と小さく息を呑む気配がした。


「……そう、だったかしら。確認するわ」


『いいのよ、確認しなくて。どうせそこにあるんだから。……ねえ、開けてよ。ここ暑いし、上がらせて』


 山下が追撃をかける。

 上がらせろ。

 その言葉に、俺の背筋が凍った。

 この部屋に上がられたら、一発アウトだ。

 玄関には俺の靴がある。洗面所には俺の歯ブラシがある。

 そして何より、リビングには俺たちが食べていた朝食の残骸が――二人分――残っている。


(……頼む、李さん。断ってくれ)


 俺はレオを抱きしめながら祈った。

 レオが「きゅ?」と鳴こうとしたので、慌てて口元を優しく塞ぐ。


「……ごめんなさい。今は無理よ」


 李雪が冷たく言い放った。


『はぁ? なんでよ。資料渡すだけじゃない』


「……部屋が、散らかってるの」


『貴女の部屋が? 冗談でしょ。モデルルームみたいに綺麗だって噂よ? 少しくらい平気だって』


 山下は引かない。

 むしろ、頑なに拒否する李雪の態度に、違和感を覚え始めているかもしれない。


 「何か隠しているのでは?」と。


「散らかってるだけじゃないの。……その」


 李雪の声が詰まる。

 まずい。言い訳が見つからないのか。

 焦りが伝わってくる。


「……男連れ込んでるとか?」


 山下が冗談めかして言った。

 図星だ。

 心臓が止まるかと思った。


「……馬鹿なこと言わないで」


 李雪は低い声で否定した。

 そして、一か八かの賭けに出た。


「……風邪よ」


『へ?』


「風邪をひいたの。……熱が高くて、とても人に見せられる顔じゃないわ。それに、うつすといけないから」


 仮病作戦だ。

 苦しいが、今の彼女にできる精一杯の嘘だろう。


『風邪? ……あの鉄仮面が?』


 山下は驚いたような声を上げた。

 普段、鉄壁の健康管理を誇る李雪が体調を崩すなど、天変地異に近い。


「……人間だもの。風邪くらいひくわよ」


 李雪は少し鼻声を作って言った。


「資料は……あるなら、コンシェルジュデスクに預けておくわ。後で取りに来て」


『……本当に? 大丈夫なの?』


「大丈夫よ。……寝てれば治るわ」


『ふーん……』


 沈黙。

 山下が納得したのか、それとも疑っているのか、モニター越しでは分からない。

 俺は息を止めて待った。

 レオが俺の腕の中でモゾモゾと動く。暴れないでくれ、頼むから。


 数秒後。

 山下の声が響いた。


『……分かったわ。無理しないでね』


 諦めた!

 俺は体中の力が抜けるのを感じた。


『なんか必要なものある? ポカリとか、ゼリーとか』


「……いらない。冷蔵庫にあるから」


『そ。じゃあ、お大事に。……鉄仮面も風邪ひくなんて、ちょっと安心したわ』


 山下は皮肉っぽく、しかしどこか心配そうな響きを残して、通話を切った。

 プツン、という電子音が、静寂を連れてくる。


 終わった。

 俺はクローゼットの扉を少し開けた。

 リビングから、李雪の深いため息が聞こえてくる。


「……はぁぁぁ……。寿命が縮んだ……」


 俺はレオを抱えてリビングに戻った。

 李雪はインターホンの前でへたり込んでいた。


「お疲れ様です。……ナイス演技でしたよ」


 俺が声をかけると、彼女は恨めしげに俺を見上げた。


「……もう限界。心臓に悪いわ、これ」


「山下課長、帰りましたか?」


「ええ、多分。……でも、資料を探さないと」


 彼女はヨロヨロと立ち上がり、自分の鞄を漁り始めた。

 すると、一番奥からクリアファイルが出てきた。


「……あった」


「ありましたか」


「……私としたことが。金曜の夜、貴方に会うのが楽しみすぎて、確認がおろそかになってたみたい」


 彼女は顔を赤くして、ファイルを胸に抱いた。

 その言葉に、俺は胸が締め付けられるような愛おしさを覚えた。

 完璧超人の彼女をここまでポンコツにさせてしまうほど、俺たちの関係は彼女の中で大きくなっているのだ。


「……俺も、もっと確認すべきでした。すみません」


「ううん。……でも、これで貸し借りはなしね」


 彼女はファイルをテーブルに置き、俺に向き直った。


「……風邪って言っちゃったから、明日はマスクして出社しなきゃ。貴方も協力してよね」


「協力?」


「そうよ。『課長、顔色悪いですよ』とか言って、周囲を信じ込ませるの。……共犯者なんだから」


 彼女は悪戯っぽく笑った。

 その笑顔を見て、俺はようやく本当に安心した。


「了解です。……演技指導、お願いしますね」


「ふふ。任せて」


 俺たちは再びテーブルにつき、冷めかけた朝食を食べ直した。

 トーストは少し硬くなっていたが、その味は、危機を乗り越えた安堵感というスパイスのおかげで、格別に感じられた。


 足元では、レオが何も知らずにアヒルちゃんカッパの匂いをクンクンと嗅いでいる。

 この平和な「巣」を守るためなら、俺はどんな嘘でもついてみせる。

 山下の鋭い勘も、ミチルの探偵ごっこも、今の俺たちなら躱しきれるはずだ。


 そう信じて、俺は彼女のコーヒーカップに、温かいコーヒーを注ぎ足した。

 窓の外の青空が、いつになく眩しく見えた。

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