第4話
朝は、いつも早い。
障子の向こうがまだ白みきらないうちから、和歌は静かに起きる。寝起きの身体はまだ重く、冬場などは指先が冷えて感覚が鈍い。それでも布団の中で丸くなることは許されない。
妹たちは、まだ小さく。
寝息の軽い子もいれば、夜中に何度も寝返りを打つ子もいる。和歌は音を立てないように立ち上がり、順番に布団を直し、着替えを手伝い、髪を結ってやる。誰に言われたわけでもない。言われなくても、そうするのが当然だった。
妹が泣けば、抱き上げる。
転べば、膝についた埃を払う。
「大丈夫よ」と声をかけるとき、和歌の声は不思議と柔らかくなる。家の中で、その調子の声を使う相手は、妹たちだけだった。
――けれど。
心の奥では、別の思考が止まらずに回っている。
もっと、勉強しなければ。
すぐ答えられなければ。
問われたその場で、言葉を返せなければ。
あの畳の部屋で閉じ込められた時間が、和歌の中で何度も反芻されていた。
「答えが出るまで出てはならない」
その理屈は、今も彼女の背中に重くのしかかっている。
だから、書物を読むようになった。
最初は、難しい言葉の意味が分からず、何度も同じ行を目で追った。
漢字の連なりは、まるで壁のように立ちはだかる。けれど、分からないままにしておくことの方が、ずっと怖かった。
書物の中には、言葉があった。
人の考え方があり、判断の理由があり、結果に至るまでの道筋が書かれていた。
――ああ、こう言えばよかったのか。
――この言葉を知っていれば、あのとき。
和歌は、心の中で何度も過去を書き換えながら読む。
やがて、語学にも手を伸ばす。
江戸の世とはいえ、外の世界の言葉は、断片的に入り込んできていた。和歌はそれを拾い集めるように覚えた。発音を口の中で転がし、意味を推し量る。誰に教わるでもなく、独りで。
父が医者であることも、彼女を書物へと近づけた。
医術書に並ぶ専門用語は、難解だったが、不思議と嫌いではなかった。身体の構造、病の理屈、治すための考え方。そこには感情よりも、原因と結果があった。
――理由があれば、納得できる。
それが、和歌の拠り所だった。
そんな日々が続いたある日。
書を読みふける和歌の背後で、男の声がした。
「算術も許可する。やりなさい」
唐突だった。
しかし、拒否ではなく、命令でもなく、淡々とした承認だった。
和歌は、思わず手を止めた。
顔を上げることはしなかったが、胸の奥で、何かが静かに弾けるのを感じた。
算術。
それは答えが明確に出る世界だ。理由を積み上げれば、結果は裏切らない。
「……はい」
返事は小さかったが、迷いはなかった。
それからの和歌の日々は、妹たちの世話と学びで埋め尽くされる。
学校に行くことは許されなかった。けれど、学ぶこと自体を止められることはなかった。
昼は妹の手を引き、夜は書を開く。
眠気に抗いながら、灯りの下で文字を追う。言葉を覚え、式を解き、医術の理屈をなぞる。
――いつか、問われたときに。
――黙らずに済むように。
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