死神業務、死を語らず

杏樹

第1話

 一年に二万人近くが自殺する現代。次の生から次の生へと移動しているのか、彼らは死を選ぶ。

 そんな大流行中の人生リセットマラソンに奔走している彼女との話。


 僕は一度死んでみたいと思っていた。いつかくる死に対して何も知らないのはあまりにも無責任だと思うからだ。

 ただ、僕はこの流行りに乗るつもりはない。勧めもしない。その理由となる少し長くなってしまった話をしたい。
 

 


 さて、この話に少し、あるいは大きく関わる過去の話から。

 小さいとき、好きな人たちは死なないと思っていた。きっと僕だけじゃなく、誰しもが思って通ってきたオリジンだ。決めつけようってんじゃない。でも僕は思う、例えば生まれながらにして家族を亡くしていたとしても、物心がつくまでは親しい人にそう思うだろうと。もっと言えば、そう思っていないと困る時期が、確かにあった。それが僕らにとって祝福であり、呪いだったんだな。その時期を抜けて一人一人考えを分かっていくなか、偶然だったと思う。

 でも、後から振り返ると、あれだけは、そう言い切ってしまうのが怖い。僕はある有名人に会った。

 

 どこだったか、もう思い出せない。たまたま、迷って辿り着いた廊下で、僕はその人と出会った。

 難病から奇跡の回復を見せ、再び表舞台に立った彼に、僕は尋ねた。13歳の、丁寧でいて芯を溶かすような質問だった。

「死ぬって、どんなものだと思いますか」

その人は、少し黙った。すぐに答えなかったのは、言葉を選んでいたからじゃない、と思う。


 たぶん、僕のために、それから、自分自身を裏切らないために。

 そして、はっきりと答えた。

「よくあるだろう。死んだ人の身内が『きっと楽になれたと思います』とか、ニュースキャスターが『生前のように』とか言うやつ」

 彼は、僕とどこか遠くを交互に見ながら続けた。

「でもさ、誰かにわかられるもんじゃないんだ。死は」

 少し間を置いて、言葉を選ぶみたいに、でも迷わずに。

「楽になれるものでもないし、本人の望む形で残るものでもない」

 彼は、そこで一度言葉を切った。

「でも、死は死んだ本人のものだ」

「僕の死は僕の死で、きみの死はきみの死だ。誰かが代わりに決められるものじゃない」

 一拍置いて、最後にこう言った。

「だからね。僕ら自身の死と、他の人が受け取る死は、別のものなんだ」

 一際長い沈黙があった。彼は自身の内を照らして言葉を探していた。見つかった中から、僕に告げるものを決めあぐねているようだった。

 でも、次の言葉ははっきりしていた。

「だからさ」
彼は僕を見た。初めて、ちゃんと目が合った気がした。


「誰かが代わりに意味をつけてやるのは、たぶん違う」

「選ぶのは勝手だが、迷惑をかけちゃいけないな」

「それから、死後についてだって聞きたかっただろうが、僕なんかにわかることじゃないんだ。でも、案外自分が死んだことだって、わからないかもしれないな。それならそれで幸せだと僕は思う」

 十三歳の僕は、その言葉をうまく理解できなかった。
 わからなかったけれど、忘れもしなかった。


 理解できない言葉ほど、妙に長く残る。

 それは、わかるタイミングを待っているからだ。


 その人は、テレビで見るよりずっと普通だった。
声も、仕草も、少し疲れた大人のそれで、特別な光は感じなかった。
でも、だからこそ、僕は安心していた。
この人は死なない、と子供と大人の間だった僕は思った。


 正確には、死ぬところまで想像が及ばなかった。

 数年後、その人は死んだ。
テレビでは特番が組まれ、長い闘病の末だとか、安らかな最期だったとか、たくさんの言葉が並べられた。
身近な人たちは、「きっと楽になれたと思います」と言い、
キャスターは「生前のように、穏やかな表情で」と締めくくった。

 僕は、それを見ながら、あのときの言葉を思い出していた。


 楽になれるものじゃない。


 本人の望む形で残るものでもない。


 でも、死は死んだ本人のものだ。

 画面の中の言葉は、どれも間違っているようで、正しいようでもあった。正しい形をしていた。大衆に合わせて切られ縫われた屈辱的な言葉。


 確かなのは、あの人が僕に話したそれらは、どこにもなかったということだ。


 誰の口からも、こぼれなかった。

 それが、ひどく気持ち悪かった。

 その頃から、僕は少しずつ、死について語る言葉を信用しなくなった。


 慰めも、教訓も、きれいな終わり方も。


 それらが必要な場面があることは理解できたし、否定する気もなかった。
ただ、自分がそこに混ざる気にはなれなかった。

 時間が経つにつれて、その有名人のことも、次第に思い出さなくなった。


 死から距離を取れば取るほど、生活は楽になった。


 

 新幹線の隣の席に、よく眠る女性が座っていた。

 左遷だろうか、大きな荷物を持っている。

 不思議と旅行者という感じはしなかった。
長く伸びた茶髪で、綺麗なのに、疲れを包んだような顔をしていた。それも含めて、彼女という存在を纏め切っている感じがした。でも、どこか彼女自身も持て余している感じでもあった。話とは関係ないけど、僕は隣にいる間、彼女に見惚れていた。おそらく、彼女は知らない。……おそらく。


 会話はなかった。数時間後、同じ駅で降りた。


 静かな改札を抜け、同じホームに立つ。


 見えるのは、僕と彼女と、僕と似た背格好の少年だけだった。

 彼女は少年に近づいた。何か話しているようだった。顔は見えない。
少年の怯えた顔が、和やかな表情に変わった。悟ったような、あるいは、諦めのような。目を閉じて、笑う。

 僕は、「なんだ、こんな感じか」なんて思った。

ホームを照らす古臭い蛍光灯が、普段より鮮烈に明滅した気がした。

 次の瞬間、少年はいなかった。

 彼女は、触れていなかった。


 突き落としたわけでもない。


 ただ、背中を押してあげたみたいだった。矛盾しているようだけど、この通りだった。

 軽めの事情聴取と、雑な記録。

 終電を逃した僕は、駅で夜を明かした。不思議と寒くなかった。
少年は、事故死として処理されたと聞いた。


 早朝、部屋に戻って、酒を探した。なかった。


 代わりに安タバコを二本、同時に火をつけ、口に咥えた。日々のささやかな贅沢である。

 一口目を吸おうと思ったとき、不意にチャイムが鳴った。もちろん、彼女だった。

 煙が充満した部屋で、彼女は咳ひとつせずにぼそっと言った。

「残業代、出るといいんですが」


「なんの話ですか」


「タバコ、もらいます」

 なるようになるだろうと思った。

 燃え続ける安タバコの匂いが、部屋に残った。


 やることがないので、彼女について歩くようになった。あの部屋にいたというのに、彼女は驚くほど匂いがしない。


 朝、通勤の人波の中で、彼女は一人を指した。


 鞄は新しく、靴は古い。携帯を何度も確かめている。

「この人です」


「理由は?」


「あります。多すぎるくらい」

 人の流れが詰まり、動いたとき、その人はいなかった。いた形跡さえ感じられないほどさっぱりとした空気、何事もないように進む人と車。信号の点滅とポップな警告音だけが異質。

「生きたがってましたよね」


「はい」


「それでも?」


「だから、です」

 冷たいのか、暖かいのか、僕にはわからない。

 タバコを取り出し、火をつけ吸おうとする。手をすり抜けるように落ちていって消えた。

 既にまとわりついた匂いは、車に連れられた風に切られて消えた。


 昼前、彼女の足は、中心部から外れた住宅街へ向いていた。アパートの前で立ち止まる。擦り切れた空の字と、やけに多い烏が僕らを歓迎している。

 主は、煙と異臭だろうか。予想以上のバッドスメルが漂う。構わずドアノブを回す。

 嗅ぎ慣れていない煙の匂いが充満している。彼女は溜息を一つつき、「あなたも多分大丈夫でしょうけど、少し待っていてください」と言って中に入っていった。

 彼女が苦戦する姿は想像つかなかったけど、汚れ仕事をさせたくなかったので、1分ほどしてから入った。

 目に入った順に話すと、まず、おそらく隙間をなくす為だろうか、棒状に丸められた紙が玄関には広がっていた。それから大量の炭、ほとんどが灰。そして真ん中の首を括った若い男。既に死後数日が経っている。唾液と糞尿で汚れた畳は既に乾いていた。彼女は、机の上に置いてあった車のキーだけ持って部屋を後にした。

烏が増えた。

 生者が持つべき死への拒絶感をほとんど感じなかった。

「あなた、運転はできますか?」

「できますよ」

「……免許は──」

彼女は手元の書類をぱらぱらとめくっている。

「ありません」

エンジンをかけて彼女の案内通りに車を走らせた。

 煙と異臭を置き去りにした。安タバコの匂いはしつこかった。


 正午、車をとめて、自販機の前で立ち止まる。


 壁に寄りかかる人がいた。

「この人は?」


「死にたい人です」


「じゃあ、今日は?」


「いいえ」

「希望しているのに?」


「希望しているからです」

「順番は変えられるんですか」


「変えられます」


「ノルマ、でしょうか」


「ええ」

経過観察といったものかな、と思った。スラスラと過ぎて行く会話は僕と交わされているのに、問診のように感じられた。しかし、それがあながち間違いではないということは最後になってわかった。

 その人は、その場を離れなかった。


 でも、何も起きなかった。

 

 昼過ぎ、彼女が一人を指して、手元の紙束と彼を交互に見ながら「あの人はどこで間違えたんでしょうね」と言った。特徴的で整った顔立ちをしているのに、すれ違って一秒もすれば忘れてしまうような人。

 得るはずだった幸福を取り逃がして、透明になってしまったような人。きっとそろそろリセットだ。彼の場合は流行りに乗るわけじゃないんだろうが。

 それが彼にとって、闇の中に見えた光明のように思えて、不思議な気分になった。昔の僕とよく似ていたからだ。


 夕方、横断歩道の前。


 姿勢の良すぎる人が、こちらを見ていた。視線は合わない。ここではないどこかを見ているようだった。

「順番が近い人です」


「今日は?」


「いいえ」

 信号が変わり、人が渡る。喧騒が混ざり合う。


 その人は流れに混じり、振り返ってこちらを見た。

「助かった?」


「いいえ」


「今日は、違いました」

「だから、いいんです」

 安タバコの匂いは、すぐにわからなくなった。


 宵、車を走らせているとき、彼女に聞いた。

「同業者とかっているんですか」

「います。会ったことがあるかは、わかりませんけど」

「どこに向かっているんですか」

「秘密です」

「曲とか流さないんですか」

「嫌です。勿体無いので」

「……何が?」

 しばらくして、ダムについた。

「ここら辺多いんですよ、物騒ですよね」

彼女は空を見上げて、溜息をひとつふたつ。熱がこちらまで伝わる。

「こんなに綺麗なのに」彼女の表情はほとんど変わらない。それなのに、あまりにも美しかった。

「仕事、終わったんですか」

「いえ、でも、ここも仕事場ですから」

そう言って少し悲しそうにダムを見て「三人組ですか」と言った。

「流行ると、仕事が増えるんですよ。……残業代が出ないことだって多いですし」

 ダムの水面は、無邪気に空をそのままに写している。

 もしかすると、彼女の故郷はこの辺りなのかもしれないと思った。

 僕はポケットを弄った。彼女は首を振った。

 火をつけてないのにふわりと匂った。


 夜半、彼女は歩道の端で急に立ち止まった。


 何度も、指を折って数えている。

「間に合わなかったんですか」


「……少し」

 対象は、違う人だった。

「この人は?」


「違います」

 ほんの一拍、世界が遅れた。

 街灯は激しく明滅している。


 音がして、人が集まる。

「今のは」


「ミスです」


「帳尻は?」


「合わせます」

 翌日のニュースでは、事故として一行だった。

「最初の子と、同じですね」


「ええ。似ています」

顔は見えない。

 今回は、匂いがなかなか消えなかった。

 優しい匂いがした。


 

 二日目は、特に何事もなかったように過ぎた。
 正確にはいろんなことが起きたが、僕はそれらを見逃した。

 誰も死ななかった。

 誰かの死の跡だけがあった。

 だから僕らはそれを辿って集めるように、移動距離だけがやけに長かった。

 彼女は朝から歩いた。


 朝、昨日より少し遅かった。
 待ち合わせ場所は特に決めていない。ただ、昨日と同じ駅前に立っていれば、彼女は来る気がした。

 案の定、十分ほど遅れて現れた。
 昨日と同じ服装だった。違いは、歩く速さがわずかに遅いことくらいだ。

「今日は何人ですか」

 挨拶代わりに聞くと、彼女は一拍置いてから答えた。

「未定です」

「未定、ですか」

「ええ。たまにあります。それから、見てまわります」

 紙束を確認する様子はなかった。
 昨日なら、必ず数えていたはずだ。

 人通りの多い交差点に向かう。
 通勤時間帯はとうに過ぎているのに、人は多かった。誰もが目的地を持っていて、迷っているようには見えない。

 彼女が一人を指した。
 スーツ姿の中年男性。少し猫背で、歩幅が揃っていない。

「この人ですか」

「いいえ」

 即答だった。

「でも、さっき」

「見ただけです」

 信号が変わり、人の流れが動く。
 男は流れに混じって消えた。昨日なら、ここで一人減っていた。

「今日は、減らさないんですね」

「そういう日もあります」

 淡々としていた。
 今日はオフかな、と思った。


 次の場所でも、同じだった。
 駅の改札前。
 自販機の前。
 横断歩道。

 指す。
 見る。
 何も起きない。

 三度目には、僕の方が先に口を開いていた。

「昨日は、「今日は終わりです」って言ってたじゃないですか」

 彼女は歩きながら、少しだけ首を傾げた。

「何がですか」

「ノルマです」

「ああ」

 それだけだった。
 肯定も否定もしない。

 風が吹いた。僕だけを置いていくように吹く。
 昨日まで、しつこく残っていた安タバコの匂いが、今日はほとんどしなかった。
 それが、なぜか一番おかしく感じられた。


 駅から駅へ、橋を渡り、商店街を抜け、意味のない遠回りをする。探し物でもしてるかのような気分だった。
 途中、何度か立ち止まったが、誰も指さなかった。

「今日は、いないんですね」
「いますよ」
「どこに?」
「どこにでも、ここではないどこかでも」

 彼女はそう言って、空のペットボトルを捨てた。
 自販機の前に立ったが、何も買わなかった。

 

 昼前、河川敷に座った。
 犬を連れた老人が通り過ぎ、学生が自転車で転び、誰も死ななかった。
 それを確認するみたいに、彼女は一つずつ数えていた。

「楽ですね」
「そうですか」「……楽な日は、後で困るんです。いつもはとくに」

 理由は聞かなかった。
 聞く必要がない気がした。

 答えはすぐにわかると思ったからだ。

 

 午後、古い団地の前で立ち止まった。
 洗濯物が風に揺れていた。
 彼女は一瞬だけ建物を見上げて、首を振った。

「あくまで、私の仕事は私の仕事なんです」

 彼女は寂しそうに、でも、動じていないように呟いた。かける言葉が見つからなかった。理由はわからなかった。わかるはずなのにと思った。

 

 夕方、ダムの下流まで歩いた。
 昨日より水位が高い。

ほとんど変わっていないはずなのに、五感全てで感じ取れる。
 彼女はそれを見て、少しだけ眉を寄せた。

「今日は、何もしないんですか」
「しています」
「何を」
「確認を」

 何の確認かは言わなかった。
 でも、僕の方を一度だけ見た。

 それから、いつかのここも。

 

 夜、彼女は紙束の一番上を僕に見せた。

 結局、今日の日付に何かが書かれることはなかった。
 代わりに、記録欄の余白に、意味のない線が一本引かれていた。

 それを消すでもなく、彼女は紙束の一番下に戻した。


 

 夢を見た。

 匂いがしない、どこかそのままである世界。

 夢特有の、胸から、腹から始まった締め付けで呼吸が詰まって、何か不安だったようだ。

 本が好きだった。

 音楽が好きだった。

 絵が好きだった。

 世界が好きだった。

 創作物は生きる理由みたいな顔をしていつも僕らの周りにあった。

 僕はそれらを信じられなくなった。現実世界の死について触れれば触れるほど、僕の世界と創作の世界は離れていった。

 死について触れた創作物はどこかずれていた。

感動的すぎるか、残酷すぎるか、あるいは軽すぎた。

 悲しみの深さ強さ、やけにはっきりとした救い、何より、それぞれの人物の中に、僕と大きく異なる死への価値観があるようだった。

 僕が知っている現実の死は、もっと雑で、後味が悪くて、誰の中にもきれいに収まることがない。

 孤高で誰も知ることができない、でもただ僕らの横にいるだけ。

 死は、そんなに都合よく配置されるものじゃない。
意味を持たせられるものじゃない。

 なのに、物語の中では、死は意味を持ち、役割を与えられ、いつのまにか納得できるものに変わっていく。

 それが、どうしても信じられなかった。

 僕は、死を知らないまま生きていることより、知ったつもりで生きていることの方が、ずっと無責任だと思った。

 そう思う一方で、僕はそれらに触れ続けてきた。見て、聞いて、知った気になっていた。

  

 夢の中で、誰かが高い場所に立っていた。
 顔は見えない。
 性別も年齢もわからない。

 ただ、落ちそうだった。

 周りには人がいた。
 騒いでいるわけでも、止めようとしているわけでもない。

 まるで、舞台装置を眺めている観客みたいに、距離を保っていた。

 いや、実際に演目として見ていた。

 僕もその一人だった。

『どうなると思う?』

 誰かがそう聞いた気がした。
 答えは浮かばなかった。
 浮かばなかったのに、結末だけは知っている気がした。

 結局、その人は落ちなかった。
 何も起きなかった。

 拍子抜けするくらい、何も。

 人々は少し困った顔をして、散っていった。
 イベントが中止になったみたいな空気だった。

 そのとき、僕ははっきりと苛立っていた。
 期待していたわけでもないのに、何も起きなかったことに対して。

 そこでようやく、自分が何をしていたのかに気づいた。

 僕は、死を見に来ていた。
 安全な距離から。
 物語として。

 夢の中の世界は、最後まで匂いがしなかった。
 血の匂いも、鉄の匂いも、安いタバコの匂いも。
  

 目が覚めたとき、まだ暗い朝だった。

 テーブルの上を見て、少し迷った。
 何か置いてあった気がする。
 気がするだけで、思い出せない。
 手を伸ばしてみたが、確かめたい対象が定まらず、結局そのまま下ろした。

 時計を見る。
 針は動いている。
 それだけで、少し安心した。時間が進んでいるなら、たぶん大丈夫だ。
 風の音がして、匂いはなかった。

 まだ消えない夢らを、ただただ覚えていようと思った。



 朝、彼女は来た。
 昨日より、さらに少し遅かった。

 服装は変わらない。
 髪も、靴も、鞄も同じ。
 ただ、持っている紙束が薄かった。

「今日は何人ですか」

 言ってから、余計だったと思った。
 彼女は数える素振りを見せなかった。

「確認だけです」「それから、あなたのための日でもあります。今日も、昨日も」

 それが答えだった。

 歩き出す。
 行き先は聞かなかった。
 聞いても、意味がないとわかっていた。

 街はいつも通りだった。
 通勤の人、配達の車、開ききらないシャッター。
 なのに、匂いがしない。

 排気ガスの匂いもしなければ、パン屋の匂いもしない。
 僕の服からもしない。
 安タバコの、あのしつこい匂いも。

「今日は、見なくていい日です」

 彼女は前を向いたまま言った。

「今までは?」

 問いかけたつもりはなかった。
 独り言に近かったと思う。

「……ですから」

 聞き取れなかった、でも聞き返そうとは思わなかった。それだけだった。


 正午前、ダムの管理道路に出た。
 昨日より、水位が少し変わっている。

「また、ここですか」

「確認です」

 彼女は紙束ではなく、腕時計を見た。

「ここは、」

 言いかけて、やめた。
 彼女は何も言わなかった。

 自販機の前に立つ。
 タバコを買った。
 確かに、買ったはずだった。

 外に出ると、ポケットが軽い。

「……今日も、吸えないですね」

 彼女は何も答えなかった。
 止めもしなかった。

 静かだった。


 昼過ぎ、街は相変わらず騒がしかった。
 救急車の音が遠くで鳴り、子どもが走り、誰かが携帯で怒鳴っている。
 それなのに、すべてが一枚のガラス越しにあるみたいに感じられた。

 人と人の間をすり抜ける感覚が、やけに軽い。
 肩が触れない。
 鞄がぶつからない。

 僕の歩幅は、彼女に合わせているはずだった。
 でも、気づくと少し遅れている。
 追いつこうとすると、今度は行き過ぎる。

 信号待ちの列に並んだとき、後ろに立っていたはずの人影が消えていた。
 抜かされた気配もない。
 ただ、いない。

 振り返っても、誰もこちらを見ていなかった。

 自販機の前で立ち止まった。
 小銭を入れる音が、やけに大きく響いた気がした。
 ボタンを押す。
 缶が落ちる音がしない。

 取り出し口を覗くと、ちゃんとあった。
 触れると、冷たい。
 それで少し安心する。

 彼女は少し先で待っていた。
 声をかけようとして、やめた。
 必要がない気がした。

 ガラス張りの店の前を通ったとき、不意に自分の姿が映った。
 半拍遅れて、同じ動きをする。
 気のせいだと思おうとしたが、二度目も同じだった。

 彼女は気づいているだろうか。
 横顔を見る。
 何も変わらない。

「疲れてますか」
 そう聞こうとして、やめた。
 疲れているのは、たぶん僕の方だった。

 昼過ぎの光は強すぎて、影の輪郭が曖昧だった。
 足元を見ても、影が薄い。
 雲のせいだろう、と理由を探す。理由はいくらでも見つかった。だから、考えるのをやめた。

 彼女の歩く背中だけを見ていればよかった。追いつけなくても、離れなければいい。

 そのときはまだ、自分が「見られていない」ことと、「ここにいない」ことを、同じものとして扱っていなかった。

 甘い影だけがここにいた。

 横断歩道の前で止まる。
 信号待ちの列が、いつもより短い。いや、少ない。
 数えようとして、やめた。

「今日は、静かですね」
 言ってみたが、彼女は振り返らない。

「昼下がりは、こんなものです」
 業務連絡みたいな口調だった。

 信号が変わる。
 人が動く。
 その流れに、僕は少し遅れて混ざった。
 遅れたこと自体には、もう違和感がなかった。

 渡りきったはずの交差点で、ふと足を止める。
 音が一拍、遅れて届く。
 クラクション。
 遠くの工事音。
 子どもの笑い声。

 彼女は少し先で立ち止まり、こちらを待っていた。
 待っている、というより、確認している感じだった。

「大丈夫ですか」
「……はい」

 本当は、何が大丈夫なのかわからなかった。大丈夫だと思うために、大丈夫と言う言葉が聞きたかった。


 それから、川沿いの道を歩いた。
 風が吹いているはずなのに、水の匂いがしない。
 彼女の髪が揺れる。その動きだけが、やけに現実的だった。

「ねえ」
 呼び止めると、彼女は初めてはっきりと足を止めた。

「一一昨日も言ってましたよね」
「何をですか」
「あなたも多分大丈夫でしょうけど、って」

 一瞬だけ、彼女は目を伏せた。
 考えている、というより、確認しているようだった。

「ええ」
「……何が、大丈夫なんですか」

 彼女は答えなかった。
 代わりに、川の向こうを見た。
 水面は空をそのまま映している。
 意味を持たないくらい、綺麗だった。

「業務上の判断です」
 それだけ言って、歩き出した。

 夕方が近づくと、街は少しずつ音を取り戻した。
 帰宅する人。
 買い物袋。
 駅へ急ぐ足音。
 それらは確かに存在していた。
 ただ、僕の周囲だけ、薄かった。

 影が伸びる。でも、僕の影は短い。

 ダムへ向かう道で、彼女は腕時計を見た。昨日と同じ仕草。
 でも、紙束は出さない。

「今日は、もういいんですか」
「ええ」
「確認は」
「終わっています」

 その言い方で、十分だった。

 日が落ちていく速さと同じくらいに、僕がだんだんと世界に現れていくような気がした。
 空が暗くなるにつれて、街灯が灯る。
 その光が、やけに眩しい。
 直接見ているはずなのに、どこか反射光みたいだった。


 夜、もうすべて終わりのような気がした。今日が、それから今が。

 だから、思ったことを彼女にぶつけてみることにした。

「ねぇ、今日と昨日は、本当に仕事だったんですか」

 彼女は俺の方をはっきり見つめて、目を瞬かせた。彼女にはっきりと見つめられるのは初めてかもしれないと思った。

「何のことを言っているのか、わかりませんね」

「じゃあ、わかりやすい話をしましょう?……あなたの休みのためにに僕を使ってくれて、うれしかったです。でも、僕にもいいことがたくさんありました。長い長い夢の中で、夢が叶いました」

 彼女の顔は月と街灯によって、なんなら昼間よりもはっきりと見えた。

『ふふっ』と『ははっ』の中間のような声で彼女が笑った。


 深夜、駅の構内図の前で、彼女は言った。

「今日は、終わりです。あなたの分も」

 紙を出し、指でなぞる。

「ここです」

 名前があった。

「じゃあやっぱり」
「いいえ」
「順番は」
「来ていました」
「ノルマは」
「足りています」

「どうして」

 そうだ。答えは昔からあった。

案外自分が死んだことだって、わからないかもしれないな。それならそれで幸せだ、と。

確かに僕は幸せな時間を過ごすことができたのだ。

「処理済みです。記録が雑だっただけ」

 彼女は線を消し、別なところに書いた。それから紙を折り、鞄に戻した。

「管轄外です」
「それは、祝福ですか」
「いいえ。業務連絡です」

 改札を抜けると、夜風が入ってきた。

 彼女の匂いはこんな感じだったのかとわかった。

 いい酒といいタバコを買いに行こうと思った。

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