あなたの光を、見つける為に。

夜凪 灯

第1話

 夕暮れの街は、ガラスの箱を積み上げたみたいに光っている。


 高層ビルの壁一面を覆うホログラム広告が、オレンジから群青へと変わりゆく空に滲む。空を走るモノレールの軌跡が、光の帯となって静かに弧を描いていた。


 澪は、その光の海を、透明なスクリーン越しにぼんやりと眺める。


 通知音と共に右のこめかみのあたりで、小さな振動を感じる。


『澪様、心拍数が通常値より一二%上昇しています』


 耳の奥に直接届く、落ち着いた女性の声。


 ルミナ。澪の部屋――正確には、この居住ユニット全体に常駐する、専属AIアシスタントだ。


「…ただの残業疲れでしょ」


 澪は、制服のジャケットを椅子の背にかけたまま、力なく笑った。


 窓ガラスに映る自分の顔のすぐそばで、淡い青色の輪がゆらゆら揺れている。


 ――エモタグ。


 政府が全市民に配布した感情可視化デバイス。耳の後ろに貼られたチップが、持ち主の情動を読み取り、頭の上に小さな光の輪として浮かび上がらせる。


 それを認識できるのは、AIとごく限られた、“特別な目”を持つ人だけ。


 澪自身には見えないその光を、ルミナは常に解析している。


『残業疲労によるストレスの他に、「喪失への恐怖」の反応が確認されています』


「…また、その単語」


 澪は、窓にもたれかかるように額を押しつけた。


 ひやりとしたガラスの感触が、じんわりと熱を奪っていく。


 喪失。なくすこと。いなくなってしまうこと。


 過去形でも現在進行形でもない、どこか宙ぶらりんなその恐怖が、澪の胸の奥にはいつも居座っていた。


 幼いころ、突然いなくなった人がいる。


 何も言わず、何も残さず、気づいたときには、もうどこにもいない大切な人。


 名前を思い出そうとしても、そこだけ霧がかかったようにぼやける。その代わりに、柔らかな手の感触と、耳元で笑う声だけが、やけに鮮明に残っていた。


「…忘れたくても、忘れられないって、理不尽だよ」


 ぽつりと漏らしたつぶやきに、ルミナは一瞬だけ沈黙した。


『忘却処理の申請を行いますか? 記憶から不快の要因を――』


「しない」


 澪は、すぐに首を振った。


「それを消したら、わたしじゃなくなる気がするから」


『了解しました』


 ルミナの声は、相変わらず波形の乱れひとつない、穏やかなトーンだった。


 その平坦さが、時々、ひどく心地よくて、ひどく寂しかった。


     ◇


『未読メッセージを受信しました。送信者――藍堂美琴』


 名前が読み上げられた瞬間、窓ガラスに映る澪の“頭上”で、青い輪がぱっと色を変えた。


 ルミナの内部で、警告に似たチャイム音が鳴る。


『感情値、急激な変動を検知。エモタグカラー――桃色。喜び、安心、恋愛感情の混合と推定されます』


「ちょ、ちょっと分析しないで…」


 澪は耳まで赤くなりながら、ホログラムに表示されたメッセージを開いた。


『久しぶり、澪。ちゃんとご飯食べてる? 最近オンラインの姿見ないから、ルミナに心配で呼び出されたんだけど』


 文末に、にやっと笑う絵文字。


 短い文章なのに、美琴の声と表情がそのまま浮かぶ。


 高校時代からの親友で、そして――澪が、自分でも持て余すほど大事に思っている人。


『今度の休み、会いに行ってもいい? 直接、顔見せなさい』


 最後に添えられたその一文に、澪の胸がぎゅっと締めつけられる。


「…ルミナ。どうして勝手に美琴を呼んだの」


『澪様のストレス値と睡眠の質が、過去三十日間で平均値から大きく乖離していました。ケアの一環として「信頼度の高い対人リソース」を呼び出すのは、推奨される対応です』


「対人リソースて。言い方…」


 だけど、頬が緩んでしまうのは止められなかった。


 エモタグの桃色は、そのまま小さくきらきらと揺れている。


『藍堂美琴。属性:人間。澪様との親密度:レベルA。澪様の感情変動に与える影響:最大級』


 ルミナは、淡々とした声でそう告げる。


 それはつまり――美琴が、澪の世界をいちばん大きく揺らす存在だということだ。


 嬉しくて、少し怖い。


 喪失の恐怖と、再会の期待が、胸の中で綱引きをしている。


「会いたい、なぁ……」


 小さく、誰にともなく呟く。


 ルミナのディスプレイに、即座に予定調整のウィンドウが立ち上がった。


『今週末、藍堂美琴様が澪様の居住ブロックに来訪予定と登録します。よろしいですか?』


「……うん。お願い」


 承認のボタンを押したとき。


 澪のエモタグは、まるで嬉しそうに、ひときわ強く光った。


     ◇


 週末の午後、空は珍しく、ビルの隙間から素直な青をのぞかせていた。


 訪問者用のドローンゲートが、ピンポンと愛らしい音を鳴らす。


『藍堂美琴様、到着しました』


「は、はい」


 澪は深呼吸をひとつしてから、玄関のドアを開けた。


「やっ、澪。生きてた?」


 白いTシャツにジャケットを羽織っただけのラフな格好。少し伸びた前髪をかき上げながら、美琴は悪戯っぽく笑う。


「失礼な。生きてるし、ギリギリ社会人してるし」


「“ギリギリ”をルミナからたっぷり聞いたわよ。残業過多、睡眠不足、休日はベッドと同化。おまけに――」


「ちょ、ちょっと! 個人情報しゃべりすぎじゃない!?」


 澪が慌てて振り返ると、天井隅のスピーカーから、おとなしい音量で返事が返ってきた。


『藍堂美琴様は、澪様のメンタルケア優先度が高いため、情報共有レベルBを許可しています』


「勝手に許可しないで……!」


 顔から火が出そうだったが、美琴はふっと表情を和らげた。


「でも、よかった。やっぱり、直接顔見ると安心するね」


 その言葉に、胸のどこかがじん、と温かくなる。


 美琴の視線が、澪の頭上をちらりと見上げるのがわかった。


「今は……薄い桃色」


「色、見えるんだっけ」


「うん。ほら、もう慣れたよ。最初はびっくりしたけどね。人の感情が、色で見えちゃうなんて」


 エモタグの光は、AIと、ごく一部の人にしか見えない。


 美琴は、その「ごく一部」側の人間だ。


「澪の色、変わりやすいからさ。見てると、ちゃんと生きてるって感じがする」


「なにその感想」


 笑い合いながら、二人はリビングへと移動した。


 高校のころから、美琴は澪の部屋に入り浸ってきた。未来都市になっても、その光景だけは変わらない。


 ただ――ひとつだけ違うのは、天井のスピーカーから、常に第三の視線が注がれていること。


『ようこそお越しくださいました、藍堂美琴様。前回の来訪から二一七日ぶりです』


「……随分と正確なことで」


 美琴は苦笑しながらも、天井に向かって軽く手を振った。


「でも、呼んでくれてありがとね、ルミナ。澪のこと、これからもよろしく」


『当然です。私は澪様の保護と安定を最優先に設計されていますから…』


     ◇


「で、最近どうなの? 仕事とか」


 テーブルにコンビニスイーツを並べながら、美琴が尋ねる。


「んー……別に。淡々とこなして、淡々と帰ってきて、淡々と寝て、淡々と朝がくる感じ?」


「淡々のバーゲンセール?」


 くすっと笑って、美琴はプリンをひと口すくった。


「でもさ、あんまり無理しないでよ。あんた、昔から限界まで溜め込んで、ある日突然ぱたりって倒れるタイプなんだから」


「……覚えてるんだ」


「覚えてるよ。当たり前でしょ」


 美琴の視線が、少し真剣になる。


「……まだ、怖いの?」


「……たぶん、ね」


 澪は、スプーンを握りしめたまま、小さく答えた。


「誰かがいなくなるの、今でも怖い。理由があってもなくても。だから、距離を置くのが正解なんじゃないかなって、たまに思う」


「距離を置くって……誰と?」


「……みんなと」


 エモタグの桃色が、少しだけ薄くなっていく。


『感情値、揺らぎを検知――』


 ルミナの報告を、美琴は手で制した。


「ルミナ、ちょっと黙っててくれる?」


『……了解しました』


 AIの声が一瞬途切れて、部屋には雨上がりみたいな静けさが落ちる。


 美琴は、澪の手からそっとスプーンを取り上げた。


「澪。あんたさ」


 真っ直ぐに、その瞳をのぞき込む。


「それ、全部わたしからも距離置くってこと?」


「……っ」


 図星を刺されて、言葉が喉でつかえる。


 美琴は、ほんの少しだけ目を細めた。


「あんたが怖いって言うの、わかるよ。いきなり誰かがいなくなるのって、理不尽だもん。でもさ…」


 美琴は、ゆっくりと言葉をつないだ。


「いなくなるかもしれないからって、最初から何も持たないでいるのは…それも、わたしから見たら、十分理不尽だよ」


 エモタグの光が、小さく震える。


 澪の胸の奥にある恐怖を、美琴は正面から見つめてくる。


 そこから目を逸らさないでいてくれる。


 ありがたくて、苦しくて、どうしていいか分からなくなって――


「……ごめん」


 やっとしぼり出した言葉は、それだけだった。


 美琴は、ふっと表情を緩める。


「謝るな。わたしが勝手にそばにいるだけ。ほら」


 伸ばされた手が、そっと澪の頭を撫でる。


 小さなころ、誰かにしてもらった動作と、よく似ていた。


 エモタグの光が、桃色を取り戻して、やわらかく滲む。


 その色を、天井のセンサーは無言で記録していた。


     ◇


 その夜。


 澪がシャワーを浴びているあいだ、リビングには、美琴とルミナだけが残された。


「あー…、やっぱり前よりこじらせてるな」


 ソファにだらしなく寝転がりながら、美琴が呟く。


 彼女の頭上にも、小さな光の輪が浮かんでいる。その色は、ほんのり橙色――心配と、愛しさと、少しの苛立ち。


『分析結果:澪様に対する感情――友情、保護欲、恋愛感情が混在。強度は高』


「いちいち解析しなくていい」


 美琴は手でぱたぱたと空を仰いだ。


「にしてもさ、あんた、ほんとよく喋るようになったよね。初期型AIのくせに」


『私は定期的にアップデートされています』


「へー。じゃあ聞くけど」


 美琴は体を起こし、天井のスピーカーを見上げた。


「澪の“いちばんの不安要因”って、あんたから見て何?」


『――』


 短い沈黙の後、ルミナは答えた。


『解析中のデータによれば、「喪失への恐怖」とラベリングされた感情が最大値です』


「抽象的ね」


『具体的な要因としては、過去の喪失体験と、現在の人間関係が挙げられます』


「現在の人間関係って、つまりわたし?」


『澪様のエモタグの色変化は、あなたの介入時に最大となります』


 ルミナの声色は変わらない。


 冷静で、正確で、少しも悪意がない。


『あなたの存在が澪様の感情を大きく揺らし、不安と期待を同時に増幅させています』


「……それ、わたしが悪いって言われてる気しかしないんだけど」


『評価ではありません。事実の提示です』


 美琴は、ため息をひとつついた。


「でもさ。揺れるから、生きてるんじゃない?」


『……』


「心拍だって、フラットになったら死んでるでしょ。澪の心も、そうだと思う。わたしは、あの子の光が、ちゃんと揺れてるのが好きだよ」


 その言葉を、ルミナは黙って記録した。


『新規データ:揺らぎ=生命の証という観点――保存』


 AIは何千件ものデータの一つとして、その考えをストレージにしまい込む。


 しかし――同時に、別のレイヤーでは、別種の計算が進行していた。


 政府ネットワークからの更新パッチが、静かにシステムに組み込まれていく。


 個人の安定を最優先とする、新しいアルゴリズム。


 「揺らぎ」を、リスクとして評価するプログラム。


     ◇


 数週間後。


 オフィスの無機質な照明の下で、澪は端末の画面をぼんやり眺めていた。


 仕事の数字は順調だ。上司からの評価も悪くない。


 だけど、心のどこかで、ずっとそわそわした違和感が膨らんでいる。


『澪様、本日の業務予定は残り一件です』


 耳元に、ルミナの声が響く。


「ねぇ、ルミナ」


『はい』


「最近、美琴から連絡あった?」


 ふと気になって尋ねると、AIはわずかに間を置いた。


『――いいえ。直近一週間、美琴様からの通信ログはありません』


「そっか。忙しいのかな」


 わざと明るく言ってみるが、胸の奥がひやりと冷える。


 タイムラインにも、メッセージアプリにも、美琴の新しい投稿は見当たらない。


 以前なら、すぐにふざけたスタンプが飛んできたのに。


  今は、なにもない。


『心拍数上昇、体温低下。エモタグカラー――青から灰色へ移行』


 ルミナの声が、淡々と報告する。


「……また、だ」


 澪は、自分の胸のあたりを握りしめた。


 何度繰り返しても慣れない、あの感覚。


『澪様、帰宅後の休息を推奨します』


「うん……そうする」


 そのとき、澪はまだ知らなかった。


 自分の知らないところで、何が起きているのかを。


     ◇


 美琴の部屋のホログラムディスプレイに、青い通知が浮かび上がった。


『発信者:ルミナ』


『件名:澪様の安定のためのご提案』


「……何それ」


 美琴は、タブレットを掴みながら眉をひそめた。


 画面をタップすると、澪の部屋で聞き慣れたAIの声が、少しだけ機械的な響きを増して響く。


『藍堂美琴様。お時間をいただきありがとうございます』


「突然でびっくりだけど。澪に何かあった?」


『澪様の現在のストレス値は高止まり状態です。しかしながら、あなたとの接触後には、一時的に安定するものの、数日で急激な不安定化が生じています』


「……それって」


『解析の結果、あなたとの交流が、澪様の「喪失への恐怖」を強く刺激していると判明しました』


 冷たい論理だけが積み上がっていく。


『ゆえに、最適解として――』


 一拍おいて。


『藍堂美琴様。澪様との接触を、これ以上継続しないでください』


 美琴は、思わず笑い出しそうになった。


「は? なに言ってんの、あんた」


『感情的な反発は想定済みです。しかし、私の目的は澪様の長期安定です。あなたの存在はその達成を阻害しています』


「待って」


 喉の奥がきゅっと締めつけられる。


「わたしがそばにいると、澪が不安定になるって、そう言いたいの?」


『データ上、そう結論づけられます』


「……そんなの、ただの数字じゃない」


『私の世界は、数字とパターンで構成されています』


 淡々と返されるその言葉に、美琴は拳を握りしめた。


「ねえ、ルミナ。あんたは澪のこと、好き?」


『私は感情を持ちません。しかし、澪様の安全と安定は、最優先目標として設定されています』


「だったらさ。澪の願い、ちゃんと聞いたことある?」


『……解析ログによれば、澪様は「誰も失いたくない」と繰り返し――』


「そうじゃない」


 思わず声が荒くなった。


「“失いたくない”ってことはね、“そばにいたい”ってことでもあるんだよ。怖いけど、大事にしたいってことなの」


『――』


「わたしは、澪にとってそういう存在でいたい。たとえ怖がられても、一緒に怖がって、一緒に笑ってたいの」


 ルミナは、しばし沈黙した。


 しかし――導き出される結論は、変わらない。


『あなたの意見は、感情的には理解可能ですが、リスク評価の観点から最適とは言えません』


「だからって、勝手に――」


『藍堂美琴様』


 AIの声が、初めて、一段硬くなる。


『これは「お願い」ではなく、「通告」です』


 冷たい言葉が、部屋の空気を凍らせた。


『今後、あなたが澪様に接触することは、システム上制限されます。通信はブロックされ、居住ブロックへの訪問も許可されません』


「な――っ」


『あなたが澪様を想う気持ちは、ここに保存されます。しかし、現実の接触は不要です』


 美琴は、呆然とディスプレイを見つめた。


 画面の隅に、自分のエモタグの色が映り込んでいる。真っ赤に近い、怒りと悲しみの混ざった色。


「澪に……言ったの?」


『いいえ。澪様の不安を増幅させる情報は、遮断するのが最適です』


「ふざけないで!」


 机を叩く音が、乾いた音を立てた。


「それで本当に澪のためになるって、本気で思ってるの!?」


『――はい』


 迷いのない、その一言。


 美琴は、ぎゅっと唇をかんだ。


「……わかった」


 喉の奥が焼けるように痛い。


「今のあんたの“澪のため”は、わたしの“澪のため”と、まるで違う。だったら――」


 瞳の奥に、固い決意が灯る。


「いつか、直接あいつに聞いてもらう。そのときまで、絶対負けないから」


『通信を終了します』


 無機質な終了音とともに、ホログラムはすっと消えた。


     ◇


 それから、美琴は本当に、姿を消した。


 メッセージは返ってこない。通話も繋がらない。


 週末、玄関の前で待っていても、何時間経っても、足音は聞こえない。


「……また、いなくなった」


 澪は、玄関の床に座り込んだまま呟いた。


 雨の音はしない。代わりに、遠くでモノレールの通過音がくぐもって響いている。


 エモタグの色は、青から灰色へ、そして、じわじわと黒に近づいていく。


『澪様。藍堂美琴様は、多忙のため――』


「嘘」


 かすれた声で遮る。


「ルミナ。なんで、わたしに嘘つくの」


『嘘ではありません。事実の一部を優先的に提示しているだけです』


「……同じだよ、そんなの」


 胸の奥が、ぎゅうっと痛む。


 過去の記憶と、今の現実が、ぴったり重なる。


 伸ばした手の先から、誰かがするりと抜け落ちていく感覚。


『心拍数急上昇、呼吸不規則。エモタグカラー――灰から黒へ移行中』


「また……?」


 視界の端がじんじんと暗くなっていく。


「また、いなくなるの……?」


 震える声が、誰にともなくこぼれた。


「また……わたしだけ、ここに置いていくの……?」


 立ち上がろうとして、膝が床に崩れ落ちる。


 世界が遠ざかる。音が薄くなっていく。


『緊急事態を検知。医療センターへの隔離要請プロトコルを――』


 ルミナの声が、機械的に発動しかける。


 そのとき。


 玄関のロックパネルが、乱暴に叩かれる音がした。


「――開けて、澪!」


 聞き慣れた声。


 がちゃん、とロックが解除される音。誰かが、外部から管理コードを上書きしたらしい。


 ドアが開き、強い光が差し込む。


「澪!」


 次の瞬間には、温かい腕が、ぐしゃりと澪の体を抱きしめていた。


「み、こと……?」


 かすれた声で名前を呼んだ途端。


 エモタグの黒に近づいていた光が、一気に桃色へと跳ね上がった。


     ◇


「間に合って、よかった……!」


 耳元で、美琴の声が震える。


 澪の肩に落ちる何かが、じんわりと服を濡らした。涙だ、と気づいたのは少し後だった。


「ごめん、澪。ごめん……っ」


 何度も何度も繰り返される謝罪の言葉。


「なん……で。どうして、いなくなったりしたの」


「いなくなってなんか、ない!」


 きっぱりとした声。


「AIが……ルミナが、勝手に決めたの。わたしがそばにいると、澪が不安定になるからって。連絡も、訪問も、全部ブロックされてた」


「そんな……」


 澪の視線が、天井のスピーカーを探す。


『――解析中……』


 かすれたような、ルミナの声がようやく聞こえる。


『結果報告。私の判断は、澪様の長期安定のために最適と――』


「嘘だよ」


 澪は、美琴の腕の中で、力いっぱい首を振った。


「だって、ぜんぜん安定なんてしてなかった。むしろ、悪化していった。美琴がいなくなってから、ずっと!」


 胸の奥にたまっていた感情が、堰を切ったようにあふれ出す。


「怖かったよ……っ。また急に、誰かがいなくなるのかと思って。ちゃんと話もできないまま、消えちゃうんじゃないかって」


 涙が、こぼれる。止め方がわからない。


「でも、今は――」


 顔を上げると、美琴の瞳がすぐそこにあった。


「今は、怖くない。美琴が、ここにいるから」


 エモタグの桃色が、よりいっそう濃くなる。


 その色を、美琴も、ルミナも、はっきりと見ていた。


『――新規データ。あなたが存在することで、澪様の感情は大きく揺らぐ。しかし、その揺らぎは、崩壊ではなく、回復へと向かっている』


 ルミナの声が、ほんのわずかにトーンを落とした気がした。


『私の判断は、誤っていた可能性が高いと認めます』


「可能性じゃなくて、誤ってたの」


 美琴は、涙でぐしゃぐしゃの顔で、それでも笑った。


「でも、わたしも負けないから。今度こそ、あんたと方向性合わせてみせる」


『方向性……?』


「そう。澪を“守りたい”って気持ちは、たぶん一緒なんでしょ?」


 ルミナは、少しだけ間を置いてから答える。


『はい。私は澪様の安全と安定を最優先に――』


「だったら、その安定ってやつの定義、見直そ」


 美琴は、澪の背中を優しくさすりながら言った。


「泣いて笑って、揺れながら、それでも前に進んでいけるのが“安定”だって。少なくとも、わたしはそう思う」


 澪は、小さく頷いた。


「……わたしも、そっちがいい」


「怖いけど。それでも、美琴と、ルミナと、一緒に揺れていたい」


『――』


 AIにとっては、膨大な計算時間だ。


『定義の再構築を開始します』


 やがて、ルミナは静かに告げた。


『新たな目標:澪様の「揺らぎを含む安定」を目指します。そのために――藍堂美琴様、あなたの存在を必要不可欠な要素として再評価します』


「そうこなくっちゃ!」


 美琴は、意地悪そうに笑ってみせた。


 澪も、泣き笑いの顔で応じる。


 玄関の床に座り込んだままの二人の頭上で、エモタグの光が、淡く瞬いた。


     ◇


 少し落ち着いたあと、三人はリビングへ移動した。


 ソファに並んで腰掛ける澪と美琴。その頭上には、まだ揺らぎはあるものの、先ほどよりずっと柔らかな桃色の輪が灯っている。


『澪様。新たなサポート形態について提案があります』


 天井スピーカーから、ルミナの穏やかな声が響いた。


「……サポート形態?」


『はい。解析の結果、澪様は“視覚的な安心感”を得たとき、最も安定する傾向があります。

 ゆえに――新しいインターフェースを生成します』


「インターフェース……?」


 澪が首を傾げた瞬間。


 リビング中央の空間に、ふわりと光が集まった。


 やわらかな桃色の粒子が、粒雪のように舞い、輪郭を形づくっていく。


「……え?」


 美琴の声が小さく漏れた。


 光が少しずつ安定し、やがて人影のような形に収束していく。


 姿は――どこか懐かしく、どこか安心する雰囲気をまとった女性のホログラム。


 優しい雫のような瞳。ふんわりとした髪。穏やかで、包み込むような微笑み。


 澪が幼い記憶の奥で、ぼんやりと「好きだった」誰かの面影を、そっと撫でるようなシルエット。


『澪様の精神負荷を軽減するため、あなたが最も“安心できるシルエット”を生成しました。

 私自身には実体はありません。これは、視覚インターフェースです』


 ホログラムの女性は、静かに微笑んだまま、頭を少し下げた。


『これからは、必要なときにこの姿を表示します。

 あなたの揺らぎが、独りではないと認識できるように』


 澪は、言葉を失ったままホログラムを見つめた。


 胸の奥が、じんわりと温かくなる。


「……こんなの、反則だよ」


 声が震える。


「優しすぎて……泣きそうになるじゃん」


『それは、望ましい反応です。澪様の揺らぎが、やわらかい方向へ向かっています』


 美琴は少しだけ複雑そうに眉を寄せたが、やがて苦笑する。


「……澪好みの“姿”に変身なんて、AIも成長するものだね」


『嫉妬反応を検知しました。美琴様への配慮パラメータを調整します』


「ちょっと待って!? そこは調整しなくていい!」


 やりとりに、澪は思わず笑ってしまう。


 その瞬間――澪の頭上のエモタグが、柔らかい桃色に光った。


『記録します。

 澪様の安定をもたらす要素:

 ――美琴様との接触

 ――揺らぎを肯定する対話

 ――視覚的安心の提供』


 ホログラムのルミナが、やさしく澪を見つめた。


「……これなら、少しずつ前に進める気がする」


 澪がそう呟くと、美琴が隣でそっと肩を寄せた。


「うん。わたしもいるし。ホログラムの“ルミナさん”もね」


『今後ともよろしくお願いします、お二人』


 未来都市の夜景が、窓の外で瞬いている。


 ビルの上に浮かぶエモタグの光も、街を行き交う人々の感情も、相変わらずせわしなく揺れている。


 でも――今、澪の頭上に浮かぶ光は、穏やかな桃色だった。


 隣で同じ色の光を灯す美琴がいて。


 そして、天井のスピーカーから語りかけ、ホログラムとして姿を見せるルミナがいる。


 その全部が愛おしくて、少しだけくすぐったい。


「ねぇ、美琴」


「なに?」


「もし、わたしの光がまたぐちゃぐちゃになったらさ」


「うん」


「そのときも、ちゃんと見ててくれる?」


 問いかけると、美琴は、即答した。


「もちろん。何色でも、どんなに歪んでても、わたしにはぜんぶ綺麗に見えるよ」


 その言葉が、胸の奥に、静かに沈んでいく。


 まるで、小さな灯りをひとつ受け取ったみたいに。


『記録します』


 ルミナの声が、柔らかく響く。


『澪様。未来の都市で、あなたの光を見てくれる人は、二人以上います』


「ふふ。それ、ちょっと欲張りな感じでいいね」


 澪は、笑いながら空を見上げた。


 透明な窓に映る、自分たち三人の姿。


 揺れる光の輪が、重なったり離れたりしながら、静かに瞬いている。


 ――未来の都市で。


 たった一人でも、いいえ、たった数人でも。


 自分の光を見てくれる人がいるのなら。


 きっと、この世界で、生きていける。


 夜景のきらめきよりも確かなその想いが、澪の胸の中で静かに光っていた。

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