花芽病
もも
前編
友人の右手の親指の付け根に生えた小さな芽を見詰めながら、俺は呟いた。
「ハナメビョウ」
聞いたことのないその単語に当てはまる漢字が思い浮かばず、音の表面をただなぞる。戸惑いを察した彼は、空中に文字を書くようにゆっくりと指を動かしながら教えてくれた。
「フラワーの『花』、芽が出るの『芽』に『
「それが何だって?」
「僕の病名だよ」
可愛らしい双葉にそっと目を遣ると、いつもの穏やかな彼らしく「そのまんまだよね」と薄く笑う。
三十五度を超える気温が続いていた夏のある日。
数カ月ぶりの連絡にも関わらず、彼は学生の頃みたいに『ちょっとお茶でもしようよ』と気軽に俺を呼び出した。
馴染みの喫茶店で落ち合った彼がやけにすっきりとした顔をしていたので、俺は『長く取り掛かっていた仕事が片付いた』とか、『新しく買い替えた枕が
いわく、きっかけは小さな水膨れだった。
朝起きて歯を磨こうと洗面台に立ち、歯ブラシの先を軽く水で濡らした時、右手にズキリとした痛みが走った。何かと思い視線を向けると、黄色い液体が詰まった水膨れがひとつ、親指の付け根の辺りに出来ていたのだという。
そういえば昨日の夜、やたらこの辺りが痒くてガリガリと爪で掻いた気がする。
その時の傷が水膨れになったのかもしれない。
幼い頃は火であぶった針で表面に穴を開けて父親が中の液体を抜いてくれたが、ネットで調べてみると安易に潰すのも良くないと書かれていた。
そのうちどこかに当たったりして、自然に潰れるのを待とう。
あまり深く考えることなく、彼はそれを放置することにした。
水膨れ自体かなり久しぶりに出来たこともあり、はじめのうちは気に掛けていたが、日々の忙しさにおいては水膨れよりも資料作成の締め切りや会議の準備、取引先との商談の方が彼にとって重要度としては上だった。
一週間程が経過し、意識の中から水膨れの存在が薄くなりかけていた或る日、ふと当該の箇所を見ると水膨れがいつの間にか潰れていることに気が付いた。再び体液として吸収されたのか、あるいはどこかに穴が開いて外へ漏れたのかは分からないが、とにかく液体はすっかり無くなり、周囲よりもやや濃くなった皮膚の色だけがその名残を残していた。
丁寧に保湿剤を塗り込むなどしてケアを心掛けたものの、何日かすると再び親指の付け根部分に痒さを覚えた。市販の塗り薬を塗っても我慢の出来ない痒みが、昼夜を問わず襲ってくる。そのうち、痒みは親指だけでなく肘の裏側、脇や肩、首筋から胸、臍の周囲、鼠径部にまで広がった。爪を使って激しく掻きむしるため皮膚に細かな
問診票にざっと目を通した医者は、掻き傷だらけの腕や腹回りを一瞥すると「湿疹ですね。強めのお薬と痒みを抑える飲み薬を出しておきますので、それで様子を見て下さい」と五分で診察を終えた。
とりあえず指示通りに朝と夜に薬を塗りたくり、眠る前に小さな錠剤を一粒服用したが、それらの薬は何の気休めにもならず、痒みの範囲は太もも、膝、ふくらはぎ、足の甲と全身に広がっていった。
セカンドオピニオンを求め、友人は自宅から電車で二駅隣にあるクチコミでの評判が高いクリニックを訪れた。間もなく五十代に掛かろうかという見た目の皮膚科医は、友人の訴えを適度な相槌を交えながら丁寧に聞き取ると、痒みを訴えている箇所を細かく診た後、「血液検査をしましょう」と言ったのだという。
「小さいスピッツ四本分ぐらい抜かれてさ。献血以外で血をとられたのが初めてだったから、赤い血液がどんどん溜まっていく様子とかまじまじと見ちゃったよね」
かつて「インフルエンザなんて
一週間後、検査結果を伝えたいと連絡があり、病院を訪問した彼に告げられた病名――それが、花芽病だった。
「本当にそんな名前の病気があるのか? 聞いたことないけど」
「
「どうして」
「芽が出たら、百パーセントの確率で半年以内に死んじゃうからだって」
目の前にあるアイスティーのグラスから、カランと音がした。
出来過ぎたタイミングだ。
そんな演出は要らない。
「どういう人がどんな理由で罹るのかとか、どんな薬が効くのかとか何も分かってない癖に死ぬことだけは確実だなんて、そんな病気、公表したら大騒ぎになるだろ?」
「そりゃ確かにそうだけど、だからって」
「この小さい芽も」
俺の言葉を遮るようにして、友人は喋る。
かさついた皮膚から顔を出している、瑞々しい二枚のささやかな葉。
「僕の中にある体液を吸ってどんどん大きくなるって言われたよ。順調に育っていけばっていうのも変な話だけど、最期は山のようにたくさんの花を咲かせるらしくてさ。花粉症の僕からすれば、ぜひともノー花粉でお願いしたいところだね」
ははっと彼は笑う。
その声から感情の揺らぎは感じられない。
俺とは対照的に。
「百パーセントなんて、分からないだろ。お前がそのパーセンテージを崩す最初の一人になることだってあるんじゃないか」
「医者が断言するなんて、余程だよ」
「そんな芽、引っこ抜きゃいいんだ」
「身体中根っこだらけなのに、意味がない」
「セカンドオピニオンが間違ってるって線はどうだ。今からでも遅くない、サードでもフォースでも、納得出来る診断をしてもらえる医者を探して診てもらおう。俺も付き添うからさ」
「こんな珍しい病気、診断を誤るなんてあり得ないって」
「あり得るだろ!」
テーブルを叩く音と音量の調節を間違えたかのような俺の叫び声が響く。
冷たい頭、火照った顔、震える声、前のめりの姿勢――それらを静かに見詰める彼の目。
すべての可能性は、彼の中でとうの昔に通り過ぎたことなのだと俺は知る。
希望に繋がる糸を探したけれど、そのどれもが当たりを引くことはなかったのだろう。
考えて、悩んで、苦しんで、迷って。
悔やんで、怒って、諦めて。
――受け入れた。
――受け入れるしかなかった。
そんな人間を前に、これ以上何が言えるというのか。
俺は浮かせかけた腰を元の位置に戻して尋ねた。
「……これからどうするんだ」
「とりあえず入院するよ」
「いつから」
「今日の夕方から行こうと思う」
「急だな」
「出来るだけ早くって言われててね」
「お見舞いに行くよ。何ていう病院?」
「ありがとう。でも病気が病気だけに、僕は隔離されるらしくてさ。きっと来てくれても会えないと思うから、どこの病院かは言わないでおくよ」
気持ちだけ貰うねと、目の前の友人は優しく微笑んだ。
恐らく彼は入院中、珍しい症例として様々な検査を受けたり、色々な薬を投与されるのだろう。彼の身体が知らない誰かによって暴かれ、弄ばれることを考えると、俺は胃の辺りが腹立ちで熱くなった。
まだ三分の一も飲み終わっていないのに、アイスティーの氷はすっかり溶けてしまい、グラスは水滴だらけになっている。友人はストローを使わずそのままグイと一口飲むと、改めて俺の顔を見て言った。
「君にだけは、直接言いたかったんだ」
――ありがとう。
止めろよと言い掛けて、堪えた。
何に対するありがとうなんだと問いたかったが、飲み込んだ。
近くにいてやることも出来ない現実を嘆く代わりに、俺は精一杯口角を上げた。
「俺の方こそ、ありがとう」
友人は穏やかな笑みを浮かべて、頷く。
この先の人生において、これ程までに言葉と心が乖離した『ありがとう』を言うことは、もう二度とないだろう。
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