第2話 夫の沈黙



「……はい、分かりました。ありがとうございます。楽しみにしています」


 私は努めて明るい声でそう言い、通話を切った。

 スマホの画面が暗くなると同時に、我的表情からも血の気が引いていくのが分かる。


 車内には重苦しい沈黙が流れていた。

 信号待ちで停車したタイミングで、誠がおずおずと口を開く。


「……父さん、なんて?」


「来週の日曜、食事に行こうって。いいステーキ屋を予約したからって」


「うわ、ステーキか……」


 誠は露骨に嫌そうな顔をした。

 彼だって、父親との食事が楽しくないことは分かっているのだ。毎回、店員への説教や料理への難癖を聞かされ、味がしない肉を噛みしめるだけの時間なのだから。


「断る?」


 私が少しの期待を込めて聞くと、誠は即座に首を横に振った。


「無理だよ。せっかく予約したのに断ったら、それこそ何言われるか……。機嫌損ねると、後で実家に呼び出されて説教コースだし」


「……はあ」


 深い深いため息が出た。

 結局、私たちは「義父の機嫌」という爆弾を処理するために、休日を捧げなければならないのだ。


「ねえ、誠」


「ん?」


「今度の食事会、もしお義父さんがまた店員さんに文句言い出したら、今度はあなたが止めてよ」


 私は信号が変わって走り出した車の横顔を見つめた。

 さっきのスーパーでの一件。私が頭を下げている間、隠れていた夫。その埋め合わせをしてほしい、という至極真っ当な要求のはずだった。


 しかし、誠の反応は鈍い。


「いや……俺が言っても聞かないよ、あの人は」


「聞くか聞かないかじゃなくて、あなたが『それはダメだ』って意思表示をすることが大事なんでしょ?」


「美咲は分かってないんだよ」


 誠が少し苛立ったようにハンドルを握り直す。

 普段は温厚な彼が、父親の話になるとこうして心を閉ざす。


「父さんは、自分が絶対なんだ。俺が口答えなんかしたら、火に油を注ぐだけなんだよ。昔からそうだった。俺が何を言っても、倍以上の声で怒鳴られて、最後は俺が謝るまで終わらないんだ」


 誠の声が、微かに震えているように聞こえた。


 横目で見ると、彼の顔色は悪い。

 単に「面倒くさい」という感情だけではない、もっと根源的な――そう、恐怖に近い感情が見え隠れしていた。


「……昔から、そんなに厳しかったの?」


「厳しいなんてもんじゃないよ。支配だよ、支配。母さんも逆らえなかったし、俺なんか口を開けば否定された。……だから、黙って嵐が過ぎるのを待つのが一番なんだよ」


 誠はそう吐き捨てると、もうこの話は終わりだと言わんばかりにカーオーディオのボリュームを少し上げた。


 彼の言い分も、理屈としては分かる。

 子供の頃から高圧的な親に育てられれば、学習性無力感――「何をしても無駄だ」という諦めが染み付いてしまうこともあるだろう。彼もまた、義父という毒親の被害者なのかもしれない。


 でも。

 だからといって、今の彼が「共犯者」でいていい理由にはならない。


「誠が怖いのは分かったけどさ」


 私は静かに、しかしきっぱりと言った。


「そのしわ寄せが、店員さんや、私に来てるってことは忘れないでね」


 誠は何も答えなかった。ただ、居心地が悪そうに視線を前に固定しているだけだ。

 この沈黙こそが、彼の処世術であり、最大の欠点だ。


 家に帰ってからも、私たちはその話題に触れなかった。

 ただカレンダーの来週の日曜日の欄に『義父食事会』と書き込む私のペンの筆圧だけが、やけに強くなった。


 そして、憂鬱な一週間が過ぎ、約束の日曜日がやってきた。


 指定されたのは、駅前にある少し高級なステーキハウスだった。


「お、来たか。遅いぞ」


 店の前で、義父が腕組みをして待っていた。

 時刻は予約の十分前。私たちは遅刻していない。義父が早すぎるだけだ。


「すみません、お義父さん。お待たせしました」


「おう。今日は奮発して高いコース予約したからな。感謝しろよ」


「ありがとうございます……」


 誠はすでに「借りてきた猫」モードに入り、背中を丸めて義父の後ろをついていく。

 自動ドアが開き、芳ばしい肉の香りが漂ってくる。本来なら心躍るはずの香りが、今日は戦場の火薬の匂いにしか思えない。


(どうか、今日は何も起きませんように……)


 私のささやかな願いは、入店して席に着くまでのわずか三分で、脆くも崩れ去ることになる。


「おい店員! なんだこの席は! 予約の時に『静かな席』って言っただろうが! 厨房の近くじゃねえか!」


 店内に、義父の怒声が響き渡った。


 ああ、始まった。

 私は隣で石のように固まる夫を横目で見ながら、覚悟を決めて「笑顔の仮面」を装着した。

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