1章 5節
(1)
冬が終わるまでの2ヶ月、それが果てしなく遠い時間か
寝て起きての繰り返しのあっという間になるか。
何れにせよヘムロックという人間にとっての
転換点になることが予想された。
今はまだ小規模ながらその気質が人間から魔物へと転化されたことにより
着実に変化している事を彼自身がよく自覚している。
人間から魔物へ肉体的変化が発生した場合、
まず自覚性が高いのは摂食の変容で、
生物的食性に著しい変化を及ぼす。
どのような変化を伴うのかは魔物の種によるが、
大抵の場合は人間が行うには苦痛を伴う結果になる。
ヘムロックが知る限りではこの段階で現実を受け止めきれず、
精神に異常を来す者が多かった。
人間に限らず生命維持に不可欠な摂食と自己領域である
好物の外因性不許、食事が及ぼす精神の安定化の影響は
著しく、魔物と人間の中間に属する者がその第一歩で、
挫けるのは必然に等しかった。
極端に謂えば口に入れたくも無い概念を、生きる為に食らうというのは、
彼らにとっては永遠に続く拷問のようなもので、
自分が怪物だと恥辱され続ける地獄の日々が続く。
幸いにもヘムロックが成り果てたのは人に非常に近い種らしく
味覚自体の変質はそこまで無かった。しかし潜在的に
感覚が迎合を始めており、毒物を察知する為に一切の味付けをしない。
そんな食事をしてきた彼が、彼女としての味覚へ迎合することへ、
不快感と抵抗を生じさせた。
(2)
鉄板に乗ったステーキを見つめ、肘をついて頬杖をついた。
「まだお肉が硬かった?」
「いや、ちょっと考え事してるだけだ」
過去、魔物に成り果てた者たちを思い返す。
腐肉を食らわなければならなかった彼らと比べて、自分は相当に幸運なほうだろう。
自己領域への侵犯は傷病であっても耐えがたく、
将来永劫に続く生物としての変容を背負った彼らから見れば、
人の生活を保てている事は幸いなことでしかない。
しかし、彼らに大した行いもできず、それを無抵抗に享受している事に他ならない。
食べ物の味が鮮明になり肉体的に求めるようになった程度で
憂鬱な気分になるのなら彼らの負荷は……。
粗食を続けてきたヘムロックにも、質の良い肉だとわかった。
安い牛の筋ばった切り落としではなく、柔らかな肉質に、脂質が舌に感じ取れる。
リンゴを合わせたソースで臭みを取っていて雑味が残らない。
彼がこの地に迷い込む前でも、相応の値が張る食事。
空腹に耐えられても与えられる贅には不寛容で、素直に味を楽しむ事が出来ない。
淡々と口に運び、味がしないうちに飲み込む。
その心の内側では味わいを楽しむ意思と反逆する欲求が芽生え始めており、
浸潤を白眼視するが消し去る術も無く見送り続けるしかなかった。
(3)
冬が明けるまでの残り二ヶ月、人間としての人格をどう保つか。
今までの例では記憶が混濁し覚えの無い知識と感覚によって、
自我が書き換えられてしまう。
対処法は付け足された知識領域の区別化をし、可能な限り使わない事だが、
常に意識し続けるのは厳しい。
部屋の隅に積まれた荷物の中から、手帳を取り出して見直した。
今までの仕事、出来事の些細な日時の記録。
魔物に成り果てた人々の残滓を拾い上げた。
その一項目は植物の魔物、アルラウネと呼ばれる者に変異した
恩人の記録、右も左も判らない自分にこの世界の仕組みを教え
生きるための仕事を与えてくれた。
一度目は人として、二度目にはその身をもってして。
改めて見直すと、魔物と人間の中間として生きる事を選べた者は少ない。
誇り無き生よりも尊厳死を選ぶのは、
人間としての唯一の誇りを保つ為の最期の選択だ。
結局、四十九人のうち生き続けると決められたのは、
たったの六人しかいなかった。
彼らから学べるのは、魔物としての生に誇りを持つ事だ。
誇りとはつまり力と才能に溺没する事ではなく、
その能力を自身の一部として認めることだ。
だが、これが出来る者は数字の通りに少ない。
現実に存在する強い力が人を変えるように、
一歩間違えれば魔物そのものに心が変わってしまう。
人間性を守りながら人智の及ばない力を使うのは並大抵の精神性ではない。
努力で補える領域とも思えない。
ヘムロックが出した結論は、記憶を保持するにはその鮮度を保ち
過去に行ってきた生活を繰り返すことで生彩さで浸潤を防ぐ
今に繋がる過去を再現し続ければ時間を稼ぐことが出来ると判断した。
彼ら六人のような強い意思を持ち続けられるとは思えない。
現実的な問題として自分はしくじり、罠にはまり、今の時間は
僅かな猶予として与えられただけに過ぎないはず。
出来る限り再起を目指したいが、それが何よりも難しいと知っている。
だからこそ彼が彼女になる前に、
完全に自分が失われる前に目的だけは達しなければならない。
希望は失ってはならないが、いつ崩れてもおかしくない
崖の上に立っているのも事実、それを念頭に置かなければならない。
(4)
手始めに、習慣を再び続け直す。拳銃を台紙に置き、整備をする。
かつては自分の手には少し小さかった。今では手に余らせる大きさ。
今の細指では片手で引き金に触れることすら出来ない。
細く小さく、柔らかになった指先、雪球を固めるのさえ手こずった。
落ち込むのにも慣れてきて、溜息で一瞥しぎこちなく分解を始める。
十ヶ月以上放置されていたが、幸い錆びてはいない。
弾倉を外し、ピンを抜き、上部の装薬スライドを外し、バネを引き抜き、
もう片方の長物の銃の下部から整備用のロッドを引き抜き、
先端に潤滑油をしみ込ませた整備用のロール紙を巻く。
それをスライドから外した筒型の銃口に挿し入れ、内径に沿うように
回していくと燃え残った火薬と鉄の残骸が削げ落ちる
長物の銃の底部にあるポケットからツールカプセルを取り出し
ブラシとドライバーを取る。ネジを外しグリップ(持ち手)側面の
プレートを外し、錆止め用のグリスを均等に塗りつける
余分な油脂をふき取り再びネジ止めをし、装薬スライドを戻す
これをやりきるまでに本来十分で済むはずが三十分もかかり
ドライバーで指を二回切り、傷口は瞬きの間に塞がり、
スライドに指を挟むが、痛みはまったく感じなかった。
彼女はじっとそれらの様子を観察していた。
「男だった時でも、五歳の時には五分で出来たのにな…」
(5)
手慰み程度でやたらと疲れを感じ、指が疲れる。
細い指は整備の繊細さには向かず、薄い皮膚は刺激に弱い。
油に塗れた指を洗面台で洗い流し、傷つけたはずの指は
何もないかのように肌の表面に傷ひとつついていなかった。
ヘムロックがサレナを見た時、年齢を特定出来なかった。
顔に皺が無く、シミ、そばかすも無く、蒼い目は少し大きく
幼さの名残を感じさせる。
後に家の中を調べても化粧台はあるのに化粧用具は紅しか無く、
更には風呂の時に見た体つきは子供を産んだ、
つまり彼自身を産んだ産後体型をしていなかった。
人間に当てはめたとして外見は十代から二十代、
唯一の差異はその角長い髪に隠れていて見え辛いが、
耳が真横に伸びるように尖っていることだ。
彼が魔物と断じられたのは外見にそぐわぬ年配者のような振る舞いと
今までに見てきた危険な類の魔物と同じ肌感覚で見抜いた。
言語化出来ない領域で人と逸脱した"それ”を薄い絹のように被り、
一目見た途端に直感のように働く。角や尖った耳などは
“それ”の補佐にしか過ぎない。
彼女自身もその感覚を己の身から感じ取っていた。
サレナとは違い微弱だが、目を閉じ意識を集中すると感じ取れる。
心音とは別に電子機器の高周波のように不可視ながら
かすかに存在を感じ取れる。この波長を持った者は、
どのような姿形をしていても関わってはならないと決めていた。
だが、波長を隠し弱者に擬態する者すらいる。
それが一瞬の判断を迷わせ、結果として彼を彼女に変えた。
手を洗い終わり、部屋に戻ると毛布を被り、目を閉じた。
遊び疲れのように気だるさが表れ、考える間もなく
彼女を睡魔の中に誘い込んだ。
(6)
「ねぇねぇ、ちょっと話さない?」
間近での声、寝台に寝そべるヘムロックが目を開く。
途端にサレナの顔が目前にあり、彼女は逃れるように後ろに跳ね、
寝台の向こうの壁に後頭部と背を思い切りぶつけ、
鈍い痛みに今度は身が縮こまる。
低い声で呻く彼女をサレナはその頭を撫でた。
「ご、ごめんなさい、まさかそんなに驚くなんて……!」
「……何の用だ」
指先の傷とは違い、打ち付けた痛みは鋭く、そして鈍い。
サレナが頭と背を撫でると、不思議と痛みは引いていった。
部屋の明かりはついていて、昼から夜に変わっていた。
「それで、何が話したいって…?」
ぶっきらぼうな様子で尋ねる彼女に、サレナは返す。
「あなたが狩人だった時の事、教えてくれる?」
サレナが訊くとは思っていなかった質問だった。
つまるところ同属殺しの手段やら、場所やらについて、
詳しく話せと言われたのだ。ヘムロックが不可解に感じるのは当然のことだ。
「聴いたところで身内殺しの話しか出ないが?」
「私の家族はあなただけよ。それに、あなたがやった事で、
何かがどう変わるほど、彼女たちは弱くないわ」
嗜めているのか見下しているのか判らない返事で面食らうヘムロック。
相手が人間よりも格上だと自覚させる為の言葉と捉えた。
「べ、別にあなたを責めたわけじゃないんだけど…。
あなたが思うよりも、ひどいことにはなってないのよ?」
ヘムロックの嫌悪の気色を感じ取り、取り繕うように言った。
演技か素か判別つかないが、引き伸ばしても意味の無い会話だ。
さっさと話して終わらせよう。
「それで、何を訊きたい?」
「そうね。人狼を退治した話を教えてくれる?
それであなた有名になったのよ。私たちの世界で」
(7)
鉄と硫黄の化合物が燃え上がり、魔女の弟子が風を作り出し
黄色い煙が人狼達の巣窟になっている森へと届いた。
森を取り囲むようにおよそ三十の数の焚き火から立ち上がる煙は
木々に染み入るように漂い、異変を感じた動物達が騒ぎ出した。
「旦那、成功ですよ。俺が送った風で燻りだせそうです」
魔女の弟子と名乗る十五歳の少年は、手柄を誇るように言った。
「助かった。これを銀行に持っていけ。礼金だ」
二ヶ月遊んで暮らせる値の小切手を受け取り、目を躍らせる。
人狼で悩まされていた村の少年は、志願して魔女の弟子になった。
茶色の波打つ髪を顔の前に三日月のようにそろえて垂らしている。
魔女が誂えた金の飾り襟の逆三角の前掛けを着飾り
会得したばかりの呪術が役立った事に誇りを抱いていた。
満月、深夜の静まった森を囲うように焚き火が炊かれた。煙が立ち昇る。
森への立ち入りを封じる鉄の柵を通り抜け、より深くへと。
毒性のある黄色の煙は動物を窒息させ、その喉を焦がす。
悲鳴を上げるもの、のたうちまわるもので動物たちの狂騒が響く。
焚き火に火をつけた村人達はその異様さにたじろぎはじめる。
「小石を積んだ馬車で道を封鎖して、馬車を縦に鉄砲隊を配置しろ」
狩人、デビッドことヘムロックの指示に従い、前もって用意された鉱山用の馬車が、
森への道が人々に押され、森への入り口を塞ぐ形で停められた。
「長槍持ちは馬車の後ろの鉄砲隊の隣へ、予備鉄砲隊はそのすぐ後ろへ」
火打ち石を取り付け、銃口から火薬と弾丸の小石を込め狙いを定める。
普段は閉じられていた鉄の門が開かれ、開けた道の奥からは何百もの
獣の泣き声が轟き、徐々に迫ってきていた。
「南方、崖上に登って観測と火炎瓶の準備」
森を見下ろせる南の崖には五、六人の村人が集まって、
一人はカゴに無数に積まれた瓶に麻布を、もう一人は松明を片手に、
残りはその二人の様子を崖先でじっと見ていた。
森の奥に仕掛けられた鳴子が音を立てる。
空洞の缶詰に無数に入れられた釘が内部でぶつかり甲高く響く。
「射撃準備、鉄砲一番隊、構えろ」
小石の乗る馬車に身を乗り出し、鉄門の先へ狙いをつける
「槍は鉄砲隊の横で突き出しの姿勢で待機、火蓋を切れ」
森の奥で影が動いた。鉄の門と柵で封鎖された森から逃れるには
門への道を通るしかなかった。
「ひきつけ、まだまだ…。鳴子が鳴るまで待て」
何十、何百もの獣たちが煙毒から逃れようと我先にと道を駆ける。
(8)
鳴子の音が響いた。「撃てッ!!」叫ばれた。
目の前の有象無象の影へ、短銃の弾丸が連発された。
一人が一発のみしか撃てない銃を、大勢が一斉に引き金に触れ
連発銃のように瞬く間に撃ちきる。
「交代、二番隊!」
一度撃ち終わると馬車の後方へ戻り、銃に火薬と弾を込め直す
その間に二番隊に指定された村人が入れ替わり、馬車に銃を乗せ
再び掃射する。運よく弾丸を逃れた獣、動物の狼は馬車を飛び越えて
逃げ切ろうとする。しかし散り散りの数匹は構えられた無数の槍に
自ら飛び込み、頚を、顔を、胸を突かれて絶命していく。
影の大半は狼であった。しかし、無思慮な弾丸はそれ以外も貫いた。
「撃ち方、止め!崖上、警戒準備しろ!」
時間にして十分も満たない間、銃による殺意の宴は続いた。
しかし、共犯者たちには1時間に感じた。
崖上の村人達が身構える。森の奥から、ひとつの人影が見える。
鳴子が引っかかり、音を立てるが小さな唸り声と同時に地に転がり
断末魔のように小さく鳴いた。
入り口を越え、影から現れたのは村人達が狩るために依頼を出した
かつて番いだった人狼だった。双方とも人間の少女の姿をしており、
片方は黒い体毛を腕と脚に生やし、人間離れした大柄な手に爪が伸び
もう片方は白い体毛に華奢な体躯をしている。
「あれがアルファ(群れのリーダー)だな」
「怒ってるみたい、だけど……」
尋常でない様子に、魔女の弟子は後ずさる。
黒毛の人狼はその胸に白毛の人狼を抱いていた。
穢れなき白を思わせる毛は鮮明な赤が混じり、
地にまで届く長く太い尾は途中で千切れていた。
黒毛の人狼も腕や腹、額から血を流している。
村人達の弾丸が何発も命中し、人間ならば致死に値する怪我。
だが、それでも人狼は生きていた。血の涙を流しながら、
片目だけで村人の中から、誰がこんなことを企んだのか
それを見定めているように見回した。
(9)
ヘムロックはゆっくりと近づいていく。右手には剣のようなナイフ。
それを見て、黒毛の人狼は胸に抱いた人狼を門に持たれかけさせた。
いたわりのまなざしを向ける横顔と、つがいの肩に手を置き、気遣うように
そっと抱きしめ、そしてゆっくりと離し、ヘムロックへ向き直った。
その縦長の眼は彼への殺意により大きく開き、捲れ上がった唇からは、
いまや遅しとばかりに尖った歯が並ぶ。
魔女の弟子は馬車の後ろでそれを見ていた。
鈍く光る銀のナイフが構えられる。互いの間合いを計るように、
円を描くようにゆっくりと歩く。
馬車から、小石が落ちて、小さく鳴った。
一瞬、ヘムロックが眼をそらした。その瞬間を人狼は見逃すことは無かった。
大きな手の爪が大きく伸び、彼の頚を刎ね飛ばそうとする。
大きく振り上げ、一瞬の跳躍で地面を蹴る。その瞬間地面から、
石を打ちつけたような音と、火花が一直線に飛び上がるのを皆が見た。
その途端人狼は体勢を大きく崩し、飛び上がりを誤り、地面へと転がった。
途端、脚に激痛が走り、もがき苦しみながら太ももを押さえた。
大人の親指ほどの太さの穴が、脚に開いていた。
地面には弾丸が埋められており、それは人狼が体重をかけた時に沈み
雷管を叩いた時に発射される仕掛けがされていた。
ヘムロックは刃物で戦う気など毛頭も無かった。
相手を誘い、何百発という銃弾の地雷原におびき寄せ、その罠が発動するよう
煽っただけに過ぎない。それに獣はまんまと引っかかり、
小石とは比べ物にならない激痛を負わされ、それを見下ろすヘムロックへ、
抗議するように何かを叫び続けた。
「火炎瓶を投げつけろ」
手を上げて合図する。馬車の裏にいた村人たちへ告げる
「地面の弾が飛んでくる。音が止むまで顔を出すな」
火炎瓶の一つ目が人狼に向けて投げつけられる。
動けない人狼は手で振り払い、1つ目を弾いた。
だが、二つ、三つと絶え間なく続き、回りの地面を焼いていく。
炎に取り囲まれ、地面の弾丸地雷が誘爆を起こし、更に人狼を傷つける。
弾丸が人狼の腕を傷つけるのと同時に、火炎瓶が焦燥する顔へ激突した。
燃え盛る断末魔は長く響き、しばらくの間木霊する。
それはまるで人狼の憎悪の残滓のようであった。
(10)
麻の布に並べられた狼の死骸をヘムロックは記帳していく。
今後もし人狼と対峙した際、どれほどの獣の狼を率いる事が出来るのか
その目安にする為だった。その夜殺めた数でも軽く百頭は超えた。
人の知能と狼の感覚を持つ人狼が野生の狼の群れを操り、
森の動物の大半を食い荒らしていた。
頂点捕食者の数は草食獣の数に反比例して少なくなければならないが、
知能高き人狼が群れを統率すると加速的に狼の数は増えた。
それを処理する仕事にヘムロックは就いた。
人狼の殺害には既に三人失敗しており、行方不明になっていた。
「あんた、凄いよ。どこであんなやり方覚えたんだよ」
「…親に教わった。それと、本で学んだ」
記帳が終わり、座りながら一服の煙草を吹かすヘムロックに、
好奇の目で魔女の弟子は相席する。
自分が考え付かない手段で効率的に、
そして皆を無傷で勝利に導いた彼を尊敬の意を胸にしていた。
「まだ仕事が残ってる。人狼の検死をしなきゃならない」
「じゃあ、俺も付き合うよ…。二人のほうが早いだろ」
「駄目だ。危険すぎる。死んでないかもしれない」
魔物の真の恐ろしさは人より遥かに頑強な肉体にある。
人狼は人の骨格に鉄のような筋肉と石のような骨を持っており、
剣や銃は役に立たない事も多い。確実に息の根を止めるのなら、
頭部を破壊するか致命的な外傷を負わせるしかない。
なまじ知能が高い為に死んだふりをすることも考えられる。
(11)
魔女の弟子を追い払い、ヘムロックが人狼の死体置き場へ入った。
死体の置かれた小屋は、焦げた臭い腐臭のようなものが漂い、
先走った蝿の群れが飛び交っていた。
明かりを灯し、死体を包む布を広げる。人狼の死骸は一体しかなかった。
まだ燻りの残る、黒毛から燻りの色になった狼の融けた顔。
絶叫の表情のまま固まった隣に、眠るようにしていた白毛の華奢な人狼が、
互いに合わさるように転がっているはずだった。
胸に二回、額に一回、確実に死なせるようにタングステンの弾が貫いた。
脈も計り、体温も失われつつあった。だが、死体の片方がいない。
悲鳴が響いた。森の方からだった。夜明けも近づいていた中、
安息の眠りについていた皆々は起き上がった。
ヘムロックは森の入り口にその姿を見た。
白い人狼は彼を待ち続けているかのように鉄の門の前に佇み、
その歪んだ口には魔女の弟子を咥え上げていた。
意識はなく、吊られるままに脱力し、絶命した獲物のようだった。
「来い、今度は真正面から勝負してやる」
言葉を理解した白の人狼は魔女の弟子を放した。
入り口の周りに小細工はなく。彼と彼女だけの一騎打ちに。
銀色のナイフ、対するは頚を撥ねるために伸び始めた鉄のような爪
互いに構え、向かい合って歩く、徐々に距離が詰まる。
先に人狼が駆ける。続いてヘムロックも走りだす。
あと数十歩駆けると互いに距離が届く、それを見計らい爪を掲げる。
ヘムロックもナイフを掲げた。だが、その次は彼女の予想と大きく違った。
思い切りに人狼へ向けてナイフが投げつけられ。意表を突かれ目で追った。
その一瞬の間に、相手は立ち止まった。地面を滑り、倒れるように。
土ぼこりの舞うその腕に最も獣を狩るのに適した。
先ほど、地雷に使われた弾丸を発射出来る、無慈悲な猟銃が、」
人狼に狙いを澄ましていた。
「獲物が人間の言葉を信じるからだ」
ほんのあと数歩だった。鋼の弾丸は狼の口を通り抜けて、脳髄を砕いた。
爪は空振りし、人狼のその目は悔恨か憎悪のどちらかの涙を流していた。
(12)
夜明けの金色が遥か遠くの山から一筋走った。
ヘムロックは魔女の弟子を起こした。暗がりでも判るほど手酷く、
纏っていた逆三角の金の前掛けは途中から千切れており、
その下の服は使い古しの雑巾のようなボロ切れに変わり果てた。
「脈はある。息もしてる。出血は止まった。おい、大丈夫か」
奇妙なめぐり合わせで、夜に黒の人狼がそうしたのと同じ形で、
ヘムロックは魔女の弟子を抱き上げた。
「体中が軋むように痛い…。すり潰されたみたいだ……」
ボロの一部を顔に被さりながら、呟くように答えた。
息も絶え絶えだが彼は死んではいなかった。
「今は休め。傷に響くぞ」
金色が森を、そして二人を照らし始めた。
「痛い、痛い、く、喉が、喉が…っ!」
太い枝を折るような音が最初に響いた。
その折れ曲がる感触は彼の手にも伝わった。
少年の歳相応の声、叫び声が途中から高くなり、
急激に体重が増加し、ヘムロックの腕から落ちる。
ボロ布に包まれながら、痛みにあがく声はまるで少女のようで、
愕然とそれを見つめる他なかった。これを体験するのは
彼で二度目だった。
助けて、と高い声で叫びながら布間から出した手に、
音を立てて体毛が生え、呪術用のグローブを突き破り、
先端の鋭い五本爪が生え揃う。
骨が急速に変わり、体つきを内側から変えていく。
その度に痛覚に触れ激痛に変換される。
布切れを引き裂き、歪な音を立て、置換が終わった。
手は大きく太く茶色の体毛が生え、爪は異様に長い。
脚は骨格が変わりつま先で立つような形へ。
震えながら、魔女の弟子だった少年、だった者は立ち上がった。
ヘムロックへ声をかけようとすると、変貌した両手で
腰を押さえ込み、ぽつりと「もうやめてくれ」と述べた。
その言葉は聞き入れられず、その腰のあたりから引き伸ばすように
茶色の艶のある毛を纏った、巨大な尾が突如引き伸び、その感触に
悶えの吐息をこぼし、膝から崩れる。
歯の間から漏らすような吐息を流し、次は頭を押さえる。
「もういいだろ…。もういいだろ…」高くなった声で懇願する。
ずるり、という音を立てて彼の本来の両耳が落ちた。
血は一滴も流れずまるで皮が剥けるように。
それを爪の先でつまみ上げ、愕然とした表情で見つめる。
もう嫌だ、という言葉も虚しく、
次に何が起きるのかはそれを見るしかないヘムロックにも予想出来た。
頭頂部を突き破り、尖った狼の耳が生え揃う。
それと同時に意識が失われた。
数分にわたる悲鳴に、村人たちは集まりだしていた。
そしてヘムロックの足元でうずくまる人狼を見て、驚愕の表情で見た
「もう一匹残っていた。これは仕事をした証拠として俺が預かる」
そう言うと、新たな人狼の少女を重たげに持ち上げ、麻袋に入れて
彼は村の外へと出て行った。報酬も受け取らずに。
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