第四章 第二話
母に言われたとおり、わたしは駅前のデパートに向かった。
これからお世話になる、会社の寮も兼ねているこのアパートの人たちに、挨拶をしなければならない。自分の食費さえ削りたいくらいなのに、何個も菓子折りを買うのは、今のわたしには酷く重い負担だった。
四〇一号室から八号室までの同じ階の人たちと、わたしの部屋の上下にあたる五〇四号室と三〇四号室。
「新しい人間関係」
その言葉が頭をよぎる。もしかしたら、ここで初めての友達ができるかもしれない。これまでの孤独な人生が嘘のように、誰かと笑い合える日が来るのかもしれない。
普通なら、少しは期待に胸を躍らせる場面なのだろう。けれど、わたしは少しも喜べなかった。
新しい誰かと出会うということは、新しい誰かに、わたしの「普通じゃない部分」を悟られるリスクが増えるということだ。それが怖くて、足がすくむ。
「はじめまして。引っ越してきた新人の篠崎亜矢です」
三〇四号室のインターフォンを鳴らしながら、小さく練習のつぶやきを漏らす。
ドアが開いて出てきたのは、わたしと同い年くらいの若い女性だった。
「はじめまして。わたしも新人なの。雨宮椿って言います。仲良くしてね」
椿、と名乗った彼女は、ハキハキとした口調で、迷いのない笑顔を向けてきた。
目の強さ、自信に満ちた佇まいに、わたしは思わず一歩後ずさった。怖い。
彼女はきっと、わたしのような暗い穴の中で生きてきた人間とは、根本的に違う生き物なのだ。
「仲良くしてね」というその一言さえ、わたしには踏み込んではいけない境界線を土足で越えられたような、暴力的な響きに聞こえた。わたしは、この人と仲良くなれる自信なんて、欠片も持てなかった。
逃げるように三階を去り、階段を上って自分の住む四階に戻る。
次は、隣の四〇三号室。
逃げ出したい気持ちを必死に抑えて、インターフォンを押した。
「引っ越してきた新人の篠崎亜矢です」
また、別の同い年くらいの若い女性が出てきた。
「わたし、佐藤南。同期だね。仲良くしてね」
南は、ふんわりとした柔らかい雰囲気の女の子だった。
彼女は、わたしを怖がらせないように、丁寧に言葉を選んで仲良くしようと話しかけてくれる。その優しさは、間違いなく本物だった。
けれど、わたしはやはり、素直に喜ぶことができなかった。
彼女が眩しすぎる。
普通に学校を卒業して、普通に就職して、普通に他人と距離を詰められる。そんな「普通で明るい」彼女を目の当たりにしていると、自分の内側にある淀んだ暗さが、嫌というほど身に染みて悲しくなる。
彼女の隣に並ぶ自分を想像するだけで、自分がどれほど「出来損ない」なのかを突きつけられているようで、胸が苦しくなる。
「あ、うん……。よろしくお願いします」
南の明るい問いかけに、わたしはただ、精一杯、相槌を打つことしかできなかった。
本当は、その場から走り去って、鍵をかけた暗い部屋の中に閉じこもってしまいたかった。
誰かと関わることは、自分の欠陥を鏡で見せつけられることと同じだ。
辛い。
それでも、社会人としての「体裁」を守るために、わたしは引き攣った笑顔を張り付けたまま、南の話を聞き続けた。
南が話している間、わたしの意識はふと、アパートの廊下の隅に溜まった影に向かった。
日当たりの悪い、このグランドエトワール。
ここには、わたしのような人間と、彼女たちのような光の当たる人間が、同じ屋根の下に住んでいる。その歪な事実が、これからの生活をさらに息苦しいものにする予感がして、わたしの背筋には冷たい汗が伝った。
「じゃあ、また明日、会社でね!」
南の元気な声に見送られ、ようやく自分の部屋へ逃げ込む。
ドアを閉め、鍵をかけ、三つの鍵をすべて閉めて、ようやく一息ついた。
菓子折りを渡すという、たったそれだけのことが、わたしの精神をボロボロに削り取っていた。
友達なんて、いらない。
仲良くなんて、したくない。
ただ、わたしを空気のような存在のままにしておいてほしい。
そう願わずにはいられないほど、わたしは、彼女たちの持つ「普通」という光に怯えていた。
けれど。
けれど、本当は。
本当は普通になりたかった。友達を作って、仕事に誇りを持って、普通の社会人になりたかった。
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