夜にだけ昇る太陽 ――『お前は私の非常食だ』と言い張る吸血鬼は、余命わずかな私をどうしても死なせてくれない
水瀬依
序章 きっと溶けてしまう甘さ
とくに、今夜は。
眩しすぎるほどの光に、ルキは思わず目を細めた。ふと視線を上げると、そこに広がっていた空は、人の世で知っている「夜」とはまるで別物だった。
漆黒でもなければ、静寂でもない。
天幕の奥では、淡い紫のオーロラが幾重にも重なり、音もなくほどけるように流れている。
――綺麗だ、なんて。反射的に、そんな言葉が浮かんでしまう。
けれど次の瞬間、胸の奥に理由のわからないざわめきが残った。
この光は、少しだけ落ち着かない。
そのオーロラに包まれるように、街は
頭上を、巨大な光のクジラがゆっくりと泳いでいく。尾びれがはたと揺れるたび、細かな蛍光の粉が舞い落ち、人混みの上を祝福みたいにきらきらと染めていった。
――新年、か。
ルキは小さく息を吐いた。この街はいつだってこうだ。誰かの都合なんて気にも留めず、当たり前のように騒がしく、そして輝いている。
人波は、決して一様じゃない。
タキシード姿で風船を売るゴブリンが、通りの端で子どもたちに囲まれている。
そのすぐ隣では、黒い角を生やした悪魔と、尾を揺らす
ときおり、法衣を纏った人間の
それらが溶け合って、ルキの耳にはただひとつの喧騒として流れ込んでくる。
――騒がしい。
「……くだらない。なのに、目が離せない。」
燃えるように笑って、たった一晩で消えていく。
――この街の時間は、そういうふうにしか、眩しくなれない。
「わぁっ――!ルキ様!見て!あれ!」
隣で、弾んだ声が上がる。
足を止めたのはイノリで、きらびやかな装飾の施された錬金ギフト専門店の前に立っていた。
ショーウィンドウを覗き込むその瞳には、色とりどりの商品が映り込み、楽しげにきらきらと揺れている。
――ああ。
ルキはその横顔から、ほんの一瞬だけ視線を逸らした。
髪は少し伸び、顔色も、最初に拾った頃とは比べものにならないほど良くなっている。
動きやすいように仕立て直した旅用のドレスも、すっかり馴染んでいた。
どこからどう見ても、街歩きを楽しむ、ごく普通の人間の少女。
……だからこそ、なおさら。
袖の中の手は、熱気の中でもまだ冷たい。――体のほうは、笑顔ほど元気じゃない。
「あれは……オルゴール、かしら」
イノリの視線を追って、ルキもショーウィンドウを見る。
「おや、お嬢さん。お目が高い!」
揉み手をしながら店主が近づいてくる。
「こちらは当店自慢の逸品でしてね。コアの歯車は『
誇らしげに胸を張り、さらに言葉を重ねた。
「千年後も、一万年後も――たとえこの魔都の城壁が崩れ落ちようと、この音楽が止まることはありません。人形が錆びることもない!『永遠の愛』の象徴です。恋人への贈り物に、これ以上のものはありませんよ!」
「……永遠、ね」
気づけば、ルキの指先は硝子に触れていた。ひどく冷たい。
その二文字が、胸の奥の柔らかいところを――正確に、刺してくる。吸血鬼である自分には、時間がある。呪いと言っていいほどの、長い時間が。
もし、イノリの時間もここで止められたなら。このオルゴールみたいに、壊れることも老いることもなく――ただ踊り続けていられたなら。
「……包んで頂戴」
ほとんど反射だった。ポケットに手を入れ、金貨を探る。欲しかった。この、冷たくて決して腐らない『永遠』で、心の奥底に巣食う恐怖を、少しでも塞げるのなら――。
だが。指先が金貨の冷たさに触れた瞬間、ルキの動きが止まった。
夜の街の灯が、ショーウィンドウの硝子の奥で静かに溶け合い、ゆっくりと輪郭を結んでいく。
浮かび上がったのは、二つの影。
何百年経っても何一つ変わらない自分と、その隣で笑いながらも、確かに時間を刻んでいるイノリ。
『城壁が崩れても、それは残る』
店主の言葉が、遅れて棘のように蘇る。これを贈って――どうする。老いていく彼女に、変わらない永遠を見せつけて……私は、何を証明したいというの?
掌の中で、金貨がわずかに歪んだ。
「……やめるわ」
踵を返した。自分自身への怒りで、声が低く震えた。
「あんなもの……聞くに堪えない」
自分でも笑ってしまうくらい、聞くに堪えない。
そう言い捨てて、ルキは人波へ踏み出した。
――なのに。
歩幅がひとつぶん進んだだけで、足が止まる。呼び止められた、というより――触れられた気がした。
「ルキ様?」
――気づかれた。
そう思った瞬間、ルキの指先がさらに硬くなる。
……ああ。
(まただ。あの硝子みたいに冷える目だ)
イノリは一瞬だけ息を止めたように見えた。
それでも次の瞬間には、笑ってみせる。声だけは、いつも通りに。
「ルキ様?」
彼女は一度だけ息を吸って、顔にわざと明るい笑みを作った。
それから、そっとルキの固く握られた手を包む。冷たい指の隙間に自分の指を滑り込ませ、強引すぎない力で、拳をほどいていく。指と指が絡んだとき、握り返されて初めて、ルキは自分の手が震えていたことに気づいた。
「確かにそうですね。あれ、
何でもない顔を装って、イノリはわずかに指先へ力をこめ、ルキを引いた。ショーウィンドウの光から、そっと連れ出すように。
「それより……ルキ様。私、あれが欲しいです!」
彼女は通りの向こう側を指差す。
ルキが呆気に取られて振り返った先には、「オーロラ・アイス」を売る小さな屋台があった。錬金術で作られたそのデザートは、オーロラのように美しいが、ふざけた欠陥がある。極めて溶けやすいのだ。保冷庫から出せば、三分と経たずにただの砂糖水になってしまう。
「あれがいいの?」
ルキは片眉を跳ね上げた。粗末な手押し車を見やり、その口調には貴族特有の気難しさと不可解さが滲む。
「あんなもの、錬金術で無理やり冷やしただけの砂糖水の混合物じゃない。舌の上で数秒甘いだけで、胃に入れば何も残らないわ」
彼女は腕を組み、極めて理性的な評価を下した。
「腹の足しにもならないし、栄養もない。純粋に無駄な娯楽よ」
「でも、その数秒間が甘ければ、それで十分じゃないですか?」
イノリは実用主義的な言葉に怯むどころか、さらに満面の笑みを浮かべ、嫌がるルキの手を引いて駆け出した。
「おじさん、二つください!」
屋台の主人は羊の角を生やした亜人の老人だった。慣れた手つきでシロップを
「お、おや……こりゃまた珍しい」
店主は恐縮して手を拭きながら、信じられないといった様子で口を開く。
「高貴な血族の御方が……このような庶民の駄菓子に興味をお持ちとは」
吸血鬼たるもの、古城でワイングラスを傾けてこそ――そう教え込まれてきた。
舌が染まるほど派手な色の、安っぽい甘味なんて。貴族の美学には、いちばん似合わない。
ルキの顔色が半分ほど曇った。子供のように甘いものを欲しがっていると思われるなど、数百年の威厳を持つお嬢様にとって、これほどの屈辱はない。
「はぁ?」
ルキは目を細め、屋台ごと凍らせるような冷たい声を出した。
「誰がそんなもの欲しがると……」
彼女が冷酷な口調で否定し、ついでに店主の節穴の目を嘲笑おうとした――その時だ。
「私が食べたいんです!」
イノリが先に声を上げ、ルキの不機嫌な『
彼女はポーチから銅貨を数枚取り出してカウンターに置くと、店主に茶目っ気たっぷりにウインクしてみせる。まるで秘密を共有するように。
「この御方は、親切で私に付き添ってくださってるだけなんです。それに……」
イノリは振り返り、今にも爆発しそうな吸血鬼を見つめ、目を細めて笑った。
「今日は私の奢りですよ。デートに付き合ってくれたお礼です、ルキ様!」
ルキは出かかった毒舌を無理やり飲み込んだ。
「あなたの顔を立ててあげましたよ」と言わんばかりのイノリの表情を見ては、ため息交じりの鼻声を漏らし、顔を背けるしかなかった。
――それで、いい。
「へい! そういうことなら!」
店主はホッとした様子で、手早く二つのアイスを巻き上げた。
イノリは冷気を漂わせるオーロラ・アイスを受け取った。
そして、その中で最も色が鮮やかで、一番甘そうな一本を、有無を言わさずルキの手に握らせた。
やけに綺麗なアイスは、祝祭の熱にあてられて、もう溶け始めていた。寒さなんて、人混みの中じゃ形だけだ。カラフルなシロップがコーンを伝い、白い指へと流れていた。
「早く一口食べてみてください! ルキ様!」
イノリは目を細めて笑い、急かすように言う。
「今が一番美味しいんですから! 食べないと無くなっちゃいますよ!」
ルキは、そのなくなっていく甘さを見つめた。
脆い。掴んだと思った瞬間に、形を失っていく。
――一分も、持たない幻みたいに。
けれど。灯火の下、一点の陰りもなく笑うイノリの顔を見ていると、ルキにはあの高価なミスリルのオルゴールが、ひどく安っぽいものに思えてきた。
「……ふん。ほんと、馬鹿」
ルキは視線を落として、溶けかけのアイスをそっと齧った。冷たくて、果実の香りがして、甘い。舌の上でぱっと弾けて――胸の奥まで、じんと広がる。
……泣きたくなるほど、甘かった。
「美味しいですか?」
イノリが期待を込めて尋ねる。
「……ええ」
ルキは顔を背け、瞳の奥に滲んだ光を隠した。
「甘すぎるわ。くどい」
吐き捨てるみたいな言い方とは裏腹に、彼女の指先はカップを離さない。
喧騒の海を、巨大な鐘の音がまっすぐに裂いた。
ゴーン――ゴーン――。
その時、広場の中央にある巨大な時計塔が、十二回目の鐘を鳴らした。
だが、それは単なる真夜中の時報ではない。鐘の音と共に、無数の魔法の
「あけましておめでとう――!!」
歓声が瞬く間に鐘の余韻をかき消す。広場は沸騰した。
翼を持つ子供たちが父親の肩に乗り、空に向かって叫びながら光の塵を掴もうとする。ローブを纏った
魔都全体が、平和と喜び、そして希望に満ちた黄金の海へと沈んでいく。
「ルキ様! 見て、見て! 金色の雪!」
イノリが振り返る。頬は興奮で赤く、
笑っている。――まるで、最初からずっと元気だったみたいに。
しかし。その光景を見つめるルキの体は、本能的に強張った。
彼女はこの音が嫌いだ。この「新年」と呼ばれるものが、もっと嫌いだ。
ルキはイノリの歓呼に応えなかった。
……また一年が過ぎた。
ルキはイノリの屈託のない笑顔を見つめながら、心臓を見えない手で鷲掴みにされたような痛みを覚える。
周囲の悪魔や
だが、イノリにとっては……。この一年は、人の手で死神の手から無理やり奪い取った、代償を燃やして得た「引き算」でしかない。
あとどれくらい持つ?
こうして花火を見て笑っていられる日は……あと何回残されている?
世界中が「未来」を叫ぶ中で、ルキの脳裏を占めるのは、狂ったように迫り来る「終局」のことだけだった。
そのとき。べたべたした、まだシロップのついた手が、優しく――それでも逃がさない強さで、ルキの手の甲に重なる。
喧騒と人波の中で、イノリは爪先立ちになって耳元へ顔を寄せた。
「……また、あれのこと考えてた?」
声は
「怖がらないで」
「味さえ覚えていれば……消えてしまったりしませんから」
ルキは、言葉を失った。
誰よりも脆いくせに、今は逆に自分を守ろうとしている――そんな愚かな人間を、呆然と見つめる。
イノリは、ルキの胸の内で荒れ狂うものに気づいていない。ただ、少しだけ顎を上げて、褒められるのを待つ子どもみたいに瞬きをした。
そして、口元に甘い弧を作る。「今」が好きだと言わんばかりの、まっすぐな笑みだった。
その瞬間、ルキは吸い込まれるような感覚に陥った。
一点の曇りもない澄み切った
そこには空一杯に弾ける黄金の
そして、そのすべての広大さと
――それは、ルキ自身だ。
イノリの瞳の中の、いつもは高慢で冷淡な不可侵のお嬢様は、今にも泣き出しそうな、どうしていいかわからない顔をしていた。
……ああ。あなたの目には、私はこんな風に映っていたのね。
鐘の音はまだ響いている。
けれど、その瞳の中の小さな自分を見ていると、あの重苦しい宣告の音が、それほど耳障りではなくなっていた。彼女は、その手を握り返した。指を絡め、この瞬間の体温を骨に刻み込むかのように強く。
永遠も未来も、どうだっていい!
溶ける運命にあるのなら……溶けてしまう前に、この甘さを味わい尽くせばいい。
言葉はもう蛇足だった。二人の間に会話はなく、ただ阿吽の呼吸で静寂へと落ちていく。固く繋いだ手。舞い散る黄金の
いつも張り詰め、どこか人を遠ざけていたルキの横顔が、今ようやく完全に和らいだ。口元には嘲笑も冷笑もなく、隣にいる人間の少女と同じ、優しく晴れやかな弧が描かれている。
広場は人で溢れ、至る所で悪魔たちが歓声を上げ、恋人たちが抱き合っている。だが、無数の種族と無数の笑顔でできた歓喜の海の中で、寄り添う二人の姿は一際眩しく見えた。
その輝きは、魔法とも身分とも無関係だ。それは互いの魂の深奥が共鳴した時にのみ放たれる、暗闇に対抗しうる温度だった。
漫天の花火の光と影の中には、「永遠」という呪いも、「病苦」という絶望もない。
二人はまるで、この世のどこにでもいる平凡な恋人同士に見えた。
「幸福」と名付けられた絵の中へ溶けていって、まるで最初から祝祭の一部だったように。――最初から、いちばん幸せな側にいたように。
花火の光は人波の上を流れて、ふいに途切れた。――その光の届かない縁で。
少し離れたところに、猫耳の少女が大きな画板を背負い、人混みの外に静かに立っていた。
彼女は寄り添うふたりを見つめ、絵筆を握ったまま――けれど、落とさない。
キャンバスは、空白のままだ。
「……こんなの、描いても色褪せちまうよな」
少女は独りごちた。絵筆をポケットにしまい、口元に苦くも優しい笑みを浮かべる。
「……やっぱり、この目だけで覚えておくのが一番だ」
満天の花火が打ち上がり、ふたりの影を長く、長く引き伸ばした。
◆◇
「……うるさい」
冷たい闇の底で、不機嫌な呟きが夢をぶつりと断ち切った。ルキは、引き戻されるように目を開ける。
花火はない。
口の中に残るはずの、あの甘ささえない。
そして何より――あの温かい手が、どこにもない。
見えたのは、くすんだ暗い紅のベルベットの内張りと、冷たく硬い黒塗りの
耳に届くのも祝祭の笑い声じゃない。窓の外で、陰湿な雨音が、まるで永遠に降り止まないみたいに続いていた。
シトシト……シトシト……。
ルキはしばらく
そこにあるのは、虚無みたいな冷気だけ。
「……なによ」
瞳を閉じ、自嘲するように笑う。その声が、がらんとした寝室に寂しく落ちた。
「結局……ただの夢、か」
雨の匂いが、冷たい夜気と一緒に流れ込んできた。
◆◇
作者の言葉:
あとがきまで読んでくださって、本当にありがとうございます。
私は百合ライトノベルが大好きな外国人で、日本語で小説を書くのはこれが初めてです。
まだ日本語力が足りないので、辞書や翻訳ツールにも頼りながら執筆しました。
不自然な日本語やおかしな表現があったら、どうか広い心で受け止めていただけると嬉しいです。
少しでも「面白い」「続きが読みたい」と思っていただけたなら、
これからも応援してもらえると、とても励みになります。
これからも、どうぞよろしくお願いします。
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